一日目(木曜日)その3

下駄箱で上履きからスニーカーに履き替えていると、上着の内ポケットに入っている携帯電話が震えた。バイブのパターンからしてメールのようだ。開いてメールの内容を確認してみると、差出人は春人だった。

『ちょっと渡したいものがあるから俺の家に来い』

 と書いてある。少々気味が悪いが、行ってやることにするか。どうせ暇だし。

 春人の家は学校の正門を左に出て、十分ほど直進したところにある、ごく普通の二階建ての一軒家だ。ちなみに僕の住んでいるマンションは正門を出て右にいったところに位置しているため帰るのが少し面倒だが、たかが二十分程度遅くなるだけだ。問題ない。

 夕暮れに染まった道を歩きながら、それとなくこれから会う人物について考えてみる。

 波流春人という人物を一言で言い表すならば、「凡庸」だ。やつの人となりを表すのにこれ以上適切なワードはないだろう。

 別段頭がいいわけでもない。さりとて、赤点頻発の落ちこぼれというわけでもない。定期テストの点数は、どの教科も常に平均点付近をうろついている。また、その面構えに関しても同様のことがいえる。顔の良し悪しなど、個々人によって異なるのは当然のことだけれど、僕の価値観で判断させてもらうとするならば、確かに目鼻立ちはすっきりとしてるが、それをハンサムと呼ぶには少し物足りなさを感じざるを得ない。そして、何故かいつもその顔はニヤついており、それは人によっては不快に感じるかもしれない。初めは僕もその微笑みというより、嘲笑うような春人の表情に嫌悪感を覚える一人だった。けれども、さすがに二年以上関わっていると慣れてくるというものだ。今ではニヤつきを帯びた表情がいつもの顔なのだと思うことにしている。

 特筆すべきところは見当たらないが、これといった欠点も見当たらない。

 波流春人とは、そういった男なのである。

 そんな我が友の人物像について考えを巡らせているうちに春人の家に到着した。

「波流」と達筆で書かれた表札の隣にあるインターホンを押す。

 あれ? 以前、訪れたときの表札とは形も字も異なっている。どうやら表札を新しいものに取り換えたようだ。ほどなくして、横開きの玄関が開き、春人の母親が姿を現した。ごく普通の優しそうなお母さんで、夕飯を作っている最中だったのか、腰にエプロンを巻いている。

「いらっしゃい航くん。春人なら上で待っているわよ」

「あ、はい」

 僕が碌な挨拶もせずに表札を眺めていることに気づいた春人の母親が言った。

「ああ、これね。実は春人に書いてもらったのよ」

 表札を撫でながら微笑むお母さん。

「へえ、そうなんですか」

「あの子、字だけは昔から上手いのよね。さ、入って入って」

 促されるままに僕は靴を脱ぎ、お母さんが用意してくれたスリッパを履いて、春人の部屋がある二階に向かった。

 とんとん、と二回ノックしてドアノブを回す。

「おーい、来てやったぞ」

「おう、いらっシャイア・ラブーフ」

 春人は制服姿のままでベッドに腰掛け、雑誌を読んでいた。まことに面白くない、洒落かどうかも分からない戯言を無視してもよかったのだが、友達のよしみで一応突っ込む。

「僕は日本人だ。ちなみに、俳優でもない」

「あれ? お前、トランスフォームできなかったっけ?」

「できるわけないだろ。しかも、あれは人間じゃなくて車が変形するんだ」

「知ってるよ。お前、人間じゃないだろ?」

「人間だよ!」

 僕の突っ込みに春人は苦笑すると机に向かった。苦笑いしたいのはこっちの方だ。

 春人の部屋は、入って正面にテレビ、その前に四角いローテーブル、左側にベッド、右側に勉強机、漫画でいっぱいの本棚といかにも普通だ。唯一、変わっていることと言えば床にくしゃくしゃに丸めた紙がたくさん落ちていることくらいだろう。僕はローテーブルの前に腰を下ろすと、手近の丸まった紙に手を伸ばし広げてみる。

『設定……銃で撃たれて傷を負った男(主人公)が浜辺で発見される。男は記憶を失っており、手がかりとなるのは皮膚の下に埋め込まれていたある銀行口座を示すマイクロカプセルだけだった。男はそこへ向かうが……』

