最終話 茜川の柿の木と姉弟
僕は一人キャブオーバーの軽トラックで、茜川沿いのでこぼこ道を走っていた。あけ放たれた窓から流れ込む空気は秋深い季節にふさわしい冷たさだった。
昨年医科大学に合格した僕は、姉と同じ病気で苦しむ人を一人でも救いたいと
道の途中で思い出深い場所を通る。姉が僕に「ちゅー」を要求したところだ。思わず苦笑いが漏れる。あそこでもし僕が姉のいうとおりにしていたら、いや、僕がもし「仕返し」をしていたら僕と姉の関係はどうなっていただろう。もしかすると全く違ったものになっていたかもしれない。僕はぞっとしながらも、もしかするとそれはそれでよかったのかもしれないと思ってしまい、自分の幼さにまた苦笑する。
姉の記憶が次から次へとよみがえっては消えていく。柿の木まで一緒に行ったこと、ゲームをしたこと、雪うさぎを作ってあげたこと、ビニールプールではしゃぎまわったこと、桜並木でチョコバナナを食べたこと、手をつないだこと、額にキスしたこと。どれもこれも僕にとってはかけがえのない宝石のような記憶だ。まるで本当の恋人同士のような。フロントグラスの向こうの景色がかすかにゆがんだ。
軽トラの走る道は次第に狭くなっていく。緩やかなカーブを抜けると古木が見えてくる。茜川の柿の木だ。僕たちが初めてあそこに行ってからさらに何年かの年を経て、それでもこの古木は荘厳なままそびえ続けている。
僕は車から降りてその古木へ向かう。相変わらずカラスどもがうるさい。この不吉な姿に石を投げつけてやりたくなる。
柿の根元には一人の人影があった。つやのある長い髪、やや長身でやせ型の体型。双眼鏡を構えてカラスたちを観察している。
僕はその人影に声をかけた。
「迎えに来たよ」
「んー、まだ早いよー」
「早くても遅くても帰ろ。相当冷えてきた」
「仕方ないなあ」
足を引きずってるとはいえ、杖も突かずに小走りに僕のもとに駆け寄ってきた彼女は、僕が手を突っ込んでるポケットにするっと手を突っ込んできた。
「冷たっ!」
「へへへぇ」
ポケットに突っ込んできた冷たい手で僕の手を握る。僕も思わず握り返す。照れくさそうな顔をした彼女が柿の木のカラスを眺めながらぽつりと言う。
「ゆーくんさ」
「うん?」
「早く連れておいでよ、あの子」
「……うん」
「そうしないとさ」
「ん?」
姉は空を見上げる。
「あたしのブラコン治んないよ、いつまでたってもさ」
「なんだ自覚あるんだ」
「ゆーくんのシスコンほどじゃないよぉ」
姉は僕の手をにぎにぎしながら楽しそうに言う。
「うっ…… わかった。早くあいつを連れてきて、姉さんのブラコンに引導渡してやる」
姉は僕を見上げてにやりと笑った。
「ゆーくんの彼女になる人はね」
「うん?」
「あたしより美人になってなかったら怒るよ」
「それはいきなりハードル高いな。でも大丈夫」
「あたしよりナイスバディじゃないとだめなんだから」
「それはたぶん余裕だ」
「見たことないくせに。それに、あたしより性格良くないと許さないんだからね」
「あー、それは似たような性格なんだよなあ」
「じゃあ許さない」
「じゃ、どうすりゃ許してくれるのさ」
「ちゅーして」
びっくりして姉の顔を見た。姉は恋人でもあるかのように僕の腕にしがみついてきた。そしていたずらぽい目をして僕を見る。
その瞳を見たら僕にはもう止められなかった。さっと姉の顔に唇を近づけ、その額に唇で触れた。
僕が唇を離すと姉はうつむいてふるっと震え、大きな音を立てて鼻をすする。
奇跡というものは本当にあるんですねえ、と言ったのは姉の主治医だった。懸命になって僕に何かを言おうとしたあの夜を乗り越えた姉は、ゆっくりとしたスピードではあるが回復していった。また、親父が農地の六割を売り払って得た金で受けた最新治療のおかげもあって、“
ただ
「さすがにもう帰ろ、冷えただろ」
「ううん、ゆーくんが温めてくれたから大丈夫」
「ばっ……」
「うそうそー、寒くてしょうがないや」
僕の手を振りほどくと姉は軽トラの助手席に乗り込んでシートベルトを着ける。僕も運転席に座って車のエンジンをかける。
「じゃ、よろしく頼むよ。運転手くん」
「おう」
僕は軽トラを発車させた。
僕はいずれ結婚するかも知れない。恵まれれば子供も生まれるかも知れない。そうしてもう一生姉の人生とは重ならない生き方をしていくんだと思う。だからせめてそれまでは、もう少しでいいから姉のそばにいて姉を支えていきたい。
僕にとってのすべてが姉以外の人になるまでは。
――了――
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