第32話 春風に誘われ映画館へ

 リハビリ後僕たちは病院地下にある大きな売店わきのベンチでソフトクリームみたいな形をしたアイスを食べていた。


「ねえ、ゆーくん」


「なに?」


「映画見に行きたい」


 きたよ。


「いきなりなんで?」


「こんな天気が良くて気持ちいい春の日にデートしない手はないでしょー」


 よりによって姉からデートと言われてぎょっとする僕。


「でっ、デっ、デートって誰と誰がだよっ」


「ん? 姉ちゃんとゆーくんが」


 それがどうしたの? と言わんばかりの表情の姉。


 僕は大きな咳払いをして不可能を承知で姉の説得に取り掛かる。


「だめだって。親父とおふくろも心配するだろ」


「話せばわかる」


「問答無用。帰るよ」


「ねー、ゆーくーん、映画観たいいいいいいい」


 駄々っ子のように手をバタバタする。僕は姉の精神年齢に呆れた。


「無理だと思うけど……」


「罰ゲーム」


「は?」


「『ゆーくんが姉ちゃんに何でもしてくれる券』三枚あったよねえ」


 この間のゲームの罰ゲームだな。まだ持ってたのか。僕はため息を吐いた。


「どんなのが観たいの」


「昨日テレビでCMやってたやつ」


「あー、恋愛もののCMあったね」


「違う」


「え?」


「あの、戦車でドーンとなってバーンってなるやつっ」


 姉は大げさで子供っぽい身振り手振りで「ドーン」と「バーン」を表現した。

 僕はますます姉の精神年齢を疑った。


「そっち?」


「うん、そっち」


 けろっとした顔でアイスを舐める姉。


 僕は心の中で頭を抱えた。


「電話どうすんだよ」


「お願いゆーくん」


「は? 行きたいのはそっちだろ? 話せばわかるんだろ? 姉さんがしろよ」


「やだー、ゆーくんなら交渉力もあるし悪知恵も働くし適任だよ。ねっ、お願いっ」


 またかわいくお願いされるパターンなのか。嫌がっても「ゆーくんが姉ちゃんに何でもしてくれる券」を行使されるだけなのは目に見えていた。


 僕はまた深いため息を吐いた。


「もうこれっきりだぞ」


「うわやったー! ゆーくん愛してるっ!」


 病院の廊下中に響く声に何人かの人がこちらを見る。姉が僕にしがみつこうとしたので僕はいろいろな意味で必死になってこれを押しとどめた。


「ばかっ、やめろっ、人が見てるだろ!」


 でも、姉から愛してるって言われて悪い気がしないってもの重症だな、僕。


 電話に出たのはおふくろだった。おふくろは心配しまくってたが、何とかなだめすかして許可を得た。

 ベンチに腰かけて気もそぞろで待っていた姉に結果を伝える。


「いいってさ」


「やったー! ゆーくんあ――」


「しーっ!」


 僕は指を口に当てて姉に静かにするよう訴えた。


 映画館まで姉の足で二十分ほどかかる。リハビリ直後でまだ疲れの残っている姉だったが、根性を見せてどうにかたどり着いた。


「ふー、はー、つっ、疲れたー」


「大丈夫か? 無理しなくていいんだぞ」


 映画館のホールに円形のベンチがあったのでそれにどさりと腰かける姉。少し汗ばんだ顔をにやりとさせる。


「なんのこれしき。」


 昭和かよ。


 チケットを買ってパンフまで買って隣同士の席に座る。ポップコーンもコーラも僕が買って姉の席まで持って行った。完全に殿様気分の姉。


「うむ、大儀じゃ」


 今度は江戸時代かよ。


 上映されるのは海外の大昔の戦争で戦車同士が戦うバトルアクション映画。どうすんだよ、戦車のことなんてなんにも知らないぞ。

 案の定映画が始まるとわからないことだらけだった。えっと、どことどこが戦争してるの? えっ、戦車って五人乗りなの? 一人で操縦するんじゃないの? えっ、弾って手で入れるの? あの砲塔っていうやつって手で回すものなの? とか???がいっぱい。でも観始めるとすごい迫力に圧倒された。弾が飛び交う緊迫の戦場。兵士たちの男の友情と団結。冷酷非道な敵。戦場に花咲くロマンス。戦車同士の戦闘シーンなんてまさに姉さんのいう通り、ドーンでバーンだった。

