一日目(木曜日)その2

昼休み。僕が購買戦争の戦利品であるメロンパン二個を手に意気揚々と教室に帰還してくると、怜と春人はすでに弁当を平らげてしまっていた……僕の弁当まで。

「おい、なに勝手に僕の弁当食ってるんだよ! 自分で作るのがどれだけ重労働か知らないだろお前ら!」

「あんたの弁当を食べるなんていつものことじゃない。今さらなに怒ってるのよ」

「そうだそうだ。てか、今まで俺たちの為に弁当を作ってきてくれたんじゃなかったのか」

 こいつら……。

「そんなことより。例のブツは買ってきた?」

 誤解を招くような言い方をするな。ああ、なるほど。「怜」と「例」を掛けてるのか。うまくないけど。

「ほらよ」メロンパンが入った袋を怜に投げる。

「はい、確かに」

 ビニル袋の中身を確認する怜。借金の取り立て屋か。

 そんな僕たちのやりとりをぼーっと眺めていた春人が、怜から袋を奪い取り、中を覗き込む。

「なになに、また賭けやったのか……あれ、航負けたのかよ。こりゃ珍しい、上手の手から水が漏れることもあるんだな」

「うるさいな。あれは怜が……」

「なによ、私のせいにするわけ? 元はと言えば、あんたが伊吹をジロジロ見ていたのがいけないんじゃない」

「だからジロジロは見ていないって言ってるだろ! チラチラだよ!」

「むっつり」

「変態扱いするなよ!」

 睨みあう僕と怜。

「まあまあお二人さん、痴話喧嘩はそれくらいに――」

「痴漢じゃないよ!」「痴女じゃないわよ!」

「痴しか合ってないし……意味が分からないよ……」

 そう言い残すと春人はメロンパンを一つ持って教室を出て行ってしまった。

 その後も僕が怜と変態議論を交わしていると、教室の前のドアが開いた。入ってきたのはうちのクラスの担任、来栖(くるす)アキ先生だ。肩まで伸びた栗色の髪に、大きな瞳。服装は、白のブラウスにロングスカートで新任の先生らしく、清潔感が溢れている。しかしながら、その童顔のせいで、高校生が無理して大人っぽい服をチョイスしているように見えてしまう。それに、とても気が弱くいつもオドオドしている。よくこんな感じで先生が務まっているな、と思っているのは僕だけではないだろう。

