第19話 花火大会
今年も花火大会がやってくる。去年は姉の体調が今ひとつだったのでうちで音を聞いてテレビのローカル局の中継を見て終わったが、今年は違う。姉の体調は急速によくなってきている。
僕たちは今浴衣を着て花火大会のある土手に来ている。姉は朝から浮かれっぱなしでいつも以上にお喋りだった。リハビリから帰ってくるとすぐに浴衣を着たがる。すぐに着崩れるとおふくろが言っても聞かず、そわそわそわそわと落ち着かなかった。
ようやく四時ごろになって浴衣に着替えた姉を見て僕は息を呑んだ。自慢の長い黒髪を結い上げた姉の浴衣姿は僕には衝撃的だった。きれいだった。本当にきれいだった。僕が今まで見た女性の中で一番きれいだった。僕が言葉を失って
「もー、どうしちゃったのゆーくんっ! じろじろ見て恥ずかしいじゃん!」
「あ、ああ」
「何? もしかして姉のあでやかさに
「あ、ああ……」
「えっ?」
僕の素直な反応に姉は意表を突かれたようで、ちょっと固まった。
「あっいやっそのっ、そ、そうじゃなくて…… そうじゃなくて…………」
もじもじする僕にやっと本来のパターンにはまった姉が元気を取り戻す。
「そうじゃなくて何? ほらほら正直に言いなー?」
と団扇で僕の頭をぺしぺし叩いた。
「言えるか、そんなもん」
僕は吐き捨てた。
僕が衝動的に姉の額にキスをしてしまったことに、姉は気づいていない。そう思っていた。
しかし、あれ以来姉のからかいや過度のスキンシップが明らかに増え、僕はうろたえたり、苦しかったり、切なかったり、どきどきしたり、そしてほんの少し嬉しかったりすることが多くなった。姉は本当に僕がしたことに気づいていないのだろうか。もしかして気づかないふりをしているのだろうか。だけど僕はそれを姉に直接訊く勇気なんて持ち合わせてはいなかった。
土手のふもとで僕がラムネとたこ焼きと焼きそばを買って土手の向こう側まで行く、姉は片手で杖を突いて何とか花火の良く見えそうな場所までたどり着く。レジャーシートを張ってその上に座った。姉は僕と肩が触れあうくらい近すぎる隣にちょこんと座った。だけど僕は、誰が誰だかわからないほどの暗がりを言い訳にしてあえて何も言わなかった。
どおん、と地響きのような音がして大きな花火が上がった。これを合図にして花火大会は始まる。
赤の、青の、白の、緑の、ピンクの、紫の様々な花火が上がるたび人々からどよめきや歓声が上がる。姉も大きな声で何か言っているけど、よく聞き取れない。
僕も一緒になって声をあげながら花火が上がるのを見ていると、手に何かの感触をおぼえた。
姉の手だった。
そうなるともう僕は花火どころではいられない。僕の頭の中は姉の手の感触でいっぱいになってしまった。動悸が収まらない。最初はちょっと手と手が触れ合う程度だったのが、少しずつ姉の手が僕の手を覆い、今は僕の手全体を姉の手が握っている感じだった。
花火の明かりに映し出される姉の顔を見ると、手のことなんかまるで知らないかのように花火に夢中になっていた。
僕の視線に気づいたのか、こっちを見た姉は「ふふっ」と今まで全く見たことのないかわいらしいほほ笑みを見せた。そしてなにくわぬ様子で花火に興じる。なんだよ、それってまるで彼氏に見せるような顔じゃないかよ。僕は彼氏じゃないんだぞ。絶対彼氏になんてなれないんだぞ。そう思いながらも姉の手の感触で僕の頭はいっぱいだった。
僕の心臓はさらに
僕は手と肩に姉を感じながら花火を見ていた。
そして思いをはせる。
限りあるもの儚いものの美しさを。例えば一瞬で消える花火のきらめき。
例えばあと一年持つかもわからない姉の命の灯火。
どうせ
そう思ったら僕は少し泣きそうになった。
姉が僕に向かって何か言っているのが聞こえる。僕は姉の方を向いた。姉は花火に負けない輝くような満面の笑みを僕に向ける。僕の手が強く握られる。
