第27話 早春の東京(中編)
姉が病室に入った後も僕はじっと病室のドアを見つめていた。あわただしく歩き回る看護師さんたちには僕の存在が目に入らないかのようだ。
ここには存在意義のない僕は小さなため息を一つ
そこは狭くてやたらと細長い窓ばかりが横長に大きいツインの部屋だった。狭くて息苦しい。
服を着たままベッドに横になった。グリーン車ほどではないがクッションが効いて気持ちいい。姉の泊まる病院のベッドではこうはいかないんだろうなって思うと、それだけで姉がなんだかとてもかわいそうに思えてきた。
ベッドに横になって考える。こうやってたった一泊とはいえ姉と離れ離れになるのは何年ぶりだろうか。姉は中学の修学旅行も病気を理由に欠席しているから、かなり昔のことなんじゃないだろうか。それだけ僕たちは一緒に暮らし、一緒に飲んだり食べたりし、一緒に笑い合ってきたんだ。あ、でも僕の場合は笑うばかりじゃなかった気がするけど。
そうしたらなんだか切ない気分になってきた。この東京と言う誰も知る人のない大都会で、僕も姉もすぐそばの距離にいながら離れ離れでとてつもなく孤独だった。
家に電話をかけても親父とおふくろの携帯に電話しても出ない。よっぽど忙しいのか。僕はおふくろの携帯に無事に姉は入院できたとメールをしておいた。
テレビをつける。地元とは比べ物にならないほどのたくさんのチャンネルがあって、どれもみんなにぎやかで騒々しい。
このにぎやかな雑音を子守唄に僕は服も着替えずにいつの間にか眠ってしまった。
朝目が覚めるとテレビが浮ついた様子で殺人事件の解説をしていた。僕は顔を洗って外に出てテレビはつけたままコンビニに行く。素泊まりなので食事は全部自分で何とかしなくてはいけない。
外に出てみると低い雲がすごい速さで流れていて生ぬるい風がざあっと僕に叩き付けてくる。
コンビニでサンドイッチを買ってきてまたホテルで食べた。ビルとビルの間に小さく切り取られて少しどんよりした空を見つめ、ぼんやり姉のことを考えながら時間を過ごす。
時間が来たので病院に向かう。姉の顔や姿を見てドキドキするのは全く違うドキドキが、僕の胸を打つ。
九時過ぎに病院に行って病棟に行くと病衣を身にまとった姉が車いすに乗せられていた。その姿に僕はぎょっとした。
「大丈夫? 何かあったの?」
「あ、おはよ。何にもないよ。車椅子の方が検査が楽みたい。私も楽だしね」
車椅子嫌いの姉は小さくほほ笑む。やはり少し心細そうだった。
「頑張ってね。僕、待ってるから」
「……うん」
姉は小さく頷き、僕はそのまま控え室がわりの小さな休憩所に案内される。
「じゃね」
「うん、またねゆーくん」
そこには三、四人の人たちが座っていた。いずれも深刻そうな表情だったり、不安な面持ちだったり、疲れた顔をしていた。
僕もそわそわとした不安を抱えつつ控え室のソファで待つ。いつ終わるかもしれない検査は四時間以上もかけて終わり、僕は看護師に呼ばれた。
病棟に行くと姉はもう私服に着替え終わっていて杖を突いていた。姉はあからさまにほっとした顔でロフストランド杖を突きながらひょこひょこと僕に駆け寄る。
「終わったよっ」
「おかえり、とにかくホテル行こうか」
「うん」
二人で病院のすぐそばのホテルに戻る。横長の部屋を面白がって、横に長い大きな窓のカーテンを全部広げ、灰色のビルと灰色の雲ばっかりしか見えない景色を面白そうに眺めていた。それに飽きると今度はベッドに横になりベッドのクッションを確かめて、横になりながらきゃっきゃ声をあげて跳ねる。本当に子供みたいだ。
僕が苦笑していると姉はそのまますとんと落ちるように眠ってしまった。よっぽど疲れたんだろう。僕はまた姉がかわいそうに思えた。昨日からこれで何度目だろうか。
僕もベッドに横になったらすーっと眠りに落ちていく。姉と比べると、ただ座っていただけの僕が疲れただなんて、ちょっと悔しいし姉に申し訳ない気もする。そう思いながら僕は真っ暗な眠りの淵に落ちていった。
「……くん、ゆーくん」
僕がすぐそばの姉の声で目を覚ましたのは午後六時を回っていた頃だった。
すぐそば?