「あ、あの、お、お休みしているところ悪いんだけど、せ、席に着いてもらえるかな……」

 顔を真っ赤にしながらひどく申し訳なさそうに言って教壇の前に立つアキ先生。

「アキちゃん、どうしたの?」

 クラスのみんなが席に着いたのを見計らって、女子生徒の一人が訊ねる。

 僕は年上にため口をきくのは憚られるので敬語を使うけれど、他の生徒たちが敬語を使うようなことはほとんどない。先生というより友達という感覚に近いのかもしれない。

 先を生きている、とはまったく感じられない。

「え、えっと」

 アキ先生はそこで一度言葉を切り、大きく深呼吸してから続ける。

「じ、実は、先日委員決めをしたと思うんですけど、まだ一つだけ決まっていない委員があって、そ、それをこの時間を使って決めたいなって……」

 ああ、そういえば一昨日くらいのロングホームルームで委員決めしていたっけ。僕は寝ていたからよく知らないけれど。

「だ、だから、誰かやってくれる人はいませんかあ?」

 瞳を潤ませながら訊ねてくる。かわいい(小動物的な意味で)。

「アキちゃん、どの委員が決まってないか言ってないじゃん」

 さっきとは別の女子が柔らかく突っ込む。

「あ、ご、ごめんなさい! もうっ、どうしてあたしってこんなにダメなんだろう……」

 そう言って自分の頭をぽかぽか殴るアキ先生。かわいい(もちろん小動物的な意味で)。

 そんなアキ先生を生徒たちも温かく見守っている。これじゃどっちが先生かわかったもんじゃない。

「え、えっと、確かクラス委員だったはずです」

 アキ先生は少し考えてから答えた。

「ふーん。なるほど」

 さっきの女子が、その言葉にやる気無さげに返した。

「じ、じゃあ訊きます。や、やりたい人ー?」

 …………。

 やっぱり。クラス委員なんて、クラスをまとめなくちゃならないし、細々とした雑用もやらなければならないから、誰もやりたがらないよな。

「あ、あれ? そんなに大変じゃないですよ。なるべく、あ、あたしも手伝うから……」

 ……………。

「うぅ……だ、だれかぁ……お、お願いしますう……」

 瞳いっぱいに涙を浮かべて嘆願してくる。

 そんな彼女の姿を見ていると、クラス委員をやってもいいかなと思うのだけれど、思うのに止まって、なかなか手を挙げるところまではいかない。

 どれほど長い沈黙が教室を支配していたのだろう。

 突然、アキ先生が教壇をバンバン叩いた。

「もうっ! 誰もやってくれないなら、あ、あたしが勝手にき、決めちゃいますからねっ」

 そう僕らに告げると教壇の中を探り、授業で余ったプリントを何枚か取り出した。次いで、取り出したプリントを細かく千切り、その小さくなった紙一枚一枚に何やら書き込んでいく。いったい何をするつもりなんだろう。

 作業を終えたアキ先生は、大きく息を吸い、ほとんど叫ぶように言った。

「い、今からくじ引きをやりますっ。この紙切れの山から引いて、か、書かれている数字が出席番号の人に、や、やってもらいますっ。ち、ちなみに引くのは、あ、あたしでする!」

 それ、くじ引きっていわないだろ。なんか語尾もおかしくなっているし。ま、かわいいからいいけれど。

「クラス委員は二人必要なので、二回引きますっ。で、では、まず一枚ひ、ひきます……」

 アキ先生が三角に折られた紙の山から一枚引き、そこに書かれている数字を読み上げる。

 ――けっこう後ろの番号だな。

「ひ、一人目は、さ、三十五です。だ、だから出席番号が三十五番の人にやってもらいますっ。え、えっと三十五番の人はちょっと立ってもらえるかな……」

 にわかに教室がざわつくなか、僕の視界の右端で誰かが立ち上がった。

「あ、渡瀬さん。そ、それじゃ、やってくれるかな?」

 アキ先生が食べ物を乞う子犬のような目で渡瀬を見つめる。

「……はい、頑張ります」

 少しの沈黙の後、渡瀬は答えた。

 あれ、やるんだ。絶対断ると思ったのに。

「わ、渡瀬さんっ、ありがとう! じ、じゃあ、もう一枚引きますっ」

 クラス委員を引き受けてもらったことが余程嬉しかったのか、その場で陽気なステップを踏みながら山の中に手を突っ込み、一枚引く。

「そ、それでは発表しますっ。二人目は――」

 ――マジかよ。

「え、えっと、二十九です。で、ではっ、出席番号二十九番の人は立ってもらえますか?」

 僕はのっそりと腰を上げる。

「み、見境くんっ、やってくれるかな……」

 僕は少しの逡巡の後、答えた。

「……は、はい……喜んで」

 あんな愛らしい顔でお願いされてしまっては拒否できない。。

「あ、ありがとっ! それじゃみんな、渡瀬さんと見境くんに拍手ぅ!」

 拍手の雨に降られながら、ちらと渡瀬に目を向けると彼女も僕のことを見ていた。

 その時彼女が何か言葉を発したような気がしたが、その言葉は拍手にかき消されてしまい、僕の鼓膜を震わせることはなかった。

「じ、じゃあ、さっそくで悪いんだけど、放課後にやってもらいたいことがあるので、二人は教室に残っていてもらえるかな」

 僕らはほぼ同時に頷いた。


 ここで、一時間目の数学の時間に行われた賭けにおいて使用した僕の「特殊能力」について説明したいと思う。

 僕の特殊能力(このように表現するのは少々大袈裟だが)は、意識を集中することで、ほんの少し先の相手の行動が「視える」というものだ(たまに、意識を集中しなくてもちらっと視えてしまうこともあるが)。端的に言うなら、予知。ただ、予知することができると言っても、その相手の十年後の未来が視えたり、一見しただけでその人の寿命が分かったりするものではない。