「――ってこれ、『ボーン・アイデンティティー』の設定丸パクリじゃねえか!」

「あ、バレた? 漁船に助けられるところを浜辺で発見されるに変えてみたんだけど」

「そういう問題じゃねえよ! しかも、浜辺で発見されるって映画より前に作られたテレビドラマシリーズの冒頭と一緒だぞ」

「え、マジで? ていうか、お前詳しいな」

「まあな。実は僕、マット・デイモンが大好きなんだ。『ボーンシリーズ』や『オーシャンズシリーズ』はもちろんのこと、『インビクタス』や『ディパーテッド』、おまけに『崖の上のポニョ』の英語版だって観たことある」

 胸を張る僕。

「どんだけ好きなんだよ……」

 春人はあきれたようにかぶりを振る。

「それはさておき。渡したいものがあるってメールに書いてあったけど」

「ああ、そうだった」

 と言って、春人は机の上に置いてあったDVDを手に取った。

「これをお前に貸してやろうと思ってさ」

 春人から差し出されたDVDを受け取る。

「ジャンルは?」

「ホラーだ。洋画だけど結構よくできてる。どうやら邦画のリメイク版らしい」

 パッケージには、長い黒髪で顔の隠れた女性の幽霊らしきものが描かれている。なるほど、日本の映画らしいな。

「サンキュー、一応借りておく。暇ができたら観てみるよ。というか、用ってこれのことなのか? まさか、これだけのために呼んだんじゃないよな」

 こんなものを渡すだけだったら学校でもできる。わざわざ僕を自宅に呼びつけたということは、他に理由があるのだろう。電話で済ますことのできないことが。

「さすがに鋭いな。本当の用は別にあったんだけど……」

 そこで何故か口ごもる。春人にしては珍しい。

「なんだよ、白々しいな」

 僕が少し茶化すように言っても、春人は何も言い返さず、これまた何故か真面目な顔で僕を見据えた。しかしそんな表情を見せたのは一瞬で、すぐにいつものヘラヘラしたような顔に戻って言った。

「本当にもういいんだ。悪いな、これだけのために呼び出しちまって」

「いや、別に構わないよ。また話したくなったときに呼んでくれ。じゃあ借りていくぞ」

「ああ」

 やはり今日の春人はどこかおかしい。どこがいつもと違うのか、具体的にはわからないけれど、覇気がないというか、元気がないというか。とにかく、いつもの春人らしくない。

「おい、春人」

「うん?」

「何か悩み事でもあるのか? もしかして、小説のネタで詰まっているとかか? いくら小説家になりたいからって、あんまり無理はするなよ。どうせ、あんまり寝てないんだろ」

 僕は床に転がっている紙屑たちに目を向けた。

 春人は小説家を目指しており、毎日毎日、物語の設定やらプロットやらを考えているらしい。さっき読んだ紙きれもその一部だったのだろう。

「大丈夫、大丈夫。俺、意外と頑丈だから」

 白い歯を見せながら明るく振る舞う春人。

「そうか、ならいいんだ。それじゃあな」

「おう、また明日」

 踵を返して部屋を出ようとすると、背中に声をかけられた。

「なあ、航」

「ん? なんだ」

 体ごと春人の方へ向き直る。春人は振り返った僕をちらっと見た。しかしすぐに目を逸らし、机に置かれている教科書を見ながら言った。

「お前の将来の夢って何?」

「将来の夢? うーん、そうだなあ」

 僕は思わず唸ってしまう。将来の夢なんておぼろげにはあるけれど、真剣に考えたことなどこれまで一度もなかった。

 僕が腕を組んで考え込んでいると、春人が机の端をトントンと指で叩いた。

「俺の将来の夢はだな……」

「知ってるよ。小説家だろ?」

 僕は即答する。この部屋の状態を見ればそれは明らかだ。しかし春人は首を横に振った。

「もちろん、それもある」

「それも? まさか、他にもなりたいものがあるっていうんじゃないだろうな。やめとけやめとけ。ほら、よくいうだろ。二兎追うものは一兎も得ず、って」

 見境航のありがたいお言葉を聞いて、春人は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。

「すごいな航! お前がそんな諺を使うなんて」

 こいつ、馬鹿にしてくれる。

「別段、褒めそやすほどのことでもないだろ。こんな諺、今日日小学生だって知っている」

「いいや、それは違うね」

 春人は眼鏡を掛けてもいないのに、ずり落ちた眼鏡を上げるような仕草をした。

「その言葉を実際に使用するのと、ただ知っているだけとでは天と地ほどの差がある。言葉っていうのはね、実際に使って初めて価値のあるものになると俺は思うんだ。知っているだけじゃ意味がない」