「あのね、あのねゆーくん。あたしゆーくんの――」
その時、出し抜けに大量の花火がはじける音で姉の言葉はかき消された。花火の明かりに照らされた姉の顔はやはりとてもきれいだった。
静かになったところで僕は思わず聞き返そうとする。
「ねえ、今なんて」
≪本日のプログラムはすべて終了いたしました、混雑を避け足元にお気をつけてお帰りください。ごみはご自宅にお持ち帰りください。本日のプログラムはすべて終了いたしました、混雑を避け――≫
スピーカーから事務的なアナウンスが聞こえてきて、唐突に花火大会は終了してしまった。
「さっ、もう帰ろっ」
姉は何事もなかったかのように立ち上がる。僕もなんだか拍子抜けして姉にこれ以上のことは聞く気になれなかった。
「う、うん……」
僕はシートをたたみ始める。帰りはものすごい混雑だ。僕は姉の肩を抱き、姉を僕にしがみつかせて何とか通り抜けた。全身に姉を感じて頭に血が上る。これは緊急事態なんだから仕方がない、そう自分に言い聞かせた。
帰宅してからも花火の話が尽きない姉は少し興奮状態で親父とおふくろにもいろいろと話して回っていた。
すると、
「うーん、花火分が足りない」
なんて突然言い出して、
「あったぜー!」
姉がどや顔で取り出したのは線香花火の束だった。
皿の上に立てたろうそくを持って、二人で庭の暗がりに降りて線香花火を点ける。
暗闇の中でオレンジの小さな玉がジリジリと火花を散らしながら燃えて落ちて消える。このさまもなかなかの刹那的な趣があって僕は胸が苦しくなった。まるで人間の一生みたいに思える。一方の姉は僕より想像力が足りないのか、繊細さに問題があるのか、にこにこ嬉しそうにして線香花火を燃やす。
気が付くとただでさえ僕の近くでしゃがんでいた姉が、じりじりと僕に近づいてくる。さすがこれ以上は僕も心臓が持たないので、僕もしゃがんだままじりじりと距離を取る。それでも姉が近づく。僕は離れる。姉が迫る。僕は逃げる。とうとうろうそくを真ん中にしてぐるっと一周してしまった。姉はくすくすと笑いだした。僕も笑いだした。結局いつもの通り僕が負けて、二人で笑いながら体をぴったり寄せ合って花火をし続けた。
最終的に僕たちは二人で三十本近く線香花火を燃やし続けけていた。
「花火って、きれいだよね」
姉が言った。
「うん」
「でもさ、すぐ燃え尽きちゃうじゃない」
僕はぎょっとした。
「寂しいよね……」
寂しげな姉の横顔が悲しい。姉は花火の儚さを自分と重ねているのだろうか。
「そんなことない」
僕は少し強い口調で反論した。
「えっ」
「寂しいけど、寂しくないっ」
「寂しくないの?」
「そっ、そりゃもちろん寂しいけど、寂しいけどっ…… 憶えてるから。僕の記憶にしっかりと残っているから。僕が憶えてる限りその火は消えてないんだ、いつまでも、決して」
「ゆーくん……」
「花火だけじゃない。花火だけじゃなくて……」
姉さんのことだって僕は忘れない。一生忘れない。例えば今こうして花火をしていたこととか。僕の目には涙がにじんでいた。それを見て姉は沈黙する。
「……」
姉は複雑な表情で少し僕を見つめて、さらに僕に寄りかかる。そうして身を寄せまた少し軽くなった体重を僕に預けると、線香花火に火をつけた。
僕はその花火を見つめながら思った。線香花火の寿命は一瞬だけど、だからこそその輝きは人の目を奪うのかもしれない。
もしかすると姉がきれいに見えるのは、この線香花火のように短い命だからなのではないか。そう思うと僕はぞっと背筋が冷たくなった。
僕の手元でオレンジ色に輝く線香花火が、火をつけてわずか十数秒でポトリと地面に落ちてその生涯を終えた。
※2022年5月24日 ルビの誤りを修正しました。
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