 特に終盤、主人公たちの戦車の弾が三つしかなくなった時は見ものだった。

 僕が手に汗を握って観ていると、がっ、と突然に手が何かにつかまれる。ぎょっとして自分の手を見ると、姉が僕の手をつかんで目をらんらんとさせてスクリーンに見入っていた。手汗すごい。一方の手でコーラをちゅーちゅー飲んでいるあたりもすごい。いまさらながらトイレ大丈夫かな。

 その戦闘が一区切りついた後、戦車のリーダーと技術者の女性とのラブシーンが始まると僕の手を握る手の感じも変わる。僕の手の甲を優しくさわさわしてきてこそばゆくてぞわぞわする。

 戦車の乗組員の一人が壮絶に、そしてかっこよく戦死したとき、姉が派手に鼻をすする音を立てていた。僕はそっとポケットティッシュを渡してやった。見ると姉は大号泣していた。

 なんか姉さんの様子見てた方が面白いや。


 映画が終わったあと、姉は今度は売店に行きたいと言ってきた。「だって、ゆーくんと映画観た記念に何か欲しいじゃん?」って不意に言われて僕はたじろいだ。ドキドキしたって意味ばかりじゃない。これから先長くない姉の人生の中で、こうした記念品は僕たちにとって大きな意味を持つんじゃないだろうか。そんな気がしたからだ。そう思うと僕の小遣いが許す限り何でも買ってあげたくなってくる。

 だが姉はつつましく、赤い星に戦車をあしらった小さなアクリルのキーホルダーを買った。僕は姉に言われて戦車のプラモデルを買わされた。こっちの方が結構な出費だ。


 会計を済ませて売店を出たところで人とすれ違う。そこで姉ははっとしていったん足を止め、次に大急ぎでそこから立ち去ろうとした。


「なあ」


 男の声が姉を呼び止める。姉は恐る恐る振り返ると、そこには姉と同い年くらいの男が立っていた。


「ああ、やっぱりそうだ」


 笑顔の男。イケメン。でも見るからにチャラそうだ。


「……」


 無言で小さくうなづく姉。


「急に学校辞めちゃうからさ、びっくりしたんだけど元気?」


「ん、まあまあ……」


 うつむいて強張った作り笑顔の姉。

 両手に杖ついてていいわけないだろ。見てわかんないのかよ。目も頭も悪いのかこいつ。


「連絡取ろうかとも思ったけど、なんか事情があったらと思って気が引けてさ、悪い」


 事情があると思うんだったら、むしろ連絡取るのが普通だろ。

 姉はうつむいて弱々しく首を横に振る。僕はこんな力ない姉を見るのは初めてだった。

 なんなんだろうこの失礼な奴は。姉の彼氏……だった奴なんだろうか。あまりにも馴れ馴れしくて失礼で目と頭の巡りも悪そうで僕には不快だ。とてつもなく不快だ。極めて不快だ。姉はこんな男が好みだったのか? いいやそんなはずはない。こんな、こんな男がいいわけがない。姉にふさわしいのはもっと……


「あ、そうだ」


 男は売店内の女に声をかけた。彼女は彼のもとにやってくる。それはうちにも何度か遊びに来たことのある姉の友人だった。その彼女は姉を見るとやはり気まずそうに目を伏せる。


「俺、今こいつとつきあっててさ。いちお報告」


「そか、二人ともよかったね。おめでと……」


 姉も顔を上げず、彼女の顔を見ようともしない。


「でも、お前も男いてよかったわ。安心したよ」


 男は僕の方をちらちら見ながら薄笑いを浮かべて言う。


「なんて言うか色々アレだったからさ。でもこれでお相子って感じじゃん、てか中卒でもちゃんとイケメンの彼氏とかできんのな」


 僕はとっさに手が出た。突然沸点を超えた怒りが僕を支配していた。だがそれを上回る驚くべき速さで姉の手が僕の手首をすごい力でつかんだ。姉の手から外れたロフストランドクラッチが廊下の床に乾いた音を立てて転がる。