「ほお」

 まあ言わんとしていることは分かる。インプットするだけで満足せず、アウトプットしていくべきだということだろう。

「そう! だから!」

 春人は突然立ち上がった。そして両手を高く掲げ、大きく広げた。さながら民衆に演説をするヒトラーのようだ。

「私はこう考えている! 世の学生諸君たちは只々言葉を憶えるのではなく――」

「ちょっと待った」

 目の前の将軍様の御高説を僕は手で制した。水を差された本人はいたく不満そうだ。

「なんだね君は。庶民の分際で我に物申そうというのか!」

「そういう寸劇はまた今度相手してやるから。それより話を戻そう」

 しょうがない、と言って春人は頬を膨らませた。そういう仕草は女の子がやるから可愛いのであって、男がやると不愉快この上ない。

「で、お前のもう一つの夢ってのは?」

 そう僕が問うと、春人は恥ずかしそうに目を伏せた。

「誰にも言うなよ?」

「言わない言わない」

 僕が否定の意味を込めて手をひらひらと振ると、春人は僕を見据えて言った。

「俺のもう一つの夢はな、お婿さんになることなんだ」

 予想外の答えに僕は面食らってしまう。

「お、お婿さんってお前……嫁さんを貰うとかじゃないのか?」

「違う。俺が奥さんの家に嫁ぎたいんだ」

 はっきりと言い切る春人。

「これまたどうして? 意味がわからない」

 言いながらかぶりを振る僕を見て、春人は物憂げな表情を浮かべた。

「なあ、ワタルよ。俺の名字を言ってみろ」

 戸惑いながらも僕は答える。

「はる、だろ。波に流れると書いて、はる」

「その通り。付き合いの長いお前は間違えることなく俺の名字を口にすることができる。だが、初対面の人間が俺の名字をみたときに、はる、と読めると思うか?」

 僕は即答する。

「絶対に読めない」

「だろ? それが理由だ」

「え? それだけ」

「ああ、それだけだ」

 そう言うと、春人はぼすっと椅子に腰を下ろした。もっと御大層な理由があるのかと思ったのだが。まさか、そんなことだけのために自分の名字を捨てるなんて。僕自身も珍しい名字ではあるが、それを不満に思ったことは一度もない。むしろ少し誇らしいくらいだ。

 どうやらもう言いたいことはすべて言ったらしい。僕はお暇することにした。

「じ、じゃあそろそろ帰るわ」

「おう、また明日学校でな」

 春人が片手を挙げたので、僕も片手を挙げて応え、部屋を後にした。


 波流家を出ると、あたりはもう暗くなり始めていた。春といっても四月下旬なので、まだ肌寒い。空いている手をポケットに突っ込みながら歩を進めていく。

 学校の正門を超えて、さらに数分歩いた場所に豊丘(とよおか)公園という古びた公園がある。遊具はほとんど設置されておらず、あるのは小さな砂場と公衆便所だけで、ある意味すっきりとしている。一年ほど前までは、ブランコがあったらしいのだが、小学生の男の子が遊んでいる際に鎖が千切れてしまい、大怪我を負ったとかで撤去されてしまったらしい。見る限りあまり古そうではなかったが、鎖が錆びていたのだろうか。

 そんな公園と呼ぶのにはあまりふさわしくない場所に、僕は毎日通っている。通っているというと、遊んでいると思われるかもしれないが、そうではなく、ただ近道として、ショートカットとして利用しているだけだ。

 だから、今日もいつもと同じように豊丘公園を横切って帰ろうとした。いつも通りに。

 しかし、僕は公園の入り口で立ちつくしてしまった。普段なら人がたむろするような場所ではないのだけれど、今日は三人の人間が公園の中心で、なにかを囲むように立っていた。

――うわ、ヤンキーだ。

 赤、黄、青と信号機のような髪色をした三人組で、腰までずり下ろしたズボン、学ランといった出で立ちだ。学ランということはうちの生徒ではないのか。

 あんな時代遅れのヤンキーがまだ存在しているとは(流行のヤンキーがどのようなものかは僕にはよく分からないが)。

 ああ、怖い、怖い。ああいうやつらと関わり合いになるとロクなことにならないからな。仕方ない、ショートカットはあきらめよう。少し帰るのが遅くなるだけだ。ヤンキーに目を付けられるのに比べたら、その程度の時間の浪費など少しも惜しくはない。

