第26話 早春の東京(前編)

 春休みに入ってすぐ、姉は大きな検査をするよう病院から言われた。東京に行って大きな大学病院で検査してもらう。


 僕はおふくろとうちで留守番だ。姉のわがままから解放されてすっきりするかと思いきや、そのわがままが聞けないことがなんだか寂しかった。僕はMか。それと姉の顔を見られず、姉の声がうちに響かないこともひどく寂しい。姉依存症か僕は。情けないと思いつつ、姉に早く帰ってきて欲しいと思う僕だった。


 それと姉の検査の結果が怖い。姉の体調は医師も首をかしげるほどに乱高下を繰り返しながら、それでも全体的にはゆっくりと落ちてきていると言う。今回の検査でも結局また体調が悪くなってきていることを確認をするだけなのではないか。そう思うと僕は心底憂うつになる。


 姉は親父が運転する車に乗せられて二人で東京に行く予定だ。朝ご飯を食べるよりも早く出かけ夕方には東京に到着。姉は病院で、親父はビジネスホテルで一泊する。姉は翌日の朝から病院で検査を行う予定で、検査が終わった後は姉もビジネスホテルに一泊する。そして翌朝に姉は親父の車に乗せられて、帰宅の途に就く予定だ。


 姉の出発当日、僕は目を覚まして顔を洗おうとしたところ、親父が難しい顔をして僕の方にやってきた。大型台風が来たとか何か困ったことが起きた時の顔だ。


 親父は困った声で僕に言った。実は農業委員会の会長が急逝したので、俺たちはその通夜や葬儀の手伝いをせにゃならなくなった。


 病院とも連絡を取り検査の日取りを変更できないか掛け合ってみたそうだ。だけど病院の回答は、変更はできないと言う。別の日に検査を行うとすれば、それもういつになるかわからない。半年先か、来年か。


 来年まで待てと言われるとつらい。正直そこまで姉が持たないのでは、という一抹の不安が頭をもたげてくる。


 いったん電話を切ったものの親父もおふくろも途方に暮れていた。検査は諦めたくないが、親父もおふくろも東京に行く余裕なんてありはしない。


 その時僕の頭にひらめくものがあった。僕が姉の付き添いをすれば。


 僕は正直悩んだ。スマホの検索だけで東京の病院に行けるのかと思うと少々自信がなかった。だけどここで僕が行かなければきっと親父もおふくろもめちゃくちゃ困るんだろう。いや、僕だって困る。


 やろう。きっとそんなに難しいことはないはずだ。僕だってももう充分に大人だ。そして何より姉の弟だ。姉のためになら何でもしようと誓った弟だ。僕は真剣なまなざしで静かに言った。


「僕が行く」


 二人とも仰天した表情で僕を見る。


「僕だって姉さんの、みんなの役に立ちたいんだ。大丈夫ちゃんとやってみせる」


 親父はにやりと笑って僕の肩を力を入れて叩く。


 親父は早朝にもかかわらず病院や農家の仲間に電話をかけてまわる。おふくろは僕にかなりの金額のお金を渡し、これで列車と新幹線を使って東京へ行くようにと言う。病院とホテルへの行き方のメモも書いてくれた。


 僕はそのお金とメモを持ってまずは顔を洗い、自室に戻りお金とメモを財布に詰める。着替えていざという時のために携帯のバッテリーを掴んで着替えをバックパックに詰め込む。


 ここで姉の部屋に行く。外がバタバタしている様子が姉には不思議だったようだ。気分の乗らない顔の姉はまだ着替えてすらいなかった。


「どしたの?」


「親父が行けなくった。代わりに僕が行く」


 さっきまでとは打って変わって姉の表情がぱあっと明るくなる。


「ほんとにっ!?」


「そんなつまらない嘘ついてもしょうがないじゃん」


「ううん面白い嘘だよ。しかもほんとなんでしょ?」


 さっきまでの浮かない顔が一転、すっかり機嫌のいい、むしろはしゃいでるくらいの姉が僕の目にはまぶしかった。


「そっ。姉さんも早く準備して」


「あ、そだねっ」


 姉はいそいそとパジャマのボタンを外し始める。


「まてまてまてまて、今はだめ。今はだめだから」


 と、僕は大急ぎで姉の部屋から飛び出した。



 女性は準備に時間がかかる言うけれど、それにしても限度があると思う。

 ようやく姉が部屋から出てきた。あまりにももたもたしていて少しいらだっていた僕は姉をたしなめようと口を開いたが、


「…………」


 僕の口は開いたまま塞がらない。あまりのかわいさに開いた口が塞がらない。


 姉はこれ以上ないほど、僕も見たことがないほどめかし込んでいた。渋めの紫系のハイウエストのワンピースにベストとリボンを身に着け、厚手の黒いタイツを履いている。その上にやはり派手ではないピンクのコートを羽織っている。いつそんな服を買ったの? 気が付くとメイクもしてないか!? 検査に行くんだけど分かってんのかな? わかってないよね。何か勘違いしてるよね? 旅行じゃないんだからね!