 ほんの少し、なのだ。常人よりもワンテンポ早く視えるだけ。だから、大して役に立たない。たとえば、授業中にいつ自分が当てられるかがわかると言っても、ほとんど一秒前に分かるだけなので、「次の次の問題だな」などと予めその問題を解いておくといったような対策を練ることができない。あえて役立つ場面を挙げるとすれば、さっきのような賭けのときとジャンケンのときくらいだ。また、この力を使うときはなかなか体力を消費するので、あまり長時間使用することができない。以前、限界まで使ってみたら、十分程度経過したところで倒れてしまった。また、これも実験してみたのだが、二人までなら相手の行動を視ることができた。なかなか使い勝手が悪い力だ。

 ちなみに、この能力のことはまだ誰にも教えていない。教えたところで誰も信じないのが関の山だろう。

 前述の通り、一寸先の相手の行動しか視えないので、後々起こる出来事を紙に記しておくこともできない。だから、先程の賭けの際は先生が生徒を指名する直前、怜に聞こえるくらいの小声で生徒の名を伝えていたのだ。まさか僕のことを痴漢呼ばわりするとは思っていなかったけれど。

 まあ正直、こんなものは能力でもなんでもなくて、たまたま第六感的なものが、たまたま少し鋭くなってしまっただけなのだろう。

 「特殊能力」なんていう御大層なものではない。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室の前後のドアからクラスメイトたちが次々と吐き出されていく。彼らはこれから部活動に励んだり、友達と遊んだり、塾に行ったり、とそれぞれのアフタースクールを過ごすのだろう。

 そして、それは教室に取り残された僕らも同様である。

 夕暮れ。放課後の教室。女の子と二人きり。

 シチュエーションだけを考えると、なにか淡い期待を抱いてしまう。

 シチュエーションだけを考えると、だ。

 なんたって相手は渡瀬伊吹。今日、初めてその存在を認識したクラスメイトだ。そんな彼女と楽しくお喋りできるわけがない。

 会話のきっかけも掴めないまま、ただただ時間だけが流れていく。僕が机に突っ伏し、勝手にどぎまぎしているのに対して、渡瀬の目は手元の文庫本の物語を追っている。

「なにを読んでいるの?」なんていう至極簡単な質問もできない息苦しい空間を、文庫本のページを捲る音と窓から注がれる西日だけが優しく包み込んでいる。

 アキ先生がプリントを抱えて教室に飛び込んできたのは、放課後が開始してから約一時間後のことだった。

 アキ先生は入ってくるや否や、もうほとんど泣きながら何度も何度も僕と渡瀬に頭を下げた。

「ご、ごめんなさいっ! 書類が見つからなくて……。ほかの先生方にも探してもらって、書類はすぐに見つかったんだけど、そのお礼をしてたら、こ、こんな時間に……ほ、ほんとうにごめんなさいっ」

 お礼って……一体どんなお礼をしたらこんなに遅くなるんだよ、なんて文句も吐けるわけもなく、

「アキ先生、そんなに謝らないでくださいよ。それほど待っていませんから」

 僕の言葉に、アキ先生は狐につままれたような顔をしている。

「えっ?」

「実を言うと、僕はお腹の調子が良くなくてさっきまでトイレに籠もっていたんですよ。それに、渡瀬はずっと夢中になって本を読んでいましたから、そんなに退屈じゃなかったと思いますよ。ね、渡瀬?」