 そう結論付けて、公園には入らずに通り過ぎようとしたとき、幸か不幸か、僕に対して背中を向けている黄髪ヤンキーと青髪ヤンキーの脚の間から、誰かが蹲っているのが見えた。よく見ると、それは女の子だった。ブレザーは剥ぎ取られ、白のワイシャツ一枚になっている。おいおい、いくらなんでもやりすぎだろ。男ならまだしも女の子に手を出すなんて。今どきのヤンキーは節操がないのか。

 うーむ、どうしよう。このまま見逃したら、確実に後で罪悪感に苛まれる。ああ、いっそのこと女の子の姿なんて見えなければよかったのに。なんで見えちまったんだよ。なんで見ちまったんだよ、僕。さっさと通り過ぎればよかったのに。

 行くべきか行かざるべきか悩んでいると、ヤンキーの一人が蹲っている女の子の肩を蹴りあげた。彼女は無理やり上半身を起こされ、正座をしているような体勢になる。それにより、今まで黒髪で隠れていた顔が僕の位置からはっきりと見てとれた。

「おい、やめろ!」

 僕は先ほどまでの悩みなど吹き飛んで、肩にかけていた鞄も吹き飛ばして、思わず叫んでいた。

 なぜなら、蹴られてうずくまっている女の子が――渡瀬伊吹だったからだ。

「あ? なンだよ」

 赤髪ヤンキーが即座に反応し、残りの二人も振り返って僕を睨みつけてくる。

 渡瀬は僕の登場に唖然としていた。なぜ僕がここに来たのか理解できないといった様子だ。それは僕だって同じだ。どうして彼女がここにいて、彼らに嬲られているのか理解できない。

 でも、そんなことはどうだっていい。今は彼女を助けることに集中しないと。

「お前ら、恥ずかしくないのか? 寄ってたかってか弱い女の子をいじめて」

 僕はなるべく相手を挑発するように言った。

「いじめてなんかねぇよ。可愛がってやってんだよ」そう言って渡瀬の髪をつかむ黄髪。

「ていうか、お前こそなんだよ、ヒーロー気取りか?」赤髪が嘲りの含んだ声で言う。

「気取りじゃない。ヒーローだ」僕は、最大限格好つけて言い放つ。

 僕の言葉を聞いた三人は爆笑した。

「なにほざいちゃってんのコイツ。頭イカれてるんじゃないですかあ」

「イカれてるのはそっちだろ」

 声が震えないように気をつけながらセリフを吐き出す。

「第一なんだ、その髪色は? お前らは信号機にでもなりたいのか?」

「なんだと、テメエ!」案の定、赤髪がこちらに向かってきた。

「おいおい、赤は停止の信号だろうが。お前は止まってなくちゃダメだろ?」

「テメエ、人をおちょくるのもいい加減にしろよ!」

 ついに赤髪はブチ切れて突進してきた。よし、予想通りだ。落ち着け、落ち着け……。

 赤髪がついに目の前にまで迫ってきて、右の拳が僕の顔面に飛んでくる。僕にはその光景がほんの少し前に視えていたので、難なくそれをかわす。そして、つんのめった赤髪の股間に膝蹴りをお見舞いしてやった。崩れ落ちる赤髪。

「ひ、卑怯だぞ……」赤髪はそう呻きながら悶絶している。

「喧嘩にルールなんてないだろ」僕はそう言ってニヤリと笑う。

 よし。まずは一人仕留めたぞ。残るは二人か。

「「うおおおおおっ」」

 勝利の余韻に浸る間もなく、今度は青髪と黄髪が同時に襲ってきた。一人ならなんとかなるけれど、さすがに二人同時に対処するのは少しきついな。

 ろくな対策も練れないままでいると、青髪が先に仕掛けてきた。僕は、先ほどと同じように膝蹴りを食らわせてやろうと思いパンチを避けたが、青髪のすぐ後ろに黄髪が迫ってきていたので、膝蹴りを繰り出すことができなかった。青髪はそのまま僕の後方に流れていく。続いて来るであろう黄髪の攻撃に備えた僕であったが、意外なことに黄髪は僕に攻撃を繰り出すことはせず、バックステップを踏んで後ろに下がった。結果的に、僕は二人に挟まれてしまう。

