第9話 春は桜並木の屋台
桜が咲く季節が今年もやってきた。茜川よりずっと立派な志間川に沿って桜並木が続いている。驚いたことに姉はそこまで行きたいと言い出した。医師も良いというので僕が付き添って桜並木まで向かうことにする。
途中で何回か休憩して、それでも僕の思った以上に姉は歩けていた。姉はもう病魔に打ち勝ちつつあるんじゃないか、そんな希望さえ湧いてくる。本当ならとっくに、もうとっくにここにはいないはずなのに。
道路の桜が植わっていない側にはいくつもの露店が並んでいる。大判焼き、お好み焼き、焼きそば、綿菓子、りんご飴、あんず飴、ベビーカステラ、いか焼きなどなど。
桜のあでやかさにすぐ飽きた姉は食い気に走り始めた。
「ね、ゆーくんなんか買って」
「お小遣いは三百円までです」
僕は財布の入った後ろのポケットを叩いた。
「えー、バナナは含めなくていーじゃーん、ほら、あそこのチョコバナナ」
呆れるほどに子供っぽい声でチョコバナナをねだる姉。辞めてなければ高二だとはとても思えない。
「食べきれる? 夕飯残さない?」
僕はまるで母親のように姉に念を押す。最近の姉は食が細くて、それがおふくろを悩ませていた。
「だいじょぶだいじょぶ、今日はいっぱい身体動かしたしね、ねえお願あい、チョコバナナ買ってえお兄ちゃーん」
と僕の袖をつまんで引っ張ってくる。僕はどぎまぎするのをごまかしながら、
「誰がお兄ちゃんだよ、恥ずかしいからやめて」
と突き放すように言い放つ。結局僕は自腹でチョコバナナを買ってあげた。悔しいので自分の分も買った。露店と露店の間のガードレールにお尻を乗っけて二人並んで黙ってチョコバナナを食べた。身を寄せ合い散り始めた桜を眺めながら無言で食べた。春の日差しが暖かく僕ら姉弟を照らす。
「ふう、ごちそうさまっ。おいしかったよ」
「それはよかった。僕のお小遣いを使ったかいがあった」
僕を見る姉は髪にいくつもの桜の花びらがついている。口の
「チョコついてる」
と僕は自分の口の端を指で指す。
「取って」
といたずらっぽい表情で顔を近づけてくる姉。僕をからかう気満々のいつもの顔だ。
「やです」
僕はまた目を背けた。
「ねえゆーくーん、お願ーいー」
「頼むからやめてくれ、人が見てるだろ」
僕に顔を近づけてくる姉に周囲の人々がちらちらと視線を送っている。
それでも姉の態度が変わる気配がなかったので、僕は腹をくくる。ところが僕が姉の顔に手を伸ばしたところで、姉はふいっとその顔を上に向けた。
「あ、メジロ」
僕をからかうことをすっかり忘れた姉は桜の花咲く枝を行ったり来たりする緑色の小鳥にすっかり目を奪われている。僕の手は宙に浮いたままだ。恥ずかしいやら情けないやら腹が立つやらでその時の僕は耳まで赤くなっていたと思う。
「カラスが好きだったんじゃないのかよ」
「カラスも好きだよ。でもメジロも好き」
誕生日に買ってもらった双眼鏡で嬉しそうにメジロを眺める姉。その横顔を見ると、さっきまでからかわれていたのに僕まで少し嬉しくなる。
帰り道の最後、姉は片手で杖を突きながらようやく家に帰りつく。帰宅した時はもう力尽きたように玄関に倒れ伏した。
「ゆーくん、肩貸して」
「……やだよ」
「えー、なんでー、いいじゃーん、かわいい姉をここに放置するのかよー」
……だからじゃんか
それでも僕は姉を介助して部屋まで連れていく。わきを抱えた姉はどこか桜のような香りがした。髪にまだいくつもの桜の花びらが乗っている。
姉をベッドに座らせると、またとんでもない発言をして僕を焦らす。
「ね、ゆーちゃん。着替えるの手伝って」
「はあっ?」
「うふふ、冗談。じゃ、一人で頑張るから部屋に入んないでよ」
「誰が入るか」
「へぇー」
姉のにやにや笑いが憎らしい。僕はぴしゃりと引き戸を閉めて姉の部屋を出ていった。
その日の夕ご飯、姉はかなり無理をして食べているのがまるわかりだったけれど、それでも完食してくれて僕はほっと胸をなでおろした。ごちそうさまをしたとき姉がふふっと僕に笑いかけてきて、なんだか二人で秘密を共有した気分になった僕も珍しく姉に笑い返してしまった。
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