 水を向けると、渡瀬は少しピクッとして、

「は……う、うん」とだけ答えた。

 おお。敬語を使うなって言ったことは憶えているんだな。

 アキ先生は僕のでまかせを信じたのか、少し表情が明るくなった。

「よかった。じ、じゃあ、お仕事を始めましょう。これ、お願いできるかな」

 抱えていた書類の束を僕に渡してくる。

「これ、なんですか?」

「この前、みんなに答えてもらったアンケート用紙。それを二人で集計してもらいたいの」

 僕は頷いた。渡瀬はというと、いまだ読書を継続中。先生の話は彼女の耳に届いているのだろうか。

「了解です。先生はこれから職員会議ですよね。集計が終わったら職員室に持っていけばいいですか」

 アキ先生は僕の言葉を聞いて目をぱちくりさせた。

「え……う、うん。よく分かったね、これから職員会議だって。今、そのことを言おうと思ったのに」

「ああ……なんとなく。そんな気がしたので」

「僕は未来が少しだけ視えるので、先生のこれからの予定なんてお見通しです」なんて言ったところで信じてもらえるわけもないだろう。

「そう。そ、それじゃあ、あたしは行くから、ふ、二人とも頑張ってね」

 そう言い残すと、ひらひらと手を振ってアキ先生は教室を後にした。

 ひとまず渡されたプリントを手近な机に置く。

 さて、どうしよう。また二人っきりだ。てっきり、アキ先生と渡瀬と僕の三人で手分けして作業するものだと思っていたのに。

 僕が頭を抱えて唸っていると、渡瀬が読書を中断して近づいてきた。

 プリントの小山を挟んで向かい合う僕ら。そして沈黙。

 だが、今回の沈黙時間はあまり長くなかった。渡瀬が話しかけてきたからだ。

「あ、あのっ」

「な、なに?」

「……私が、半分……やるから」

「え? ああ……わかった」

 うなずいて、プリントの山に手を伸ばす僕。

「ちょ、ちょっと待って!」

 突然、渡瀬が叫んで、僕の両手をつかんできた。

「ど、どうしたの」

「あ、いや……私が先に半分取るから、あなたはそのあと」

 意味の分からないことを言い出す渡瀬。順番など関係あるのだろうか。

「べつにどっちが先だって変わらないだろ」

「い、いいからっ」

 僕はこのとき初めて、感情的になった彼女を見た。

「わ、わかったよ」

 そんな初めて感情を露わにした渡瀬に気圧されて、僕はプリントの山から手を放す。

「ご、ごめんなさい。急に大声出してしまって……」

「い、いやそれは構わないんだけど。……それより、さ」

 僕は視線を下に向ける。彼女の柔らかな白い手が、僕の手首をがっちり掴んでいる。

「……あっ! ごめんなさいっ」

 渡瀬は慌てて僕から手を離した。彼女の小さな耳がムレータのように赤く染まっている。たぶん、僕の顔も同じことになっているだろう。……女の子の手って、柔らかいんだな。

 渡瀬は一つ息を吐き、落ち着きを取り戻すと、今度はプリントの束を漁り始めた。一枚一枚、丁寧にチェックしている。まるで何かを探しているかのようだ。たまらず訊いた。

「なにをしているんだ?」

「な、なんでもない」

 ぶんぶん首を横に振る渡瀬。その間もプリントを漁る手は止めない。

「もしかして自分が書いたやつを僕に見られたくない、とか?」

 何の気はなしに思いついたことを言うと、渡瀬のプリントを持つ手がピタッと止まった。

「ち、ちが――」

 渡瀬は肩口で切り揃えられているみどりの黒髪をふるふると振って否定する。

「大丈夫だよ。だってそのアンケート、名前書く欄ないでしょ?」

「あ……」

「だから、渡瀬が書いたアンケートがどれかなんてわからないよ」

「そ、そっか……よかった」

 僕の言葉に安心したのか、渡瀬はほっと息を吐く。

「やっぱり自分のアンケート用紙を探していたんだね」

「えっ!? い、いや……」

 両手をバタバタ振って否定する渡瀬。

「わかった、わかった。じゃあ今度こそ始めようか」

 そう言うと、渡瀬は上目遣いで僕を見つめて、こくりとうなずいた。


「よし、終わった。渡瀬は?」

 ペンから手を離して、訊ねる。

「私も……終わった」

 アンケートの集計は三十分程度で終了した。まあ一クラス分のみだったので大して苦労しなかった。作業時間よりも教室で待機している時間のほうが長かったというのも可笑しな話だけれど。

