第20話 銀杏(ぎんなん)拾いと災難

 我が家では農業を営んでいて、米を含めた農作物を収穫している。それ以外にも持っている山に自生している植物など、例えばタケノコやフキ、ミズ、ワラビのような山菜、時には水路のアメリカザリガニまでも収穫し、それらが 季節の味覚として食卓にのぼっていた。

いずれも僕や姉にとってちょっとしたイベントごとで、毎年これらの収穫を楽しみにしている。たった一つを除いて。

 それは銀杏ぎんなん。あの茶わん蒸しに入れたり串焼きにしたら絶品の、イチョウの実だ。

 うち所有の小さな山中に三本の大きなイチョウの木があって、毎年この季節になると僕らはそこに銀杏ぎんなんを取りに行かされる。これは銀杏ぎんなんを食べたいから仕方なく行くのであって、そうでなければこの時期のイチョウになんて近づきたくもない。呑兵衛の親父はこの銀杏ぎんなんが特に大好物なので、僕たちはやむを得ずイチョウの木に向かう。それも軽装ではなくちゃんと重装備でだ。


「姉さん」


「あー、行ってらっしゃーい」


 掛け声ばかりでいつまでたっても姉が玄関に来ないから見に行ってみると、姉は自室のベッドで作業着を着たまま布団に頭までくるまっていた。


「何やってんだよ行くぞ」


「だから行ってらっしゃあい」


「姉さんも行くの」


 僕は姉を無理矢理抱え起こす。


「やめろー、か弱い病人の姉を粗略そりゃくに扱うなー、無礼者ー」


 僕の腕の中でじたばたと抵抗する姉。姉の髪のいい匂いがふわっとして、僕は何かとてつもなくイケないことをしている気になって胸がドキドキしてくる。それでも僕は平静を装って姉を布団から引きずり出してベッドに座らせる。


「昨日約束しただろ。僕一人じゃ無理だってば」


 姉はじたばたをやめない。


「やめろー、やめろゆーくーん。どさくさに紛れて変なとこ触るなあ」


「触ってねーよ! 人聞きの悪いこと言うな! さっ、ほら起きた起きた」


 僕に抱え起こされて観念した姉はベッドから降りる。僕に抱え起こされて杖を持ち玄関へ向かう。


「でもやっぱりさっきおっぱい触ったよね」


「触ってないッ」


「むふふー」


 なんでそんな風にニマニマと笑うんだよ。


「だいたいあんな真っ平――あうっ!」


 僕が全てを言いきらないうちに姉の最大の凶器、ロフストランドクラッチがうなりをあげて僕のむこうずねを直撃した。


「結局触ってんじゃねーか、えっち」


「いや、そうじゃなくて、そうじゃなくて……」


 僕がむこうずねにクリーンヒットした杖の痛みに悶絶するのを放置して姉は杖を突いてひょこひょこと玄関へ向かう。

 実際あんなに暴れてたら触っちゃうに決まってんじゃんかよ。不可抗力だよ仕方ないだろ。と僕は心の中で言い訳みたいなことを考えながら、その真っ平らな感触の余韻に僕はドキドキがなかなか収まらなかった。


 僕たちは汚れてもいい作業着に軍手と長靴、ごみ拾いばさみ、ポリバケツと言った装備でイチョウの木に向かう。

 姉でも歩ける平板な道のりを歩いて十五分ほど、イチョウの木に近づく。するとさわやかな秋風に乗って実にさわやかでない臭いが漂ってきた。


「うえ」


 姉なんてもうそれだけで吐きそうになってる。僕も胸が悪くなる。


 イチョウの木にたどり着いた。実に立派な三本のイチョウの大木だ。

 抜けるような青空を背景にそそり立つ大イチョウの見事な紅葉に僕らは一時この臭いも含め何もかも忘れて見入る。

 しかし我に返ると落ちているイチョウの葉も銀杏ぎんなんの量も、そしてそれが発する臭いもものすごいことになっていることに気づいた。

 そう、僕も姉もこの銀杏ぎんなんの臭いが大嫌いだったのだ。まあ、好きな人はあまりいないと思うけど。だってその臭いは本当に強烈なうん〇の臭いだから。


「よし、さっさと拾っちゃお」


「ううう」


 顔をタオルで覆った姉が力なくうなずく。


 長靴でくにゅくにゅの銀杏ぎんなんの実を軽くつぶし、硬い実をゴミ拾いばさみで掴んでポリバケツの中に放り込む簡単な作業。だがこれが強烈な臭気の中でやるとなると実につらい。臭くて臭くて頭がくらくらする。