僕はパッと目を覚まし隣を見ると、そこにはにこにこした姉の顔が息がかかるほどの目の前にあった。
「なっ……!」
「おはよ」
「あっ、ああ……」
静まれ心臓、僕の心臓。赤くなるな僕の顔。
「でもゆーくん思ったより大胆なんだもん、ねーちゃんびっくりしちゃった」
「えっ?」
はっと気が付くと僕は姉の肩をしっかり抱いていた。
僕はガバッと起き上がって手も振りほどく。残念そうな姉の顔。
「えーっ、ずっとこうしていても良かったんだよ?」
「良くないばかっ」
「姉ちゃんせっかく恋人気分を満喫してたんだけどなあ」
「満喫しなくていいからっ」
「そんなこと言ってホントは……」
「しないっ」
姉の表情がまた変わる。
「ねえ、お腹減らない? 姉ちゃんお昼食べてないんだよ」
「ああ、そう言えば僕も……」
「ここ、地下にレストランがあるみたいだよ」
いつの間にそんな情報を。
「じゃあそこ行く?」
「うんっ、楽しみだなあ、どんなのがあるかなあ」
姉が滑ったり転んだりしないよう注意を払いながらエレベーターで地下まで行く。そこには小さいながらもいい感じいいレストランがあった。暗めの店内には間接照明が灯されていて雰囲気がおしゃれだ。たまに家族で行くファミレスとは違う。
感心して店内をひとしきり見回した後、姉と二人でメニューを見る。僕は一番量の少なさそうな「エビワンタンのおかゆ膳」。これはすぐ決まった。
一方の姉は案の定いつまでたっても決まらない。もうかれこれ十分以上もうなりながらメニューを最初から最後まで行ったり来たりしている。それでも最後はやけに嬉しそうに一番ボリュームのありそうな「ヒレカツとカキフライ御膳」に決めた。
同時に料理が来るとまず姉のおねだりから始まった。エビワンタンが欲しいという。はいはい、そう言うと思って注文したんだよ。姉はヒレカツとカキフライ御膳を実にうまそうに食べていた。そして思った通りすぐ食べきれなくなる。まあいつもよりは少し多めに食べたからいいんじゃないかな。姉が残した分は僕がきれいに平らげました。
「すごいねえ、やっぱり男の子はよく食べるねえ」
と感心する姉。
「そうでもないよ。これでも少食な方」
姉さんが少食すぎるんだよな。体調がいい時はもっと食べるんだけど。姉さんにはもっともっと食べてもう少しは太って欲しい。
姉も僕も満腹になってレストランを出ると、ホテルの外のコンビニで飲み物を買ってまたホテルに戻る。
一人ずつ順番にお風呂に入る。バスタブの使い方なんて知らなかったからスマホで調べてからお湯を張る。まず姉に入れてから僕が入った。
僕が風呂からあがると杖を突いて寝巻姿の姉は、またカーテンを開けて街の夜景を静かに眺めていた。
「また見てる」
「きれいだね、夜景」
「そうかな」
「そうだよ、違いのわからないやつだなあ」
「ほっとけ」
しばらく姉は周り中を囲んでいるビルの明かりを眺めたり、足元を行き交う車や人々の流れをまじまじと眺めていた。
「ねえゆーくん」
「なに?」
「こっちおいで」
その静かな声には有無を言わせない何かがあった。
「仕方ないなあ」
口ではそう言いつつも、僕は吸い寄せられるように姉の隣へと歩いて行く。姉が杖を持っている側の隣に立つ。これでいきなり手を握られることもないだろう。
「ほら、月」
空を見上げると窓越しにレモンのような月が浮かんでいた。昼まであんなに天気が悪かったのに。
「月、きれいだね」
姉がぽつりと漏らした。
僕が月をぼんやりと眺めていると、そのすきを突いたかのように姉が僕の腕にしがみついてきた。杖が床に落ちる。
ヤバい。僕は姉の方を見ることもできずただ月を見上げて心臓をバクバクさせて固まるばかりだ。
「ね、この大っきな街で、姉ちゃんとゆーくん二人っきりだよ、今」
僕はぎょっとした。なんだか誘惑するようなその言葉に僕は少し汗ばむ。
「そ、そうだね」
当たり障りのない言葉でお茶を濁し姉の杖を拾いに身を屈めようとした。
「動かないで。少しだけでいいからこうしてて?」
また姉が有無を言わせない感じがする言葉を口にした。
僕は魔法でもかかったように体が動かせない。もしかしたら姉は本当に魔法が使えるのかも知れない。だから僕はいつもどぎまぎしたりイラついたり腹を立てたりしても姉を許せてしまうんだろう。
僕たちはしばらくの間、本当の恋人同士のように体を寄り添わせて月を眺めていた。
月がビルの陰に隠れたころになってようやく僕は姉に解放された。
姉をベッドに寝かせる介助をしてあげて僕も隣のベッドに入る。
僕が電気を消す。
電気が消えた途端に姉が予想通りの発言をする。
「ね、ゆーくんこっち来て」
「やです寝ますおやすみなさい」
「むー」
「ではおやすみなさい」
そう言いつつも心の中はザワザワしてとても眠れたものじゃない。それに僕が先に寝たら姉が僕のベッドに入り込んで来かねない。僕は絶対姉より先には眠れない。
姉はなかなか寝付けないようで、何度も寝返りを打つ音やため息が聞こえる。
明かりを消してから何時間経ったろうか。姉の心細そうな声が聞こえる。
「ゆーくん」
「うん?」
「眠れないの」
「僕も」
「こっち来て」
「だめ」
「じゃ姉ちゃんがそっち――」
「もっとだめ」
「じゃゆーくんが姉ちゃんのおで――」
「絶対だめ」
なんて言葉をやり取りするうちに次第に姉も眠くなってきたようで、最後はすぅすぅと寝息を立て始める。
狭い室内には姉の小さな寝息と空調の乾いた音が聞こえる。
安心した僕もようやく眠りにつくことができた。
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