「あとは、このアンケート用紙と集計結果を書いた紙をアキ先生に返すだけか」

 向かい席に腰かけている渡瀬が首肯する。

「それじゃ、お疲れさま。僕はこれを職員室に届けにいくから」

 渡瀬に別れの挨拶をし、プリントを持ち上げ、ドアに向かってニ、三歩踏み出したとき、

「ま、待って」と呼び止められた。

「ん、なに?」

 渡瀬はしばらくもじもじしていたが、やがてぼそっと言った。

「……私も、行く」

「いいよこれくらい。一人で大丈夫」

 正直言って少し重いけれど、一人で運べないほどの重さでもない。

「で、でもっ」

「本当に大丈夫だから。僕、こう見えて実は力持ちなんだ。だから平気」

 そう言ってプリントを持ち上げてみせるが、渡瀬は不満顔だ。僕は付け加えた。

「それに、こういうのは男の見せ場だからさ。かっこつけさせてよ」

「……わかった」

 渡瀬はしぶしぶ納得したようだった。

「気持ちだけ受け取っておくよ。それじゃ、お疲れ。また明日」

 僕は、背中に渡瀬の視線を感じながら歩き始めた。


 鞄を教室に置きっぱなしだということに気づいたのは、アキ先生にプリント類を渡して職員室を出たときだった。そのときは、女の子に良いところを見せることで頭がいっぱいだったから、鞄まで考えが至らなかった。実際、教室を出て職員室に向かうまでの間は、「さっきの僕、ちょっと格好良かったんじゃね?」などと軽く自己陶酔に浸っていた。

 そんな調子でアキ先生のもとに行ったからか、

「随分と機嫌が良いなあ見境くん、何か良いことでもあったの?」

 と、どこぞの怪異譚収集家の口癖めいたことを言われてしまった。

 苦笑いして先生にプリントを渡すと、アキ先生は

「お疲れさま。はい、これ」と言って僕の手に飴玉を二個握らせてきた。

 飴玉って……。今のご時世、小学生でも喜ばなそうだけれど。

「……あの、もう高校生なんですけど」

「あ、ごめんなさいっ。う、うれしくなかった?」

「いえ、そんなことは……。ありがたくいただきます」

「うんっ。渡瀬さんにもちゃんとあげてねっ」

 うきうきしているアキ先生に水を差すようで悪いが、嘘を言うわけにもいかないので、僕は正直に言った。

「えっと、渡瀬はたぶん帰ったと思います。渡瀬も手伝うって言ってくれたんですけど、プリントは一人で持っていける量だったので、僕一人でここまで運んできました」

 僕の言葉を聞くと、アキ先生は絶句し、その大きな瞳をさらに見開いた。

「先生、どうなさったんですか? 僕、なにか変なこと言いました?」

「なんで!?」

「えっ。なにがですか?」

「なにがじゃないよ! ど、どうして渡瀬さんと一緒にプリントを運んでこなかったの!?」

 怒鳴られた。

「え、いや、今言ったように、あまり量が多くなかったので……」

「なにやってるの!」

 また怒鳴られた。そして、アキ先生は僕に鋭い視線を向けて言った。いや、叫んだ。

「せ、せっかく渡瀬さんが勇気を振り絞って手伝うって言ったのに……人の厚意は気持ちだけじゃなくて、その行動もありがたく受け取らなきゃダメでしょ! 二人でクラス委員やっているんだから、最初から最後まで共同作業でいかなくちゃ! ああ、きっと渡瀬さん、今ごろ教室で泣いてるよ。わたしって役に立ってないな……クラス委員失格だ、って」

