第33話 夏と海と幻
海だ! 灼熱の太陽。そよぐ潮風、オゾンの香り。この夏は姉の体調は驚くほど改善していて直射日光にあまり当たらなければ、の条件付きで海水浴を許可された。
水着に着替え日焼け止めを塗って僕と親父は海の家の場所取りをした。あとはおふくろと姉がやってくるのを待つばかりだった。親父はビールが飲みたくてしょうがなかったようでさっそくビールと枝豆とおでんを頼んで一杯やっている。
「ゆーくんっ」
声がした方を見るとそこには姉がいた。なんてことはないインディゴブルーの地味なワンピースの水着を着ている姉。病気のせいで昔よりずいぶん筋肉が落ちてやせ細った姿だった。それでも僕には痛烈な一撃で、言葉が出ない。気が付くと僕は
「あ、
と姉はふざけた声で僕をからかう。
「んなわけあるかっ、ばか姉貴っ!」
「きゃはっ、ずーぼーしー」
図星だった。
親父はビールを二、三本開けるとすっかりいい気分になって寝てしまった。おふくろはその場を離れず親父をうちわであおいでやったりしてる。
僕たちは少し波打ち際にまで行ってみることにした。砂浜は姉にとって意外と歩きにくかったようで、僕の腕につかまりながらそろりそろりと歩く。砂浜の砂が熱くて足の裏が焼けるようだ。
「熱いー! 砂浜熱いー!」
「頑張れ! あそこの濡れてるとこまであと少し!」
「あづいー!」
などと大騒ぎしながらようやく波打ち際の砂の熱くないところまでたどり着く。僕たちはそこに座り込んで波に打たれてきゃあきゃあはしゃいだり砂山を作ったりしていた。
しばらくすると姉もそれに飽きたのかごろりと砂浜にうつ伏せになる。
「はぁー海楽し」
「うん」
「ねえ、ゆーくん」
「ん?」
「オイル塗って」
「ぶっ」
僕は吹いた。
「じ、自分で塗れっ」
「背中手が届かないんだよう」
「う……」
僕は姉の背中を見る。水に塗れて陽の光をキラキラと反射している。僕の目は無意識のうちに背中から少しずつ下へと降りていく。薄くて細い腰、小さなお、お、おし……
「ね、ゆーくん」
「え、えっ?」
「目がエロい」
ハッと我に返って姉の顔を見ると姉はにんまりとした顔で僕を見ていた。
「っ、んなことないっ」
「んなことあった」
姉は仰向けになってのけ反りながらグラビアアイドルのようなポーズをとる。平らな胸元が強調される。
「んふふー」
「やっ、やめろよっ」
姉はこれまで見たこともない挑発的な笑みを浮かべる。僕は生つばを飲み込んだ。
僕と姉のにらみ合いが続く。
「んなことよりさ、塗ってくれるの? くれないの?」
実に嬉しそうな顔の姉。僕はしばし迷っていたが、どう迷っても結論は決まっていた。
「いいよ」
「やった、さすがゆーくん優しいっ」
僕はビニールバッグから日焼け止めのオイルを取り出すと無言で姉の背に塗る。姉の様子はと言えば、「ご満悦」というのがぴったりの表情だった。
「よしよし、その調子で脚にも塗るんだぞ」
「脚は手が届くだろ」
「うるさい。姉ちゃんはか弱い病人だぞ。もう少しいたわりたまえ」
「はいはい」
これはもう毒を食らわば皿までの気分だ。僕は覚悟を決めた。それでも僕は姉の脚にオイルを塗っている時、その手の感触に激しい動悸が抑えられなかった。
だがここで異変が起きた。鼻の奥から生温かいものが流れ出る感触がする。それは僕の鼻からこぼれて姉の太ももにぽたりと落ちる。それは血だった。
「あれ? ねえ今……」
姉は体を起こして僕を見る。
「ゆーくんどうか……ぶっ!」
姉はげらげらと僕の顔を指さして笑いだす。周りの海水浴客もこっちに気が付いてしまいそうなほどけたたましく笑った。