 なんで銀杏ぎんなんはこんなに臭いんだろうか。いくら銀杏ぎんなんの実が美味しいとはいえこの臭さに耐えるだけの価値があるのだろうか。

 僕が自問自答を続ける中、姉もゆっくりだが片手に杖を突いて銀杏ぎんなん拾いをやってくれている。

 あたりの地面はすぐに銀杏ぎんなんの果肉でいっぱいになった。


 僕が銀杏について哲学的な考察に浸りながら銀杏ぎんなんを拾っていると、お尻に何かこつんと当たる。

 振り返ってみても珍しく熱心に銀杏ぎんなん拾いをしている姉しかいない。

 また銀杏ぎんなん拾いに戻ってみるとまたお尻に何かがこつんと当たる。振り向いてみてもやはり姉しかいない。

 また銀杏ぎんなん拾いに戻ってみるが、今度は何もないうちにくるっと振り向いてみた。すると姉が銀杏ぎんなんを爪先で踏んで器用につるんと僕の方に飛ばしたその瞬間が僕の目に入ってきた。僕の作業着にぺちゃっと臭い果肉がへばりつく。


「何やってんだよ! 汚れちったじゃないかよ!」


「くひひ、さーせーん」


「心がこもってないっ!」


「はーい、どーもすんませんでしたぁー」


「ちっ」


 僕にして珍しく姉にキレた方だと思う。これはもう同じ目に合わせてやらないと気が済まない。

 僕も姉の真似をして銀杏ぎんなんを飛ばそうとするが、全くうまくいかない。くそっ、つまんないことばっか器用な奴め。

ようやく一つ銀杏ぎんなんを飛ばせたがあらぬ方へ飛んでいく。その後も何度も挑戦して、ようやく一個、姉のお尻に当てることに成功した。

 姉がゆっくり振り向く。その顔はタオルで半分隠れていてもわかる。そう、あれは、般若はんにゃの顔だ。

 姉は無言で器用に銀杏ぎんなんを飛ばす。ひゅっとうなりをあげて臭い果肉にまみれた銀杏ぎんなんが頬をかすめた。臭い果肉のかけらが僕の頬につく。僕は完全にキレた。

 僕が、姉が、無言で爪先を使って銀杏ぎんなんを飛ばす。だが姉の発射頻度ひんどは僕の実に五倍近い。なんなんだあの無駄な器用さは! 本当に足悪いのかよ!

 姉は勝利を確信した笑みをその目に浮かべながら次々に銀杏ぎんなんを僕の作業着にぶつけてくる。僕も反撃するがほとんど姉の作業着を汚せない。僕の作業着がどんどん臭くなりもう耐えられない。


「さあさあ、ゆーくん。降伏しなさい」


「だっ、誰が降伏なんてっ」


「よかろう、ならばさらなる地獄を味わうがいい!」


「やっ、やめろー!」


 もう臭くて限界。


 僕は姉からの屈辱的な降伏勧告を受け入れ、この後の銀杏ぎんなんの処理についても僕が一人で行う旨を受諾じゅだくし調印した。

 このころには銀杏ぎんなんも十分集まったので姉は意気揚々と、僕はバケツを三つも持たされて意気消沈して帰宅することにする。

 帰宅早々僕らは作業着を無駄に汚したことでおふくろにめちゃくちゃ怒られた。

 僕はその汚れた作業着のまま銀杏ぎんなんの処理をする。ゴム手袋をしてポリバケツ三杯分の銀杏ぎんなんに少量の小さな砂利を混ぜ、庭の水道の水で丹念に洗う。まだ臭いの抜けきらないそれを網に入れてガレージに干す。これが乾燥すれば臭いも抜け美味しく食べられるようになる。


 しかし、僕はこの処理の間中身体から抜けない臭いにうんざりしていた。晩ご飯の後風呂に入ってきれいに洗っても臭いが抜けきらないような気がしてすごく嫌な感じがする。一方で姉は全くそんなことはないようで、勝者の余裕を見せた上から目線で終始僕をいらだたせた。


 そして翌朝、目覚めと同時に僕は全身が腫れ上がっていることに気づく。鏡を見ると泣きたくなるくらい顔の形が変わっていた。びっくりしておふくろが病院に連れて行ってくれる。病院では銀杏ぎんなんアレルギーだと言われた。間違いない、姉にやたらめったら銀杏ぎんなんをぶつけられたせいだ、くそっ。


 病院から帰って薬を飲んでベッドに入ってからも全身が熱っぽくてむずむずとかゆい。

 体の不調と姉のせいでこうなったといういらだちで僕はなかなか寝付けなかった。それでも午後にはなんとかうつらうつらできるようになる。

 そんな意識がぼんやりしていた頃、誰かが僕の部屋に入ってきたようだ。杖を突いている音がするから姉だろうか。

 その人影は僕に向かって何かささやいていたようだが、半分眠りの国に行っている僕には全く聞き取れなかった。


 ふと頬になんだか柔らかいものを感じる。心が穏やかになるその幸せな感触を受けて、僕は深い眠りの中へ落ちていった。

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