 思わず手を膝についてしまう。汗が頬を伝って足元に落ちていくのがわかる。

「なんだ、もう疲れちまったのかァ? さっきまでの威勢はどこに行っちゃったのかな? ヒーローさんよぉ」

 そんな様子を見ていた黄髪が勝ち誇ったように笑う。僕は顔を上げ、黄髪の顔をじっとにらみつけながら言った。

「少し有利な状況になったからって、調子に乗るなよ」

「なンだと」

「僕はお前らにハンデをあげたんだよ。一方的な勝利じゃつまらないからね」

「なに言ってんだ? 調子乗ってるのはテメエのほうじゃねえか」

「調子に乗っているわけじゃない。自信があるだけだ。お前らは僕より弱い。これは決定事項だ」

「いい加減にしろよ!」

 黄髪の目が血走っている。よし、もう一押しだな。

「もうお前らみたいな低脳な連中と会話するのも時間の無駄だから、さっさとかかってこいよ。面倒だから二人いっぺんに――」

 僕が最後のセリフを紡ぎ終えるのを待たずして黄髪が突進してきた。それとほとんど同じタイミングで後ろの青髪も突撃を開始。黄髪と僕の距離がどんどん縮まっていく。おそらく、青髪と僕の距離も同様だろう。僕は目を閉じて意識を集中させる――そして、視えた。黄髪と青髪が同時に僕の顔面に向かって拳を突き出すところが。

 目を開けると、黄髪のいかつい握り拳が顔の目の前まで迫ってきていた。僕は屈むことによってそれをかわす。同時にそれは青髪のパンチもかわすことになる。そして、一度スピードをつけて放たれたパンチは、緊急停止する列車と同じく、すぐに止めることはできない。よって、二人はお互いの顔へお互いの拳をぶつけることになり――

 勝手にきれいなクロスカウンターが決まってくれた。

 二人が崩れ落ち、覆いかぶさってくる前に彼らの身体の隙間から這い出る。

 気絶には至っていないようだが、だいぶ意識が朦朧としているみたいだ。声にならない声を上げている。

 僕は、急いで渡瀬のもとへ駆けつけた。彼女は、地面にへたりこんだままヤンキーたちを見つめている。何が起こったのかわからない、といった様子だ。

「さあ、立って!」

「……え、え? なに」

「なに、って逃げるんだよ! ほら、早く!」

 僕は、茫然としている彼女の手をとり、空いている手で落ちていた彼女の鞄とブレザーをつかんで走り出した。ひとまず、入ってきたのとは反対にある出口に向かう。

 公園を出たあたりで後ろを振り返ると、黄髪と青髪がちょうど立ち上がったところだった。赤髪はいまだ悶絶中。僕は渡瀬の手を強く握りしめ、訊いた。

「行くよ?」

 彼女はぎゅっと僕の手を握り返してきた。それを肯定の印と受け取って、駆けだした。

 とにかくここから離れよう――ただそれだけを考えて走り続けた。まわりの風景や音などはほとんど認識できなかったが、右手に伝わる渡瀬の体温だけは、しっかりと感じ取ることができた。


 どのくらい走ったのだろう。

 気がつくと、僕らはとあるマンションの前に立っていた。栗の実のような色をしている外壁にはペンキが剥がれている箇所が見受けられるが、現代的なデザインのせいかあまり古さは感じられない。ロビーを入ってすぐの所にエレベーターと自動販売機があり、奥に行くと階段がある。間取りは全部屋1Kで、バス・トイレは別となっている。そのため、家族で住んでいる人はほとんどおらず、住人の大半を占めているのは一人暮らしの人たちだ。ちなみに、左隣にはこのマンションと同タイプのものがもう一つ建っている。

 何故こんなにもこの建物について詳しいかというと、僕もここの住人だからである。

「なんで……」

 思わず声が洩れてしまった。どうして自分の住処に帰ってきてしまったのだろうか。

 僕と渡瀬は公園を脱出した後、無我夢中に走り回った。行き先なんかは考えずに、その場から離れることを第一に走り続けた。何度か後ろを振り返ったが、ヤンキーたちの姿を見ることは一度もなかった。それでも、止まりはしなかった。いや、止まれなかった。もしかしたら追ってきているかもしれない、という強迫観念にかられて足を止めることができなかったのだ。

 結果、たどり着いたのがここだ。記憶が飛ぶまで酔っぱらった人が朝起きるといつの間にか自分の家に帰っていた、とはよく聞くが、これもその一種なのだろうか。犬や猫のように人間にも帰巣本能があるのかもしれない。だとしたら、とんだ迷惑だ。もしずっとヤンキーたちに追われていたら、自分の住処を教えてしまうことになりかねなかった。