「ぎゃっは、鼻っ、鼻血っ! 鼻から血っ! げらげら、ないわ、それはないわー、げらげら、は、鼻血ーっ!」
「…………」
僕は鼻の根元を押さえばつの悪い顔をするしかなかった。ほかに何をすればいいっていうんだ。言いようによっては、いや言いようによらなくても、姉の脚を触ってたら鼻血が出ました、っていうことなんだから。めちゃめちゃ恥ずかしい。めちゃめちゃ気まずい。なのにめちゃめちゃ嬉しそうな姉の顔が恨めしいやらまぶしいやら。
僕たちはすぐに海の家に戻り、僕は高いびきをかく親父と並んで顔に塗れタオルを乗せて横になった。おふくろはずいぶん心配したが、僕も姉も鼻血の原因はわかっているのですぐ治ると言ってなだめた。
僕の鼻血も収まったころ、そろそろいい時間だったのでそのままお昼を食べることにした。僕はソース焼きそばで、姉はラーメンを。姉はほんとラーメン好きなんだよな。どうってことない味なんだけど、こういうところで食べるとなぜかやたらとうまいんだよな。すると親父がむくりと起き出した。親父は牛丼の大盛りをがつがつと食べて、今度はおしんこでビールを二本飲んでまた寝た。僕と姉は顔を見合わせてくすくす笑った。
僕としては砂浜遊び以上に楽しみだったのが磯遊びだった。水着のままマリンシューズを履いて日よけ帽をかぶってビニールバッグを持ち、やはりマリンシューズを履いた姉を連れ立って潮だまりへ行く。
既に数組の親子連れが潮だまりを引っかき回していたが、あんな素人連中には負けない。僕はほくそ笑んだ。さっきは散々みっともないところを姉にさらしてしまったが、ここで汚名返上名誉挽回失地回復だ。
まずは外から見える生き物たちを教えてやる。イソギンチャク、カニ、ヤドカリ、ウミウシ、小さな魚たち。特に姉はるり色の小さな魚が気に入ったようだった。それをひょいひょいとすくい上げ、観察用の薄い形状の水槽に入れる。姉は目を輝かせてそれをいつまでも眺めていた。ほかにも水中を覗けるハコ眼鏡を使って二人で海の生き物を観察した。
「どう、磯遊びもいいでしょ」
「うん! あの青いお魚きれいだった!」
「これで少し弟の株上がった?」
僕は少し得意げな顔をして姉を見る。
「ふふっ、姉ちゃんの中でゆーくん株はいつも高止まりストップ高だよ」
姉はすっと僕の手に手を絡ませてくる。
「ばっ……! やっやめろっって!」
口ではやめろと言うものの、手を振りほどけない僕。情けない。
「くすくすっ」
「さっ、そ、そろそろもう戻ろ」
「うん」
姉はご機嫌で、ことあるごとに僕に触れてこようとする。僕はそれを避けるのに必死だった。撫でるように触れられた場所がしびれるように切ない。
海の家に戻ると親父も目を覚ましていた。親父とおふくろは二人して午後の潮風に吹かれていた。
僕たちが戻ってくるとまた親父が小腹が空いたと言い出していか焼きを食べる。さらにビールを注文しようとしたが、さすがにそれはおふくろに止められた。僕たちもかき氷を食べる。姉が真っ青な自分の舌を見せびらかすと、僕も黄色くなった舌を見せびらかして二人で笑った。
帰りの車はおふくろが運転した。助手席では親父がまた高いびきで寝ていて、僕たちはその後ろで肩を寄せ合って寝ていた。姉の手が僕の手に触れていたのことに僕は気づかず眠っていた。
このまま姉はいつまでも幸せに生きていけるんじゃないか、そんな淡い幻想を抱いた一日だった。
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