合法的な思考と外部記憶としての自己顕示欲を秘めた執筆

金玉強打

時間軸と座標

 ソビエト連邦の覇権は、ロシア帝国崩壊による政治的空白を埋める形で確立していくことになった。

 1919年11月3日、コミンテルンの結成が宣言された。これはロシアの共産主義政党によって結成された国際組織である。その目的は各国の共産党間の連絡組織を持つことで、各党の対立や干渉を排除して統一した運動を展開することであった。各国共産党の代表が集まる中央委員会総会で書記長を選出し、中央委員会全体を指導するという権限を持った。

 コミンテルンはソ連の権力確立に大きな役割を果たすことになるが、その成立過程は必ずしも順調ではなかった。まず、1919年にソ連国内で誕生した共産主義勢力は、当初、レーニンの指導のもとに労働者農民の間に浸透しつつあったが、やがてスターリンらを中心とする党内左派グループが台頭してきた。彼らはロシア革命の直後、「十月革命論」を唱えてマルクス=レーニン主義を放棄し、プロレタリア独裁を否定し、農村共同体主義に基づく修正マルクス主義を提唱した。そして、トロツキーらの国外追放を図ったほか、モスクワにおいてレーニン暗殺未遂事件を起こしていた。さらに、コミンテルンの成立に対しても否定的だった。そのため、コミンテルンは他の国では共産党内で少数派にとどまったのに対し、ソ連国内では圧倒的多数を獲得するに至った。こうした状況の中で、コミンテルンは独自に勢力を拡大していった。

 一方、アメリカのウィルソン政権は、第一次世界大戦の終結とともに国際連盟に代わる新たな国際機構の創設を模索し始めた。その結果、1920年5月に国際連盟に代わり、連合国間および各種協定締結のための常設機関として世界平和維持を目的とした非政府組織として『ワシントン会議』が発足した。この会議では、前文及び本文12条から成る国際紛争解決に関する規定である『ロンドン宣言』と、軍備制限などの内容を含む附属書8章からなる『東京宣言』が採択された。また、会期中の1921年1月には『諸国民の権利及び義務』(通称:権利・義務文書)も発表された。この2つの文書により、後の国際連盟規約に相当するものが作成されたと言えるだろう。

 ところが、これら一連の国際会議の決定にもかかわらず、アメリカをはじめとした戦勝国は賠償金の支払いなどをめぐって対立を深めていき、1922年にはワシントン海軍軍縮条約締結などにより国際的な緊張が高まっていった。そこで、1924年のパリ講和会議においては全権委員としてドイツとの和平交渉にあたった小村寿太郎を委員長とする『ジュネーブ条約』が作成され、戦時捕虜の取り扱いなどについて定められた。その後、1927年から1928年にかけて開かれたアムステルダム会議では『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』、『海洋法に関する国際連合条約』などが締結された。これらの条約の内容については次回以降に譲ることにする。

 1920年代に入るころから、ヨーロッパ諸国でも徐々に共産主義勢力が伸長し始めた。特にポーランドやチェコスロバキアなどでは、その影響力を背景にして議会政治から大統領制への移行を求める動きが強まり、各地で選挙が実施された結果、それぞれ「独立自主管理労組」「連帯」といった政党が結成されることになった。そうした中、1926年にはオーストリアでメーレンドルフ首相らによって結成された労働総同盟

(Federskorpsenvereinigungsbund, FVB)

 が主導権を握り、翌1927年にはスロバキアの独立をめざすスロバキア社会民主党が結成された。また、同年12月30日にはルーマニアで共産党の一党独裁体制が成立し、その翌年には同国で社会党が合法化された。しかし、ハンガリーやブルガリアでは社会党の勢力が伸びず、共産党が支配的になるに留まった。

 フランスにおいても社会党を中心に左翼系の政党が多く結成され、とりわけ共産党の影響力が強かったフランスでは第二インターナショナルに加盟する人民戦線派が誕生した。しかし、左派系政党の乱立を嫌った国王シャルル10世は中道右派のジャック・リシャールを首相に任命し、これに反発した左派勢は1932年の大統領選挙でリシャール候補を支持する一党優位の原則を破り、反リシャール派のニコラ・モランジュを擁立するという混乱に陥った(この結果、モランジュが当選を果たすことになった)。