 さて、これからどうしようか。さすがにあのヤンキーたちも諦めたと思うから、渡瀬を家まで送っていこうか。でも、かなり走った後で彼女も相当疲れているようで、路傍に座り込んでしまっている。少し僕の家で休ませたほうがいいかな。僕もできればそうしたい。

「渡瀬」

 しゃがみこんでいる渡瀬に話しかける。

「……え、なに?」

「家はどこ?」

「……なんで知りたいの?」

 渡瀬は少し怯えた表情を見せる。僕は慌てて付け加えた。

「あ、いや、もしかしたらまだあいつらが捜しているかもしれないから、家まで送っていこうと思って……」

「あ、ありがとう……でも、だいじょうぶ」

 ふるふると首を振る渡瀬。

「いや、大丈夫じゃないだろ。腕から血出てるし、服もビリビリで……」

「い、いや、本当にだいじょうぶだから……」

「無理に決まってるだろ! そんなにボロボロになって。これから、自分の家まで歩いて帰らなくちゃならないんだぞ?」

「……うん、わかってる」

「と、とにかく今の身体じゃ無理だろ? ひとまず、僕の部屋で少し休んでから……」

「で、でも……」

「でも、じゃない。疲れたら休む。当たり前のことだろ」

「いや、だから……」

 痺れを切らしたように渡瀬は顔を隣のマンションに向けた。

「わ、私の家……ここだから」

「…………え?」


「ど、どうぞ……」

「お、お邪魔します……」

 僕は、生まれて初めて「女の子の部屋」というものに足を踏み入れた。この場合、マンションの一室なので、「家」といったほうがいいのか「部屋」といったほうがいいのか、迷うところである。実は怜の家には何回か入ったことがあるのだが、怜の部屋には一度も入ったことがないので、今回は「部屋」ということにしようと思う。

 渡瀬の部屋は、玄関を入ると右手に流し台、その奥に冷蔵庫、左手にトイレ、浴室があり、奥に進むと十畳ほどの洋室があるといった感じで僕の住んでいる部屋と全く一緒だ。洋室は、廊下と厚めのカーテンで仕切られていて、ベッド、ローテーブル、テレビ、本棚といった一般的な家具が揃っていて、これまた僕の部屋と同じだった。

「あんまり見ないで。恥ずかしいから……」

「あっ、ごめん……」

「こ、ここに座って」

 渡瀬に薦められるままに、ローテーブルの前に座る。

「ちょっと待ってて。お茶入れてくるから」

「いいよ、それくらい。自分でやるよ」

「だ、だめ!」

 立ち上がって流し台に向かおうとすると、渡瀬に両肩を掴まれて無理やり座らされた。

「な、なんで」

「あなたは、お客さんなんだから。じ、じっとしてて」

「でも、お前、怪我してるし、あぶ――」

「いいから!」

 ピシャっとカーテンを閉められてしまった。そんなに怒ることもないだろうに。

 あらためて、部屋を見回してみる。本棚には漫画の類は一切入っておらず、ほとんどのスペースを文庫本が占領しており、残りの少ないスペースを教科書やハードカバーの小説、辞典などが占めている。テーブルにはリモコンとティッシュしか置いておらず、部屋にはゴミ一つ落ちていない。きれいに片付いているというよりも、あまり使われていないといった印象を受ける。まるでモデルルームみたいだ。

 それにしても、なぜ渡瀬は一人暮らしなのだろうか。まさか、この狭さで両親と暮らしているわけじゃないだろう。まあ、親の所有物らしき物が見当たらない時点で、その線はないと思ってはいたが。

 しかし、考えてみると僕と渡瀬の共通点は意外と多い。

 実は僕も早くに母親を亡くし、父親は海外赴任で一人暮らしなのだ。連絡を一度もよこしたことがないので、どこでなにをしているのかもわからない。長いこと父に会っていないから、顔なんてとっくの昔に忘れてしまった。たまに必死に思い出そうと頑張ってみるのだけれど、輪郭すら思い浮かべることができない。それほどに父親の印象が薄いのだ。