 でも僕の胸はぎゅんぎゅんと高速で高鳴っていた。


 とにかくどうにかこうにか準備も整った。ひどく心配そうな顔の親父とおふくろに見送られ、緊張の面持ちの僕。そして一人だけ場違いなほどめかし込んでにこにこと嬉しそうな笑顔の姉は出発した。


 家を出てすぐ姉が凄い事を言う。


「ね、まるでデートだね」


 と、そっと僕の手に指を絡ませてくる、のはわかりきっていたのでさっと手を避けた。


 姉は不機嫌そうにふくれっ面をして、今度は僕のジャケットの裾を掴んできたが、これは許してあげた。


 自宅を出たらまずは歩いてバス停まで行き、駅までバスに乗る。そこで乗車券を買い列車で新幹線駅まで行く。あとはそこから新幹線で一気に東京だ。


 バスは珍しく待ち時間もなく定刻通りに着いた。姉がバスに乗るのを後ろから抱えるようにして補助し、僕もバスに乗る。バスは空いていて余裕で座れたので助かった。よく揺れるんだ、このバス。


 バスの中で考えていたんだけれど、姉の足や体力のことを考えるとやはりグリーン車を取っておいた方がいいだろう。お金は充分ある。



 ところが列車は座るところがなく優先席もおじいちゃんおばあちゃんがすでに座っている。


「大丈夫?」


 僕が気遣う言葉を姉にかける。


「ん、ゆーくんが肩を掴んで支えてくれたら」


 姉の目が笑ってる。


「うっ…… なんかそれずるくないか?」


「ずるくないよ。ほんとのこと」


 涼しい顔をして挑発的な目つきで言う姉に負けた僕は、これが姉の望んだことだから、と自分にも言い訳をして姉の肩を掴む。


「ちーがーうーよー」


 姉が不満そうに言う。


「何が違うって言うんだよ」


 ついとげのある言葉で返す僕。


「反対側」


 僕を見上げていたずらっぽく言う姉。


 反対側の肩ということ? それは肩を「掴む」じゃなくて肩を「抱く」って言うんだぞ。


「……ふんっ」


 僕は言い争いをする気力も失い、観念して姉の肩を抱く。こんなところを学校の連中に見られたら一体どうなることか。僕はぞっとした。


 ただまあ、こうした方が確かに安定はいいよな、と自分で自分に言い訳。姉の肩を抱くと骨ばったその感触に胸が痛む。また痩せたんじゃないだろうか。いくらおめかししても隠し切れない姉の本当の姿を思うと苦しくなる。その姉は実に幸せそうな表情で時折僕に寄りかかって密着させながら新幹線駅まで頑張って耐えきった。姉が僕に体をぴったり密着させてくるたび、僕はひどくドキドキした。


 駅についたらまず僕は姉をベンチに座らせ、特急券と指定グリーン券を買おうとする。正直僕にはべらぼうな金額だったが、財布にはまだまだ余裕があったし、姉の体力を温存するにはやむを得ない。まあ、実を言うと僕もグリーン車に乗ってみたい気持ちがあったんだけど。


 新幹線はさほど待たずにすーっと駅のホームに滑り込んで停車した。そそくさと乗り込む姉とその後ろから乗り込む僕。いそいそとグリーン車に乗り込む。姉を奥の窓側に座らせ、僕は通路側に座り姉の杖を持つ。


「ふあーっ、すごいよこの椅子」


「確かに座り心地が全然違う」


 とにかくシートに座っただけで感動だ。体がすっと沈み込んでいく。足ものびのび延ばせる。


 足を延ばして物音を立てずにはしゃぎながらくつろいでいるとCAさんに似た感じのきれいな女性がおしぼりをくれた。姉はなんだかそれが不服そうだったが、僕にはちょっとよくわからない。


「なんでそんなニヤニヤデレデレするの」


「してない、してないって、全然してないって、あいててて」


 わき腹をつねられた。


 とにかく新幹線のグリーン車旅は快適で、景色が飛ぶように流れていくのを二人でワクワクしながら眺めていた。アイスを買ったら石のように硬くて食べるのに苦労したとか、携帯を充電するためにコンセントを使おうとしてもどうやっても挿せなくて苦労したとか、色々なこともあったけど、それも含めて本当に楽しい旅だった。


 やがて建物ばかりが車窓に映るようになって、思ってたよりずっと早く東京に着くと、すぐさま病院に向かう。すごい、テレビでもよく出てくる病院だけあって、うちの地元の病院とは比べ物にならない大きさだった。それにとってもきれいだ。


 受付で申し出ると指定された病棟に行き、そこで姉とは明日の午後までお別れ。病棟で看護師さんを待つ間、姉がすごい力で僕の手を握ってきた。驚いた僕が姉の方を見るとひどく不安そうな顔をしている。僕は姉を元気づけようとなるべく優しく話しかける。


「大丈夫。明日また会お」


「…………うん」


 姉は僕の方も見ないで少し青ざめ、少し震えていたかもしれない。

 僕は姉の手を握り返す。


「大丈夫、大丈夫」


「……不安だよ」


 僕は両手で姉の骨ばってがさがさの薄い手を包む。僕のできる精いっぱいだ。


「大丈夫、大丈夫だから、また明日会おう。頑張って」


「……うん」


 看護師さんに姉は呼ばれ、姉はそれについていく。僕もその後に続こうとしたが看護師さんに制止された。


 着飾ってメイクまでした姉はこっちを見て心細そうに微笑むが、僕にはそっと手を振ることくらいしかできなかった。それが歯がゆい。

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