三日目(土曜日)その2
昼食のとる店までの道すがら、僕は、肩を揺らしながら楽しげに歩を進めるロゼの胸中について思いを巡らせていた。
初めて会った時のロゼは、その容姿からは想像のできない一種の小悪魔的な印象を僕に抱かせた。あの妖艶さを伴った笑みには畏怖すら覚えた。その時点で、彼女はまだ記憶を失っていなかったわけだから、おそらくはそれが本来の彼女の性格なのだろう。しかし、記憶を失った直後の彼女は、そのショックもあってか非常に物静かで口数が少なかった。石地蔵といってもいいほどに。それは会話を交わしていくなかで次第に解消されていったけれど、それでもまだ、過去を失ったことからくる不安は拭いきれていないように感じられた。
そして今日である。ここまでのロゼの様子をみると、今日の彼女は、こちらが呆気にとられてしまうほど、明るく無邪気で、まるで自分が記憶喪失であることを忘れてしまっているかのように振る舞っている。いや、これは少し違うな。より正確に言うと、「記憶を失っていること」を忘れようとしているようにみえるのだ。明るい自分を前面に出すことで、記憶喪失に陥っているという不安を掻き消そうとしている。もしかしたら、そのような無理をするのは、僕に対して余計な心配をさせない、という気遣いも含まれているのかもしれない。このデートという行為についても同様だ。家にいると否が応でも記憶喪失に関する話題が出てきてしまうところを、こうして外に出ることでそういったことを考えさせないように、という意図があるのかもしれない。
実際、ロゼがこのような作為的な考えのもとで行動を起こしているかどうかはわからない。彼女に真意を訊いてみるのが一番手っ取り早い方法ではあるが、それはいくらなんでも野暮な行為だろう。まあ一日くらい何も考えずに過ごしても罰は当たるまい。これからのことを考えるのはやめにして、今このときを楽しもうじゃないか。
「考え事は終わった?」
いつの間にか隣を歩いていたロゼが、僕の顔を覗きこんでくる。
「ああ、まあ」
「じゃあ早く入ろうよ。わたし、お腹ぺこぺこ」
「え?」
見上げると、自動ドアの上には大きなMのマークの看板。
「お前、よくこの場所がわかったな」
「なんとなく、ね。人がたくさん集まっているし、なんだかおいしそうな匂いが漂っていたから」
へへっ、と笑うロゼ。どことなく自慢げだ。
「へえ、やるもんだな。よし、この場所を見つけられたご褒美として僕が奢ってあげよう」
「わーい、やったあ」
歓喜の声を上げるロゼ。どちらにせよ、僕が払わなければいけないんだけどな。
店内は、先ほどの映画館とは打って変わって人で溢れかえっていた。休日の昼飯どきなのである程度覚悟はしていたが、これは僕の予想の範疇を遥かに超えていた。ひとまずロゼから食べたい商品を聞き、彼女には席の確保をお願いした。一階は見るからにいっぱいなので二階に向かってもらう。この混み具合だと二階席も埋まっているやもしれないが。
注文を訊かれるまで待つこと十分。そこから商品を渡されるまでさらに五分。
ようやく昼食を手にした僕は、早足で階段を上がる。もし席が埋まっていたならば、ロゼがその旨を僕に伝えにくるはずだから、席を確保することには成功したのだろう。
二階席でロゼの姿を探す。席は思いのほか埋まっていなかった。ということはテイクアウトの客が多かったのだろうか。
そんなことを考えていると、左手の方から声が聞こえてきた。
「あー、ワタル、こっちこっち」
声のする方に目をやると、ロゼが大きく右手を振っている。だが、僕を引きつけたのはロゼの向かい側で縮こまるように座っている人物だった。白いワンピースに濃紺色の薄手のカーディガン。そして、みどりの黒髪。
「……まさか」
「そのまさかよ! わたしも驚いたよ。席を探してぐるぐる回っていたらたまたま見つけたの!」
