第16話 ザリガニ釣りと増悪(ぞうあく)

 夏のこの季節になると親父から僕に指令が下る。ザリガニを抹殺指令だ。特定外来生物に指定されてはいないものの、アメリカザリガニは稲を傷つけ畦に穴をあける害獣だ。と言ってもまあうちでは実際大した被害はないんだけど。またうちの家業には直接の関係はないが「生態系被害防止外来種」に指定されていて早急な駆除が必要とされている生物だ。だからうちでもアメリカザリガニの駆除を定期的に行っている。その任についているのはもっぱら僕、となっている。

 まずは水路にエビかごを仕掛ける。文字通りエビ漁に使う半円形のかごで、そもそもがザリガニ漁に使うものではないから少し大きい。なので水深が少し深い水路にしか仕掛けられない。

 そのエビかごに釣り用の練り餌を入れる。その練り餌の臭いに誘われたザリガニたちがエビかごに入り込むが、哀れザリガニはそこから抜け出ることができない仕掛けになっている。そのかごを水路に沈めて翌日引き上げると、大量のザリガニがかかっているというわけだ。昨年は最大で百五十匹かかっていたな。今年は何匹かかるか楽しみ。


 エビかごを仕掛けた翌日、いよいよ出発、と思って玄関のたたきで靴を履いていると、後ろから姉が片方だけ杖を突いてやってきた。見ると姉も一緒に靴を履き始めるではないか。


「えっ、あれ? なに、どういうこと?」


「姉ちゃんも一緒に行くんだけど」


 僕は困惑した


「聞いてないよ」


「言ってないもん」


「だって行くって言ってなかったじゃん!」


「行かないなんて言ってなかったよ?」


 何だよその屁理屈。

 深い水路とか危険なところ行くんだけどな。連れて行きたくないな。

が、姉の性格からしてやると言ったらやる、行くと言ったら行く、なので僕はため息ひとつついて姉と出かけることにした。僕の後から嬉しそうにひょこひょこついてくる姉。

 とりあえず一つ目のエビかごを引き上げる。大漁だ。百二十匹はいるだろう。姉も大喜びだった。

 エビかごを回収しザリガニをバケツに放り込む。なかなか大きい奴もいて嬉しい。

 二つ目のエビかごを引き上げる。こちらは小さい水路だったこともあって三十匹ほどしか獲れなかった。身も小さい。

 三つ目のエビかご。八十匹ほど獲れた。上々。

 四つ目のエビかご。百匹以上は入っている。これも大漁だ。僕も姉もほくほく顔になる。


「ふふー、これは楽しみだねえ」


 姉もご機嫌だ。


 これだと深い水路のザリガニしか駆除できないので今度は水田に行く。


「姉さんも、やる?」


「やるやる!」


 と姉の楽しそうで元気な返事。

 僕はポケットから煮干しとさきイカとタコ糸を出した。

 二人でちょうどよい木の枝を見つけてきて、その枝の先に半分に切ったタコ糸を結ぶ。そのタコ糸の先端にさきイカか煮干しをくくりつけてザリガニ釣りの仕掛けは完成だ。


 あとは大きいザリガニを見つけたらその前にそっとさきイカか煮干しを垂らす。


 僕が狙った大物を姉が食い入るように見つめている。さきイカに食いついて、食べるのに夢中になったらゆっくりと引き上げる。ザリガニはせっかくのえさを取られてなるものかと必死でつかむ。そのまま充分釣り上げたところで下に置いた網かバケツに落として終了だ。結構大きいのが釣れたぞ。


「いい? 大物を狙って」


「う、うん……」


 姉がごくりと喉を鳴らす


 姉は水路の畦に開けられた穴に潜むザリガニに狙いを定めた。これもなかなかの大物だ。

 だが惜しい。姉の煮干しに食らいついていたザリガニは、かすかな気配に勘づいてさっと穴の奥に逃げ込んだ。


「あー」


「ああー」


 姉が選んだ餌の煮干しは臭いが広がりやすいが身崩れも激しいので、長い時間は使えない。僕は河岸を変えることにした。


 僕たちは木陰の小川のような小さな水路にたどり着いた。ここなら木陰に紛れて僕たちの姿もザリガニには判別しずらいような気がしたからだ。それに何よりも直射日光にあまり当たってはいけない姉のことが心配だった。

 ここで僕たちは次々に大物を引き上げる。爆釣だ。バケツに次々とたまっていく大物たち。一番小学校の時でもこんなことはなかった。僕一人で有頂天な中、姉は珍しく一人静かだった。


 時間もそろそろ四時。もう帰った方がいいだろう。姉に声をかける。


「姉さん、そろそろ帰ろっか。ほんともうすげー釣れたし」


かすかなつぶやきのような姉の答えは意外だった。


「かえ、れないかも……」


「え?」


 僕の表情が硬直する


「足、動かな、い……」


 姉は恐怖と半笑いが混じった顔をして青ざめていた。僕も青ざめて上ずった声になる。


「いっいつからっ?」


「よくわかんないけど、なんか全然力はいんなくて、立てない……」


 少し震えた姉の声。姉は膝をついて座っている姿勢から微動だにしていない。僕の声も震えた。


「そんな、そんな急に悪くなることなんて……」


「わかんない。わかんないよ。ねえどうしたらいいかなあ、ゆーくん」


 姉はすがるような眼で僕を見つめる。


「と、とにかく親父を呼んで車で病院にっ…… 圏外っ!?」


 僕はスマホを地面にたたきつけたい衝動にかられた。姉も泣きそうな顔になる。ザリガニ釣りに夢中になって失敗した! 僕は自分を責める前に自分を落ち着かせようととりあえず今すぐできることをした。姉を楽な姿勢に座らせる。山の斜面に背中を預け足を投げ出した姿勢を取らせる。


