後日談

 僕の通う医大は少々遠くて通学に苦労していた。これから学業が大変になっていくことを考えると、できることなら大学近くにアパートの一室でも借りたい。そう思い、わがままを承知で親父とおふくろに懇願した。ただでさえ姉の医療費と僕の学費がかさんで大変なことはわかっていた。しかし僕のわがままを親は聞き入れてくれて、晴れて僕は一人暮らしをすることになった。通学時間の問題が解決しただけではない。これで自由の身になれる、と僕は心の中で諸手を挙げて喜んだ。


 だがそれは姉と離れ離れになることも意味していた。なぜだろう。それを思うと僕の心は晴れなかった。僕がこの家を出ることが決まった時、僕はそっと姉の表情を盗み見た。姉は僕の方をあからさまにつまらなさそうな顔で見ていた。僕はドキッととして姉から目をそらした。




 二年生の春休みの引っ越し当日、ようやくすべての家財を段ボールから出して整理もできて形もついた。外はもう日が落ちつつある。僕はペットボトルのほうじ茶を一気飲みする。


 そこでいきなり勢いよくドアが開いた。逆光を浴びて良く見えないが女性と思われる人影が入り込んでくる。僕はほうじ茶を吹き出しそうになった。いや、ちょっとだけ吹いた。



 それは姉だった。


「じゃーん」


「げほげほごほ」


「なんだよ、パッとしない反応だなあ」


「何しに来たげほ」


「何って、泊まりに?」


「とっ、泊まりっ?」


 僕の心臓はひっくり返るかと思った。よりによって姉が? 僕の部屋に?


「いつ帰るんだよ」


「え? 帰んないよ。ずっといるよ?」


「はあ?!」


 なんだそれ、なんで? いったい何しに? 僕の頭はぐらぐらしてきた。


「ふっふっふー、聞いて驚け、西南区役所の会計年度職員に採用されたのだよー」


 喜色満面の姉の顔。


「なんだって! いつの間に!」


 僕は開いた口が塞がらない。


「なんで黙ってたんだよ」


「その方が面白いと思って」


 姉は得意気でにやにや笑いが止まらい。


「面白くないよ! どうすんだよ布団! 姉さん手ぶらじゃんか!」


「ああ……」


 姉はセッティングしたばかりの狭いベッドを眺めてからすごく嬉しそうに僕を見る。


同衾どうきん、するしかないねえ」


「ばかっ!」


 僕はしゃがみ込んでしまった。


「あああどうすんだよもう適当だなあ」


「駅前の家具屋さん行けば」


「あんな高いとこ僕買えないぞ」


 姉がジャケットの内ポケットから封筒を出して僕の頭をぺしぺし叩く。僕は姉を見上げる。


「これ、康孝おじさんからのご祝儀。これで買いに行こっ」


「ごっ、ご祝儀っ? 僕なんか二束三文だったぞ」


「ふふふー、世の中って不公平なものなのだよ。思い知ったかねゆーくん」


「なんか腹立つ。ま、いっか。それで布団買いに行くか。姉さん疲れてない?」


「ん、だいじょぶ。優しいね」


「そ、そんなことない、さ」


「ねえ、ダブルベッドにしよ?」


「しないっ!」


 そのまま二人で家具店に行って布団を買って配送を頼んでからオープンカフェによる。顔を輝かせてあちこちを眺めて感動しきりの姉。そうか、うちと病院の往復の毎日だったからな。この街の中心街にはあまり来たことがなかったな。これからはもう少し自由に生きられるだろう。そう思うと僕の心は安らいだ。


「ねぇねぇ、芸能人とか来そうなとこだね」


「それはない。あ、でもこの間何かのドラマでロケしてたらしい」


「きゃー」


 両手を口に当てて子供のように喜ぶ姉。


「うるさい」


 帰宅するとほどなくして布団が届いたのでそれを二人で広げた。


「姉さん疲れてたら寝た方がいいよ」


「うん……」


 案の定寝ぼけ眼の姉は僕が寝るはずだったベッドの方にごそごそ潜り込む。


「そっち入るんかい」


 たちまちすやすやと寝息を立てる姉。その寝姿にふと笑みがこぼれる。起きている時は悪魔なのに寝ている時はほんのちょっとだけ……天使かも。


「まさか姉さんが転がり込んでくるなんてなあ」


 その時僕の頭にはっとひらめいたことがあった。冷汗が噴き出る。僕は慌ててスマホを手にし通信アプリを開いた。未読のメッセージがたまっている。ヤバい。これはヤバい。僕は慌てて震える指で返信しようとした。