身を乗り出して、興奮した様子のロゼ。それとは対照的にしおらしくなっている渡瀬。
「……こんにちは。見境くん」
「や、やあ、渡瀬」
僕が思わず口ごもってしまうのも理解できるだろう。月曜日までは会うことはないだろうと思っていたのに、よもや数時間後に再び出くわすことになるとは。偶然というのは恐ろしいものだ。
渡瀬に、一人なのか? と訊こうとして思い止まる。渡瀬は四人掛けのテーブルに座っており、彼女の対面には食べかけのハンバーガーが乗ったトレイが置かれている。そういえばさっき会ったときに、「友達とショッピングをする」と言っていた。
「あれ、友達は?」
トレイを指差して訊ねると、渡瀬ではなく何故かロゼが答えた。
「なんか、今外で電話しているんだって。だから大丈夫」
はあ。いちいち席を外して電話をするなんで律儀な奴だな。
「でも、友達がいるんなら僕らは邪魔になるよな」
「ううん。そんなことない。長電話になるかも、って言っていたから」
意外にも渡瀬は僕の言葉に賛同しなかった。彼女は気まずくないのだろうか。僕は逃げ出したくて堪らない。それとも渡瀬にとって僕は歯牙にもかけない存在なのだろうか。
「ほら、お姉さんだってこう言ってるんだから座りなよ」
ロゼに急かされ、僕は渋々ながら空いている席、すなわち渡瀬の隣に腰を下ろす。
「ワタル、わたしのはどれ?」
「ああ、確かこれだったかな」
僕はトレイの上にある二つのハンバーガーのうち、黄色い包みのものをロゼに渡す。
「ありがと! いただきます」
昼食を手渡されたロゼは、両手を合わせてから包みを広げてむしゃこら食べ始めた。
僕も彼女に倣い、手を合わせてから一口齧る。お、意外と悪くないな。
もう一口齧りながら、隣の渡瀬の様子を窺う。もう食べ終わっているようで、手持無沙汰に汗をかいているカップの表面を撫でている。ロゼは食べることに夢中で渡瀬が退屈していることに気づかない。無言でいるのも居心地が悪いので、僕はハンバーガーをトレイに置いて渡瀬に話しかけた。
「驚いたよ。一日に二回も会うなんて。しかもこんなところで」
「そ、そうだね……」
「……ショッピングするって言っていたけど、この後もそれを?」
「う、うん……」
うーむ、どうにも会話が弾まない。渡瀬はずっと伏し目がちで、話そうという姿勢があまり感じられない。
これ以上の会話の続行は困難と判断した僕は、早く食べ終えてしまおうとハンバーガーに手を伸ばす。すると、
「あ、あのっ、さっき言ったことなんだけど」
突然、渡瀬が立ち上がった。ぎゅっと拳を握りしめている。
「私、コンビニで見境くんのことを、ただのクラスメイトって言ったけど、本当はそうじゃないの」
「え、どういうこと」
僕が問うても、渡瀬はなかなか答えようとしない。しばらくの間、下を向いてもごもご口を動かしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「つまり、その、なんていうか、私にとって見境くんは……」
渡瀬が僕に対する想いを伝えようとしたまさにその時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
僕は映画が始まる前に電源を切っていたので僕の携帯ではない。ロゼはもちろん持っていない。となると、残るは……
「あ、ごめん、電話だ。出てもいい?」
カーディガンのポケットから携帯を取り出して、申し訳なさそうに僕に許可を求める渡瀬。駄目だ、と言うわけにもいかないので、僕はこくりと頷く。
渡瀬は軽く会釈をすると、僕らが座っているテーブルから少し離れて話し始めた。会話の内容は聞こえてこないけれど、いくらか彼女の表情が強張っているようにみえる。
およそ五分ほども話していただろうか。渡瀬がこちらに戻ってきた。
「ごめんなさい」
