第6話 晩冬の面談

 姉の主治医が変わったので「ご家族を呼んで話をさせてください」と言われ親父とおふくろが病院に行くことになった。僕は親父から来るなと言われていたのだけれど、僕にだって聞く権利はあるはずだ、だって僕の姉の話じゃないか、たった一人の姉なんだから、僕だって家族なんだから、とねばり強く主張して何とか仲間はずれにされず済んだ。


 病院の面談室はオフホワイトの天井と壁と床とテーブルとパイプ椅子で構成されていてなんだか冷たい感じがした。窓の外に映る小雪がちらつき始めた曇り空が僕の心にのしかかってくる。


 最近の姉の容態は急によくなったかと思えば、また急に悪くなることの繰り返しで僕たちは不安を募らせていた。


 僕らは病院の職員に案内されて先に席に座って待っていたが、二十分以上も待たされた。僕らが全員無言で座っていると、ひどく疲れた様子でやつれていて、鷲鼻に眼鏡をかけた年寄りの医者が入ってきた。


 医者は自己紹介を済ますとたくさんの資料が詰まっているらしいファイルを見ながらすぐに本題に入った。


 医者は次のような説明をした。この病気で治ったり、一時的によくなったりした例は世界でも五例、日本では一例しかないということ。特効薬や治療法が確立されていないということ。子供の頃にかかりやすい病気で、発症してから平均して八年程度で亡くなってしまうこと。そして姉は発症してからすでに九年がたっているということ。


 つまり、姉の寿命は普通に考えたらいつ尽きてもおかしくないということだ。医者は、これだけは覚悟しておいてくださいと言った。親父もおふくろも、このことは前の先生から聞いて知っていました、今まで生きてこれただけでも幸せです、と能面のような表情で答えた。


 今の姉の病状についての話に移る。姉は厳しい状態で一進一退を続けている。突然驚くほど良くなったかと思えば、逆に突然恐ろしく悪化するので非常にむつかしい。逆に言えば時折でも目覚ましい回復を見せることがあるわけで、そこに希望を見出しましょう。と医者は締めくくった。


 感情がないようにしか見えない医者はこれからの治療についての話をはじめた。


 今後も今までの薬での治療とリハビリを続ける。日本では未認可だが、アメリカではある程度の効果が認められる薬や治療法があるので、それについても検討するのも良いと思う。しかし、とてつもないお金がかかるので、そこはよくよく考えるように。そしてその治療に必要な金額を聞いた親父は一言うなって腕を組み、難しい顔をして白いテーブルをずっと見つめていた。


 僕はこの医者が気に入らなかった。この病気の治療について日本では一番詳しいそうだが、だったらなぜ治せない。HRで連絡事項を伝える担任よりも無感情で淡々とした態度が気に食わなかった。もしかするとこいつはもう姉のことは見捨てていて早く次の患者を診たいんじゃないだろうか。そんな疑念もわいてくる。姉はあんなにリハビリやら注射やら山ほどの薬やらで懸命に生きようと戦っているのに、なんなんだこいつは。事務的に、あまりにも事務的に命を扱っているようにしか見えない。


 医者が言った。


「これからも頑張って――」


 その言葉に僕の中の何かが切れた。親父の隣で親父と同じようにうつむいて声を絞り出す。


「何を頑張るんですか」


 一瞬で室内に緊張が張り詰める。全員が僕の方を見る。


「これ以上何を頑張れって言うんですか」


 吐き捨てる僕の声は震えていた。


「学校辞めて代わりに毎日くたくたになるまでリハビリして何本も注射打って何十錠もの薬を飲まされて副作用に悩まされて友達と会うこともろくにできずにできることと言ったらやっぱりリハビリみたいな散歩ばっかりでこれ以上何かを頑張る時間だって気力だってもう――」


 おふくろが僕をたしなめる。


「よしなさいっ」


「だってもうとうに限界じゃないかっ!」


 僕が叫ぶとおふくろは手で顔を覆って静かに泣き出す。


 親父は腕を組んでじっと目を閉じる。


 医者は表情を変えないがやはり視線を落とした。


 医者はさっきまでと全く変わらぬ事務的な声でしゃべる。


「今、君のお姉さんに必要なのは生きようとする強い意志だと思います。気持ちを強く持って病気と闘えばあるいは我々に勝機があるかもしれない、そういうことです」


 僕は薄ら笑いを浮かべていた。


「じゃあ意志を強く持てない人は死んでも仕方ないんですね。気力がないものは生きる資格がないということなんですね。気力の限界が来た人間からふるい落とされ死んでいくんだ。それが医学だって言うんならそんなのあんまりだ……」


 白いテーブルを見つめる視界がゆがむ。


「いつも笑って隠しているけど、もう姉はぼろぼろです。これ以上意志も…… 気力も…… それはもう死ねと…… 死ねと……」


 とうとう僕まで泣き出してしまった。


 医者はまだ機械のように「できる限りの範囲で」「もちろん医療も」とか言っていたが僕はもうまともに話を聞く気にはなれなかった。


 何の実りもなかった医者との面談を終わらせると僕たちは締め切った冷たい色の部屋から出た。僕たちは姉のいるリハビリ室に向かった。


 リハビリ室を覗き込んでみると髪をまとめ上げてルームウォーカーに乗って大粒の汗をかき、足を引きずりながら懸命に歩く髪を束ねたジャージ姿の姉がいた。何度も何度も膝から崩れ落ちる。そのたびに機械的な動きの技師に抱え起こされる。真剣な姉の表情は僕には決して見せないものだ。僕はそれをいつまでも見つめていた。


 リハビリが終わると姉はこっちに気づく。困ったようでいて気恥ずかしそうな顔で手を振って軽口をく。


「やー、皆さんお揃いでご苦労ご苦労」


 汗だくのままほほ笑みを浮かべて僕たちの前まで来た姉は僕の目の前でふらっとよろめいた。


「おおっと……」


 僕が姉の背と腕をつかんで支える。それを見たおふくろは姉にしがみついてめそめそと泣き始めてしまった。さすがの姉もこれには困惑したようで「大丈夫」を繰り返すばかりだった。


 親父が車を運転して四人でうちに帰った。途中で姉がまだ元気だったころ家族四人でよく行ったラーメン屋に寄る。四人でほとんど何も言わずにラーメンを食べた。姉は昔から好きだったエビワンタンメンを食べる。こういう時、いつもなら食欲もない癖に僕のチャーシューを奪いに来るのが姉の常だが、今日ばかりはやけに静かにしていた。おふくろは今にも泣きだしそうで、見てるこちらはハラハラしっぱなしだった。


 帰りの車中での姉もずっとおとなしい。ライトに照らされる姉の横顔はいつになく寂しげだった。

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