第18話 夏嵐(なつあらし)に乗りて、雷(いかづち)来たらん

 何日か前から影響が懸念されていた強い低気圧は夜半から強い風雨をもたらしていた。

 親父もおふくろも日が昇る前から設備や農作物を嵐から守るために畑に出ている。僕も手伝いたかったが、僕には姉の面倒を見るという重大任務があり、姉を置いて外に出るわけにはいかなかった。


 朝はトーストにハムエッグを僕が作った。姉はもう自力では立てないので調理はむつかしい。それでもポテトサラダくらいは作れる、とだいぶ無理をしながらも作ってくれた。大雑把な出来だがそれでも姉が作ってくれたものだと思うと美味しい。

 ふと、これが姉が作る最後の手料理かも知れない、そう思い僕は真剣にゆっくり噛みしめてこの少ししょっぱいポテトサラダを食べた。


 僕が夏休みの宿題を済ませたらボードゲーム。姉は指が震える症状があるのでテレビゲームは難しいものが多いし、第一に姉自身がボードゲーム好きなのでこればかりをやることとなる。今回は姉のたっての希望で八時間以上はかかるビッグゲームを朝一でやることにした。

 二人で頭を悩ませながら駒を動かしカードを引いて静かにプレイをする。


 昼はきつねうどんを僕が作った。リビングのローテーブルで食べながら、二人してそばに広げたボードをにらみつつ考える。

 真剣勝負だ、手加減はしない。でも姉はかなり強いんだよなあ。こうして二人だけの満ち足りた時間がゆっくりと過ぎていった。


 しかし、勝負がつかないまま三時ぐらいになるとさすがに姉も疲れてきた様子が見え見えだった。僕は姉に昼寝をするよう促した。よっぽど疲れていたのか素直に従った姉は両手で杖を突いて自分の部屋のベッドに入った。しばらく話してるうちにすうっと眠りに落ちていったので、僕は安心してはリビングに戻った。


 風雨が衰える様子はない。外は三時とは思えないほど暗く、激しい雨が窓に打ち付け、突風で家がきしむ。親父とおふくろは大丈夫だろうか、心配になる。


 突如爆音がして部屋の電気が消える。ビビった。何が起こったのかわからなかったがたぶん雷が近くに落ちてそれで停電したんだろうと思った。そして雷が落ちた一瞬後に


「ゆーくーんっ! ゆーくーんっ!」


 と叫び声にも近い姉の大声が聞こえたので僕は血相を変えて姉の部屋に飛び込んだ。そこにはベッドの上で丸まって怯える姉がいた。急いでベッドまで行くと姉が僕にしがみついてきた。その勢いで僕はバランスを失い倒れて尻もちをつく。姉も一緒にベッドから引きずり降ろされる格好になり僕の上にすっぽりと収まった。


「怖いっ! 怖いっ!」


 姉は雷が大の苦手だった。ナメクジの次に。一方の僕は自分の腕の中に飛び込んできた姉にひどく動揺していた。姉を落ち着かせるためだと自分に言い訳をして肩を抱く。


「大丈夫、大丈夫だから」


「大丈夫じゃないっ! 怖いっ!」


「いま一発落ちてきただけじゃん、もう落ちてこないよ」


「ほんと? もう落ちない?」


 その瞬間またもや近くで雷が落ちた轟音がする。さっきより大きな音だ。


「やだーっ! やだやだゆーくんの嘘つきいっ!」


「うっ」


 まるで締めつけるように姉が全力で僕にしがみついてくる。なんだかめまいがしてきそうだ。

 僕の胸元に顔をうずめ、姉がべそをかき始めた。


「いやだぁ……」


「きっとすぐ雷雲もいなくなるって、少しの辛抱だからさ」


 姉は頭を横に振る。


「いやだ、いやだよお……」


 次第に姉の泣き声は大きくなっていく。雷がごろごろと鳴っている。


「もういやだあああ……」


 そういうと姉は号泣し始めた。こんなことは初めてだったので僕はどうしていいかわからない。稲光が何度も暗い室内を刺すように差し込む。


「うああああああ! もういやだ! もういやなの! もうこんなのいやあああ!」


 これはたぶん、雷のことを言っているんじゃない、と鈍い僕にも察しがついた。号泣する姉の肩を抱く腕に力が入る。あんなに明るくていつも僕のことをからかってばかりの姉が、人にも何も言わずこんなに苦しんでいたなんて。苦しんで当たり前なのにそこに思い至らなかった僕が情けないし悔しい。


「いるから」


「うああああ」


「一緒にいるから」

 

 聞こえているのか聞いていないのか、姉は僕のTシャツに涙と鼻水をなすりつけながらおいおい泣いている。


「親父もおふくろも…… あと僕も」


 僕の言葉に応えない姉の肩を抱き頭をかかえ、僕は姉を泣きたいように泣かせようと思った。姉の苦しみはあまりにも深すぎて、僕にはその深さを想像することすらできない。だから僕にはせいぜいそばにいてあげることくらいしかできないんだ。悔しいけれど。


「ごめんっ」


「えっ?」


「ごめんゆーくんごめん。ごめんね」


 そう言うと姉はまた大泣きする。


「いいよ。僕は全然いいよ ……姉さんのためなら全然いいんだ」


 姉は泣きながら言った。


「ゆーくん…… あたし、鳥になりたい……」


「鳥?」


「あたし、自由になりたい。足なんか動かなくてもどこへでも飛んでいけるようになりたいの」


 そう言ってしがみ付いてくる姉を思わず抱き寄せ額にそっと唇をつけた。姉は気づかなかったのか何の反応もしなかった。


 姉はいつまでも僕にしがみついたまま静かに泣き続けて、そのうち泣き疲れて寝た。僕は苦労して姉をベッドにあげてタオルケットをかけ、しばらく迷った末にもう一度姉の額に唇で触れて逃げるように部屋を出た。


 いつの間にか嵐はおさまって雨風もすっかり静かになっていた。


 リビングに戻るとプレイ途中のボードゲームがさみしく僕たちを待っていた。僕はそれを蹴っ飛ばした。ボードを踏みつけてカードやコマをけり散らした。紙のボードが悲しい音を立てて転がる。そんなことをしても何にもならないのに、僕は何もかもが悔しくて仕方なかった。

 なぜ姉が、姉だけがこんな目に合わなくてはならないのか。運命というものがあるのならなぜ姉だけにこんな運命が、いったい誰によって押し付けられたのか僕にはわからないし、わかりたくもなかった。

 ゲームを蹴飛ばしながら僕も泣いていたと思う。

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