 ピンポーン


 遅かった。


 呼び鈴を鳴らした主にこの状況を見られたら僕は即死かも知れない。僕は大急ぎで玄関のドアを開ける。


 そこには姉よりずっと背が高くて、姉より肉付きがあって、姉と違ってショートカットの似合う女性が笑顔で立っていた。

 中二の頃僕に告白をした「いい人」の「委員長」だ。高校時代は一時期疎遠になっていたが、高三の時予備校で偶然再会。お互い医学部志望ということで意気投合して共に学び、そして今は同じ医大に通っている。医大合格と同時に改めて彼女から告白を受けた僕はそれを受け交際している。


「お引越しお疲れ、ゆーちゃん」


「お、おう」


「どうしたの? 疲れた? 末梢性疲労まっしょうせいひろうが蓄積してる顔してる。グリコーゲンが枯渇こかつしてるんじゃない?」


 とてつもなく疲れているのは本当だ。


「あ、あのさ、今まだ部屋ぐちゃぐちゃだからさ、す、すぐそばの茶店いこ? 古いけどなんかよさげで――」


「さっき通ったお店かな? 定休日って看板出してたよ」


「そ、それじゃ駅前のオープンカフェ。あそこなかなかおしゃれでよさげで……」


「ゆーちゃん」


「ん?」


「なにかあった? それともなにかあるの? この部屋に」


 彼女が小首をかしげて僕を見つめる。何かに気づいたに違いない。これが女の勘ってやつか。背筋がぞっとした僕は黙ってかぶりを振ることしかできなかった。


「じゃ、いいわよね。おじゃましまーす」


「あわわわわわ」


 狼狽する僕をしり目に彼女は僕……と姉の部屋に入り込む。


 幸いなことに姉は布団を頭からかぶっていて、彼女は姉の存在に気づいていない。


「なんだ、結構片付いてるじゃない」


 彼女は姉の寝ているベッドの反対側の壁を背に座った。僕がその向かい側に座った。


「でもどうしてもう一組布団があるの?」


 彼女の何気ない追及の手は止まない。


「あ、ああ来客用に、と思ってさ……」


「来客用…… 一組だけ……?」


 不思議そうな顔をしていた彼女ははっとする。


「それって……」


 何かに気づいた表情の彼女。


「え?」


「やだもう……」


 彼女は急に照れた表情になる。


「え?」


「でも私、ゆーちゃんと一緒のベッドがいいな……」


 真っ赤になってうつむく彼女。


「ええええ」


 僕にはよくわからない話の飛躍があったようで彼女は急にもじもじしだした。


 とにかくこのまま静かに彼女に出て行ってもらわねば。姉が起きたら僕は即死だ。即死。


 が、まるでスナイパーに狙い撃ちされたようにピンポイントで致命的な命中クリティカルヒットが発生する。


「ううーん」


 姉のうめき声が室内に響いた。


 彼女が固まる。


 僕も固まる。


 姉は寝返りを打つ。顔の目から上と長い髪が布団からあらわになる。


 彼女の位置からその姉の顔がよく見える。目を開けたらばっちり目が合うんじゃないだろうか。


 姉は枕を抱きかかえ最悪な一言をつぶやく。


「ゆーくんのにおいがするぅ……」


 やめろ! だいたいそれ今日おろしたてで僕使ってないぞ! そのセリフ、随分前にも聞いたことあるけど、そういう破壊力のある言葉、弟の彼女の前で言うのやめろよ!絶対やめろよ! どうしてくれるんだよ!


 姉を見る彼女を見ると肩が震えていた。震えながらゆっくりこっちを向いた。怖い。こんな怖い顔をした彼女を僕は見たことがない。ヤバい。即死だ。そして彼女は目にもとまらぬ速さで僕の横っ面を張り倒して立ち上がり、走るようにして部屋を出ていった。ものすごい勢いで扉を閉める大きな音が響く。


 僕は大慌てで彼女にメッセージを送った。必死で送った。着信拒否でないのが不幸中の幸いだった。

 しばらく僕が必死にスマホと格闘していると、姉がむっくり起き上がってきた。僕は怒る気にもなれなかった。


「ねえ、ゆーくん飲み物ない?」


「冷蔵庫にあるだろ。勝手に飲んでろ」


「なあに?機嫌悪いじゃん」


「悪くないっ」


「ふうん、まいっか」


 この時僕はスマホ画面しか見ていなかったが、もし姉の様子に注意を払っていたら、いたずらっぽい顔でぺろっと舌を出していた姉に気づけたかもしれない。

 僕とは逆に姉はしばらくご機嫌だった。

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