「それはいくらなんでも……」

 僕の突っ込みはアキ先生の怒声に遮られた。

「い、いいから早く教室に戻りなさいっ! まだ渡瀬さん居るかもしれないでしょ。ちゃんと謝るのよ!」

「は、はい。でも先生、僕そんなに悪いこと――」

「ごちゃごちゃうるさい! ほら早く!」

 何故か激昂しているアキ先生に背中をぐいぐい押されて職員室から追い出された。アキ先生って、怒鳴ることできたんだな。弱々しいイメージだったのに。今度からはもう少し気をつけて接しないと。肝に銘じておこう。

 それにしても、なんであんなにアキ先生は怒っていたんだろう。僕は悪いことをしたというよりは、むしろ良い(格好良い)ことをしたと自負していたのに。

 これが女心ってやつなのか? なるほど、わからん。

 ――そんなつい先程までのやり取りを思い返しながら、教室のドアの前まで戻ってきた。ちゃんと飴玉も渡すのよ、ってアキ先生が最後に言っていたけれど、もう帰っていたら渡せない。 明日になって、飴玉渡しながら、「昨日はごめん」と言ったとしても、渡瀬は困惑して、気まずい空気になるに決まっている。そこまで引っ張るようなことでもない。だから、まだ教室に残っていてくれればいいんだけれど。でも、普通に考えたらもう帰ってしまっているよな……。

 期待半分、諦め半分の気持ちでドアを引いて教室に入ると、渡瀬はまだ教室に残っていてくれていた。相も変わらず、自分の席に着いて文庫本に目を落としている。

「よかった。まだ帰ってなかったんだ」

 渡瀬の傍まで行き、話しかける。彼女は文庫本に目を落としたまま、答えた。

「……う、うん。もう少しここで本を読んでいたかったから。それに……」

 そこで一度言葉を切り、僕の席へ目を向ける。

「鞄が……あったから」

「もしかして、僕の鞄が誰かに盗まれないように見張っていてくれたの?」

「……う、うん」

 こくりと頷く女の頬には少し赤みが差している。

「ありがとう。あ、そうだ、これ」

 ポケットから飴玉を取り出し、渡瀬に差し出す。

「えっ、なに」

「アキ先生が仕事をしたご褒美にくれたんだ。これは渡瀬の分」

「あ、ありがとう」

 渡瀬は、コンビニの店員から釣銭を受け取るような仕草で、僕の手に触れないように飴玉をさっと取った。少しの沈黙の後、僕は言った。

「さっきはごめんね」

 しまった。どう切り出していいかわからず、唐突になってしまった。

「き、急にどうしたの?」

 案の定、渡瀬が訊き返してくる。僕は鼻の頭を掻くと言った。

「あっ、いや……さっき渡瀬が、プリントを一緒に運んでくれる、って言ってくれたのに僕、断ったでしょ? そのことをアキ先生に言ったら、人の厚意は気持ちだけでなく、その行動もありがたく受け取りなさい、って目茶苦茶怒られてさ」

「そ、そう……」

「だから、渡瀬には悪いことしたなって思って。これからは最後まで二人でやっていこう」

 僕の提案に渡瀬は小さく頷いた。

 よし、謝ったぞ。これで、この気まずい空気も和らぐだろう――

「…………」

「…………」

 考えが甘かった。そううまい具合に事は運ばない。僕は沈黙に耐えきれなくなって自分の鞄がある位置まで退却する。渡瀬はまた読書を再開してしまった。文字の世界に逃げ込むとは卑怯な。

 うう……この空気には耐えられない。どうすれば。

 ……そうか。家に帰ればいいんだ。春人のやつに、尻尾を巻いて逃げやがって、と思われるかもしれないが知ったことではない。もうここにいる意味もないわけだし。

 そう思い至り、鞄を持ってドアに向かう。一応、渡瀬に訊いてみる。

「僕はもう帰るけど、渡瀬は帰らないの?」

「……も、もう少し読んでから」

 それだけ言って、文庫本を少し持ち上げる。

「わかった。それじゃ、また明日」

「……またあした」

 渡瀬は、僕の語尾だけを抜き取って繰り返すと、また小説の世界に戻ってしまった。

 まあ一緒に帰れるなどとはこちらとしても期待していなかったので、さして落胆することもなく、僕は教室から出ていった。

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