 ――あれ? そもそも僕は自分の父親に会ったことがあっただろうか。

 そんな僕のささやかな疑念はカーテンの開く音によって振り払われた。

「……はい、どうぞ」

 渡瀬が湯呑の二つ乗ったお盆をテーブルに置いて、そのうちの一つを僕の前に置いた。

「ありがと」

「う、うん……」

 僕の言葉に、なぜか渡瀬は頬を染めてうつむいてしまう。

「どうしたの?」

「なっ、なんでもないっ」

 恥ずかしそうに呟くと、クローゼットに向かい、中から小さな箱を取り出した。それを持ってまた台所のほうへと行き、カーテンを閉めてしまう。

 今度はなにをするつもりなんだろう。カーテンを開けて、なにをしているのか確かめてやろうとも思ったが、「鶴の恩返し」を思い出して覗くことをやめた。彼女がまさか人間じゃなくて鶴だった、なんていうオチだったら最悪だからな。僕は人間の女性が大好きだ。

 なにもすることがないのでテレビでも点けようと思ったけれど、家主の許可なく見るのもどうかと思ったので自重。

 仕方なく、渡瀬が淹れてくれた番茶を啜る。お茶の味の違いなんてわからないし、わかろうと思ったこともないが、人に淹れてもらったお茶は自分で淹れたときよりも明らかにおいしく感じる。単に、僕のお茶の淹れ方が下手なだけかもしれないが。

 番茶も飲み干してしまい、本当にやることがなくなってしまった。ふと、湯呑の底がどうなっているか気になり、持ち上げて見てみるとなにか書いてある。それはほとんど消えかけていたのだが、アルファベットで「HW」だということはかろうじてわかった。

 なんだろう。ホームワーク? もしくは、この湯呑を作った人のイニシャルだろうか。

 などと、意味のない推測を巡らせていると、突然、カーテンの向こうから絹を裂くような悲鳴が聞こえた。僕は急いで立ち上がりカーテンを開ける。

「ど、どうしたの!?」

「……えっ?」渡瀬は目をぱちくりさせている。

 時が止まっているかのようだった。渡瀬は、ワイシャツを脱いでおり、白のブラジャーが露わになっていた。おまけに、玄関のほうに背中を向けていたので僕と向き合うかたちになってしまっている。

 それにより、彼女の大きくはないが、ブラジャーによって持ち上げられた形の良い胸が眼前に広がっており、僕はそれから目が離せなくなってしまう。さらに長い黒髪が胸の谷間に流れ込んでいることが、一層艶めかしさを際立たせており――おっと、そんなじっくり鑑賞している場合じゃない。急いで謝らなくては。

「え、いや、あの、そ、そういうわけじゃなくてですね……。こ、これは、その、叫び声が聞こえてですね、なにが、あったのかと……」

「……な、なんでも……ないから。き、気にしないで」

 そう言うと、渡瀬は軟膏を少し手にとって背中に塗ろうと試みる。しかしながら、手が患部にまで届かないらしく、かなり苦戦している。

「さすがに一人じゃ無理だよ」

「じ、じゃあ手伝って」

「わかった、って……ええ!?」

「せ、背中の真ん中あたりだと思うから……」

「い、いや、でも……」

「手伝ってくれないの?」

「……わ、わかった。やるよ」

「ありがとう」

 渡瀬はクスッと笑うと、僕に軟膏を渡した。

 さすがに直接肌に触れて塗るのは、渡瀬の身体にも僕の精神衛生上にもよろしくないと思い、救急箱の中に綿棒を見つけたのでそれを使って塗り始めた。

 背中にはかなりの擦り傷がみられた。ヤンキーたちに足で踏まれたりしたのだろうか。でも切り傷にはなってなくてよかった。切り傷に軟膏を塗るのは逆効果だからな。

 僕は慎重に、なるべく優しく綿棒で傷口を撫でていく。渡瀬が時折漏らす吐息にどぎまぎしつつも、なんとか一通り塗り終わったころには、汗をダラダラかいていて、僕は難手術を終えた外科医のような気分になっていた。

「お、終わったよ」

「あ、ありがと……」

 渡瀬は感謝の言葉を口にすると、横に置いてあったTシャツに着替え始めたので、僕は慌てて洋室に戻った。

 数分後、渡瀬はTシャツに短パンというラフな服装になって戻ってきた。今は僕の向かいに座って、すっかりぬるくなったであろう番茶を啜っている。

「ねえ、渡瀬。ちょっと質問してもいいかな」

「べ、べつにいいけど」

「どうしてヤンキーたちに絡まれていたの?」

 その問いに渡瀬はふるふると首を振った。

「わからない……。私も、近道をするためにいつもあの公園を横切っているんだけど、今日に限ってあの人たちがあそこにいて。こ、怖かったけど、なるべく気づかれないように通り過ぎようとしたら……急に近寄ってきて……」

 そこで渡瀬は黙り込んでしまった。あまり思い出したくないのだろう。

「なんか盗られたりはしなかった?」

「……う、うん、大丈夫。財布の中身見られたけど、そのまま返された。大した額が入ってなかったからかも」

 まあ、高校生が持っているお金なんて微々たるものだろう。それより僕は、渡瀬の話のある部分に疑問を抱いたので訊いてみた。

「それはよかった。でも、なんで僕があの公園をショートカットとして利用していること知ってるの? 教えたことあったっけ?」

「え? い、いや、それは……その……見境くん、隣のマンションに住んでいるでしょ?