 男は余裕の表情でそれを拾うと僕に差し出した。僕は彼を睨みながらそれを受け取った。


「じゃ、こいつを大事にしてやってくれよな。わがままだけど優しくて柔順でいいやつなんだからさ。なあんて、言われなくてもわかってっか」


 笑顔の彼は彼女の腰を抱いて映画館を出ていった。

 じゃあなぜ姉が病気になって高校を中退した時におまえが大事にしてやらなかった。なぜ姉の友達だった奴を新しい彼女にした。なぜ姉の病気を気遣う言葉もなく言い訳がましい話をへらへらとしやがる。僕は走っていって男の後頭部を杖で殴ってやりたい気分だった。


「くっ」


「じゃあ、そろそろ帰ろっか」


 姉がいつもの声で僕に言う。びっくりして振り向くと姉がいつも笑顔で僕を見上げている。僕は姉のあまりの変化について行けず言葉が出なかった。

 でも僕にはわかる、その笑顔が少しだけ、ほんの少しだけひきつっていることが。


 姉はそのひきつった笑顔で続ける。


「こらゆーくん、あわせろよ。姉ちゃんの心配より、ノリに合わせる方が大事なんだからさ。だから合わせて」


 最後の一言にかすかな寂しい色が含まれていた。僕は姉に杖を渡しながら言った。さり気なく、ノリを合わせて。


「じゃお茶してく? 映画の感想聞きたい」


「おっ、いいねえ、デート慣れしてるねえ」


 僕はぎょっとした。


「でっ、デートじゃないだろ」


 姉はふふっと笑う。


「デートって言ったじゃん。それに、はたから見たら完全にカップルみたいですよお?」


「そんなことないっ」


 僕は半ば必死で否定した。


「あーる」


 姉はにこにこしながら返してくる。


「ないっ」


「さっきはありがとね」


「えっ?」


 僕は意表を突かれた一言に驚いた。


「さっき、あいつをぶっ飛ばそうとしたんでしょ」


「……」


「嬉しかった」


「べっ別にっ、僕は何もしてない」


「うん、それでもありがと」


「……うん」


「別に何にもなかったから」


 言っている意味がよくわからず驚いて姉の方を見る。姉の顔は珍しく真面目だった。


「ノリがいいからちょっと付き合っちゃった感じなんだけどさ、エロいことばっか考えてるやつでまじヤバかったからすぐ逃げ出して、そのうちあたしが杖を突くようになったら向こうの方から勝手に消えてった」


「そうなんだ」


 聞けば聞くほど腹の立つ奴で、やっぱり杖で思いっきり後頭部を殴っておけばよかったと思った。


「いや失敗失敗。姉ちゃんの黒歴史になるとこだったよ。ゆーくんみたいにいい男ってなかなかいないねっ」


「えっ」


 びっくりした僕が姉の方を見ると、姉はいつものいたずらっぽい笑みを浮かべていた。わざとらしいくらいに表情を輝かせる。


「さて、どこいく? 姉ちゃんジンジャーエール飲めるとこがいいなっ」


「じゃ、探してみるよ」


「ううむ、よきにはからえ、よきにはからえ」


 まだ江戸時代からでてこれないのかよ。


 このあと僕たちはファストフード店でジンジャーエールを飲みながら映画の話や家の話、病院の嫌な先生の話などで盛り上がり、予定よりずっと遅い帰宅となった。おふくろにはずいぶん叱られたが、僕たちは目を見合わせてくすくすと笑うばかりだった。

 このころには姉もすっかり元通りになっていて、僕はそこに姉の芯の強さを見たような気がした。

 一方で僕も姉の彼氏に間違えられたことにまんざらでもない気持ちを覚えていた。


 でも、泣きたいときはもう少し泣いてもいいのに。戦車のプラモデルを開けながら僕は姉の態度に少しそう思った。僕だったらそれを力いっぱい受け止めてあげられるのに。やっぱり姉にふさわしいのはそういう度量や優しさなんだと思う。僕は負けない。あんな奴になんか絶対負けない。

 結局僕はただの弟でしかないのだけれど。

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