「と、とにかくスマホ通じる場所探してそこで親父と連絡とる。そしたら大丈夫。大丈夫だから」


 姉は不安でいっぱいの表情ながらも強くうなずく。


「じゃ、僕行ってくる」


 突然足が動かなくなった恐怖と、僕に置いて行かれる不安でいっぱいの姉は無言で僕を見つめる。


 僕は思わず姉を抱きしめた。


「大丈夫。必ず親父を連れてくる。そうしたら絶対何とかなる。病院にだってすぐいける」


 抱擁を解くと姉は青ざめた表情でうなずいた。


「うん…… 待ってるね」


 僕は考えていた。どこに行けばいい? 高くて開けた場所に行けばいいはずだ。僕は近くの傾斜地の上に農協の選果場があるのを思い出した。僕は選果場まで走る。自分でも信じられないほどの速さで走った。まったく疲れもしない。僕は必死で走りながら、これが火事場の馬鹿力ってやつなのか、妙に驚いていた。

 選果場についてスマホを見てみると、果たしてかろうじて電波が通っていたので親父に電話する。これはすぐに通じた。僕からの電話の内容に驚いた親父は姉のもとに急行するという。今度はおふくろに電話した。おふくろもすぐに出たので事情を説明し、病院に連絡して欲しいと言うと、すぐにそうするとの答えを得た。

 僕はまた全速力で走って姉のもとへ急いだ。


 姉のもとに返ってくると不安でいっぱいな顔をした姉が両手を広げてくるので、僕は思わず姉を少し乱暴に抱きしめてしまった。


「もう大丈夫、親父にもおふくろにも連絡した。すぐ車で来るってさ」


「間に合わなかったらどうしよう……」


「間に合わないって?」


「間に合わなくって、足だけじゃなくて、どんどんどんどん力が出なくなって手とかし、しっ、心臓とかっ!」


「大丈夫そんなことないって」


「なんでわかるの? お医者さんじゃないのになんでわかるのっ?」


「そ、それはわかんないけど、でも絶対大丈夫だ」


「わかんないのにそんなこと言わないでよ!」


 恐怖で涙を浮かべ僕に怒りをぶつける姉。僕は姉に反論することはできなかった。そう。僕にできるのは、信じることと祈ることだけ。なんて無力なんだ。


「わからなくっても言う。姉さんは絶対大丈夫だ」


「もうやめてっ! どうしてそんなことが言えるのっ!」


「そう信じてるから」


「信じてれば思いどおりになんてなるわけなんかないじゃん!」


「うん。そう。そうなんだ。だけど僕今は信じることと祈ることしかできない。ごめん。無力な弟でごめんっ」


 僕は感極まってまた姉を抱きしめてしまった。姉も僕のことを抱きしめ返してくる。


「怖いっ、怖いのゆーくんっ」


「僕も怖い。姉さんが苦しむのが怖い」


 僕らは落ち着くまで長いこと抱き合っていた。ヒグラシの鳴き声を聞きながら今度は僕たちは手をつないだ。


 姉が僕の手を握る手に力を入れて嬉しそうに言う。


「あたし、ゆーくんとこうしてると落ち着く。これからもこうしていい?」


「……時々なら、ね」


「やった、嬉しい」


「でもほんとはしちゃいけないことなんだと思う」


「…………わかってるよ」


 不機嫌そうに姉はつぶやいた。


 僕は姉の状態も気になっていた。


「どう、悪くなってきてる?」


「うん…… たぶんだいじょぶ」


「足動いたりしない?」


「どうかな? っん、んーっ」

 姉が足に力を入れるとかすかにかかとが地面から浮いた。僕はほっとした。今回のことは一時的な発作のようなものなのかも知れない。


「動いたあ」


 姉もほっとした表情で僕の手をぎゅっと握る


 それから間もなくして親父が車で来てくれた。親父の車に気づいた瞬間につないでいた手を放し、くっついていた体も離したのがなんだかものすごく悲しかった。

親父と僕は姉を乗せそのまま病院へ走る。病院でおふくろと合流した。ストレッチャーに乗せられた姉は様々な検査を受ける。


 病院のロビーで僕は考えていた。僕たちには信じることと祈ることしかできない。僕の口をいて出たその言葉の無力さが、みじめさが、苦みとなって僕の口いっぱいに広がる。僕はぎゅっと手を握りしめる。そこには姉のかさついて骨ばった薄い手の感触だけが残されていた。


 姉は即日入院となった。


 玄関では今晩の晩ご飯になるはずだったザリガニたちがバケツの中でカシャカシャとうごめいていた。

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