だ、だから私と同じようなことしているだろうと思って……」

「ああ、そういうことか」

 じゃあ僕以外にもあの公園を「利用」している人は多そうだな。

「あの、もうひとつ訊いてもいいかな?」

 渡瀬はためらいながらもこくりと頷いた。

「一人暮らしだよね?」

「う、うん、そうだけど。それがどうかしたの?」

「え、いや……どうしてかなって。社会経験だ、とか言って男に一人暮らしさせるのは理解できるんだけど、女の子を一人で暮らさせるのはどうなのかな、って思ってさ」

「ああ……それは……」

 渡瀬はここで一度言葉を切り、番茶を一口飲んでから続けた。

「実は、私の両親、私が小学生のころに交通事故で死んじゃったんだ」

「えっ」

 声が漏れてしまう。渡瀬は驚いている僕にかまわず話を続ける。

「その日は家族で旅行に行く予定だったんだけど、前日に私が風邪をひいて寝込んじゃったの。次の日になっても熱が下がらないから、旅行を中止にしようかって話になってね。でも両親はすごくその旅行を楽しみにしていたんだ。だから、私は平気だから二人で楽しんできて、って言ったら両親はしぶしぶ納得してくれて、看病には近くに住んでいた母親の友達が来てくれることになったの。

 それで、次の日二人は出かけていって……。行きの高速道路で事故に遭ったらしいの。逆走してきた乗用車と正面衝突して、二人とも即死だったみたい」

「そ、そうだったんだ……」

「うん。それから私は、中学まで親戚の家に預けられて暮らしてきたんだけど、なかなかその家の人たちと折が合わなくて……。なんか私のことを面倒に感じていたらしいの。私もそれは気づいていたから、高校生になるのを機に一人暮らしをしてみたい、って提案したの。その家は裕福だったし、喜んで賛成してくれた」

「それで今に至るっていうわけか……」

「そう。ごめんね、なんか湿っぽい話しちゃって……」

 そう言って笑う渡瀬。その顔にはどこか翳りが見える。

「僕のほうこそごめん。嫌なこと思い出させちゃって」

「そ、そんなことないよ。もう慣れたから」

 そのように話す渡瀬の目には何の感情もこもっていないようにみえた。一般的に考えると、思い出を話すときには――たとえその思い出が楽しかったにしろ、悲しかったにしろ――なにかしらの感情がつきまとうはずだ。事実、ヤンキーたちの話をしているときの渡瀬からは怯えのような感情が見てとれた。それなのに、家族について話すときの彼女の口ぶりは、思い出を「話す」というよりもむしろ「説明する」ようなものだった。それに、普段は言葉に詰まったり、しどろもどろになったりと、うまく会話のこなせない印象が強い彼女が、噛むことなくすらすらと喋っていたことにも違和感を感じた。まるで予め用意してあったセリフを読み上げているような――そんな話しぶりだった。

 ただ、これまでこのような話を何度も人に話しているせいで、感情がなくなってしまっているのかもしれない。それに繰り返し同じことを喋っていると、どうしても事務的な口調になってしまう。

 どちらにせよ、これ以上このことについて深く突っ込むべきではないな。人の過去を深く抉るのはあまり好きじゃない。

「そ、それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。もう結構遅い時間だし」

 テレビの上にある壁掛け時計を見ると、時刻は午後九時を回ったところだった。

「わ、わかった……気をつけて……」

「いやいや。気をつけるもなにも、隣のマンションだし」

「い、いや……そうじゃなくて……」

「ん?」

「あ、あのとき……か、かばん……」

「なに? 鞄がどうしたって?」

 僕が理解できないでいると、渡瀬は目をぎゅっと瞑って言った。

「こ、公園に、かばんを、お、置きっぱなしに、してるから……」

「…………あ」

 どうやら僕は、また鞄を忘れてきてしまったみたいだ。

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