 このように、社会主義諸国においては、各国における社会主義化の進展に伴い、その内部での権力闘争が激化していくようになった。しかも、当時の社会主義諸国の国家予算の過半は国内の労働者からの収奪によって賄われていたため、必然的にその権力基盤は不安定であった。このため、各国では相互不信が生じ、国内的には民族主義的な革命勢力の台頭を招くことになり、対外的に見れば大国間の協調関係が失われる原因となった。

 この間、ドイツでは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が勢力を拡大しており、ミュンヘン一揆の後にアドルフ・ヒトラーが総統に就任していた。ヒトラーはヴェルサイユ条約によって失った領土の回復を目指して軍備拡張を進め、同時にドイツ経済の建て直しを図り、その手段として福祉国家の建設を目指した。一方で、ユダヤ人に対する迫害政策を推し進め、ナチズムに共鳴する国民を増やしていった。さらに、東方進出を図ってソ連と対立した。

 イギリスにおいても労働党が権力を握っていたが、その指導層には王党派が多かったことから次第に保守化しはじめ、保守党が台頭するようになった。また、自由党も次第に分裂していったが、その背景には第一次世界大戦によって没落した貴族層の復権があった。そのような中で、第2次大戦後のイギリスでは「名誉ある孤立」を掲げるネヴィル=チェンバレンが政権を担い、戦後復興に成功した。一方、アメリカでは民主党が議会で多数を占めるようになり、フランクリン=ルーズベルトが大統領に就任した。彼は人種差別撤廃を掲げ、人種平等原則を定めた『コーカス=レース宣言』を発表した。

 こうした中、ヨーロッパや日本などで社会主義勢力の伸張が見られたことを受けて、国際共産主義運動の内部でも各国の共産党間での主導権争いが生じるようになっていった。コミンテルンでは1933年に書記長に選出されたゲオルギー・プレハーノフを中心とする一派と、ヨシフ・スターリンはモスクワにおいて激しく対立し、ついに1934年3月には両者の間で武力衝突にまで発展した()。この紛争は結局、プレハーノフ側が勝利したため、コミンテルン内ではそれまでのようなソ連の優位な立場を保つことは難しくなった。そして、人民戦線派が勢力を伸ばしたフランスやポーランドでは共産党内の主導権を巡って各派が激しく争う状況となり、内戦寸前の状況に追い込まれた。

 こうした情勢を受けて、コミンテルンは新たな指導部を選出することにした。1935年1月に北京で開催された中央委員会総会で、新指導部の指導者について討議が行われ、その結果、ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記兼書記局員であるセルゲイ・キーロフと政治局員だったニコライ・ブハーリン、それに中央委員に選出されていたゲオルギー・コルニエンコの三人が候補として選出された。こうして、翌1936年には三頭制による新体制が発足した。この三者の中では、最も穏健かつ現実的な路線を主張したのがキーロフであり、彼はソ連国内では保守派に属する人物だったが、国際共産主義運動内における影響力拡大のためにはやむを得ないとの決断を下した。そのため、彼が総書記の地位に就くことに決まった。しかし、実際にはキーロフは保守的な人物であり、西欧型の民主的で進歩主義的な共産主義を目指していた。従って、彼の目指す共産主義はソビエト・マルクス主義と呼ばれるべきものであって、レーニン以来の唯物論哲学とマルクス経済学の伝統を踏まえたものだった。だが、コミンテルンの方針に従っていた当時においては、それは受け入れられるようなものではなかった。そこで、彼はあくまでそれを実践しようとする姿勢を示した上で、国際的な共産主義運動の指導者としての権威を高めようと画策した。具体的には、キーロフはロシア以外の共産圏の指導的立場に立つことをめざした。

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合法的な思考と外部記憶としての自己顕示欲を秘めた執筆 金玉強打 @gamusyara45

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