「別に謝らなくてもいいよ。それよりなにかあったのか? 随分と深刻そうな顔をしていたけれど」
渡瀬はかぶりを振った。
「いえ、特にはなにも。電話の相手は一緒にここで昼食をとっていた友達で、下で待っているから早くお買い物を再開しようと言われて。だから私、そろそろ行かないと」
「そうか。なら早く行きなよ。友達が待っているんだろ?」
「うん。でもその前に一つ、見境くんに訊きたいことが……」
「訊きたいこと?」
いったいなにを訊きたいんだ。僕は思わず身構えてしまう。
「……この後の予定って決まっていたりするのかなと」
なんだ、そんなことか。僕はほっと息を吐いて答える。
「ん、いや、特には。たぶん、この辺をぶらぶらするとは思うけど」
「そうですか……ありがとう、教えてくれて」
「いえいえ」
僕の今後の予定を聞くことが、渡瀬にとってどんな意味があるのか、僕には皆目見当がつかない。だが、きっとなにか理由があるのだろう。あえて詮索はしないが。
「じゃ、そろそろ行かないと」
そう言うと渡瀬はトレイを手に立ち上がった。僕とロゼに向かって軽くお辞儀をする。
「じゃあ、見境くん、また月曜日に学校で」
「そうだな。さすがに今日はもう会うこともないか。それじゃ、学校で」
「またねー、お姉さん」
立ち去る渡瀬にロゼが別れの挨拶を送る。渡瀬はもう一度僕らに頭を下げると、踵を返し、階段に向かっていった。彼女の友達のものである、食べかけのハンバーガーを残したまま。
「行っちゃったね」
ロゼが、今しがた渡瀬が座っていた席を見つめ呟く。
「……そうだな」
「お姉さんはワタルになんて言おうとしたのかなあ」
ロゼの言葉に僕は肩をすくめた。
「さあな。他人の考えていることなんてわかるわけないさ」
「それもそうだね」
と言って、ロゼはくすくす笑った。
渡瀬が僕のことをどう想っているのか。ただのクラスメイト、という前言を撤回したのだから、クラスメイト以上として僕のことを捉えてくれているのだろう。最悪でも友達として考えてくれているだろうか。これは僕の願望であるから、正直なところ、渡瀬が僕に対してどのような想いを抱いているのかはわからない。今度、学校で会った時にそれとなく訊いてみよう。
「…………ねえ、ワタル、聞いてる? もう、ワタルってば!」
突然、腕に痛みが走った。見ると、ロゼが身を乗り出して僕の腕を思いきりつねっている。
「痛いな、なにすんだよ!」
抗議の声を上げると、ロゼは頬を膨らました。
「ワタルがわたしの話を聞いていないのがいけないんでしょ!」
「悪かった。ちょっと考え事をしてて……。で、なんて言ったんだ?」
「これからどうしよっかってこと」
ロゼの声にはまだ刺々しさが残っている。
「うーん、僕はこれといってやりたいこともないけれど……。お前は何かあるか? やりたいこと」
「その言葉を待ってました!」
そう言うと、ロゼは口の端を吊り上げる。
「実はね、さっきワタルとお姉さんが話し込んでいる間に、午後の予定についていろいろと考えてみたの」
やけに静かだと思ったら、そんなことを考えていたのか。道理で会話に割り込んでこなかったわけだ。
「それで、なんだよ。そのお前が考えたプランっていうのは」
「えへへ、それはね……」
十五分後。ロゼのプランとやらをすべて聞き終えた僕は、がっくりと肩を落としていた。
「お前、それ全部やるつもりなのか?」
「当たり前でしょ。このぐらいやらないとデートじゃあないわ」
ぐいと胸を張るロゼ。お前がデートの何を知っているっていうんだよ……。
「さ、こんなところで時間を浪費するのはもったいない。行きましょう!」
「……はい、お姫様」
こうしてロゼ発案、午後のデートプランが実行に移されることになったのであった。
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