三日目(土曜日)その1

「おい、ロゼ。どこか行きたいところあるか?」

「えーなに? よく聞こえないいんだけど」

「この距離で聞こえないわけないだろうが」

「だから聞こえないってー。あはははは、おもしろーい、これ」

「こら! あんまし揺らすなって。落ちるぞ」

 まったく……。昨日のあの笑みはなんだったんだ。やはり、記憶を失うとその人格まで変わってしまうという僕の仮説は正しいのだろうか。一昨日のロゼは少なくともこんなに無邪気な様子ではなかった。ましてや、たかが二人乗り程度でこんなにはしゃぐなんて考えられない。

 というわけで、僕らは自転車を駆って駅前に向かっている。なぜ駅前なのかは、そこがこの近辺では一番栄えていて、なおかつ僕の家から自転車で二十分弱と比較的近場に位置しているためである。まあ、駅前に行けばロゼがやりたいこともはっきりするだろう。

 もちろんこのような行動に至った理由は昨日のロゼの「デートしない?」の一言である。その日はどうせ冗談だろうと思い眠りについたのだが、かくのごとくテレビの音で起こされた僕の目に飛び込んできたのは、焦げ茶色のローブを羽織って準備万端のロゼだった。そんなこんなで、朝飯も食べずに家を飛び出して今に至るというわけである。

「ねえねえ、ワタル」

 ロゼが僕の左肩をぽんぽんと叩く。

「どうしたんだ」

 顔を後ろに向けてロゼを見てみると、右手で腹の辺りを押さえている。

「お腹が空いたよ。朝ごはん食べたい」

「少し我慢して、駅前まで行ってからにしないか」

「えー、やだやだ、もう我慢できないよー」

 ぶつくさ文句を言いながら僕の肩を揺らすロゼ。

「あー分かったよ。じゃあ、そこのコンビニ寄るか」

 ちょうど左手にコンビニエンスストアが見えてきたのでそこへ向かう。

 駐輪場に自転車を止めた僕はそこではたと気づいた。

 ここは怜がバイトをしている場所じゃないか! これはまずい。非常にまずいことになった。もし今、怜がここでバイトをしていたら、ロゼの存在を知られてしまう。そうしたら、あいつは僕のことを「見知らぬ少女を連れ回している変態」だと認識するだろう。下手したら通報されかねない。最悪でも逮捕という事態は免れなければ。こんなことで人生を棒に振りたくはない。

 よし、コンビニなんて道中いくらでもあるんだ。何もここじゃなくたっていいだろう。ロゼには、ここのおにぎりはおいしくないとかなんとか言って次のコンビニに誘導しよう。

「な、なあロゼ。今思い出したんだけど、ここのおにぎりはあまり――」

 僕は後ろにロゼがいるだろうと思って話しかけたのだが、そこに彼女はいなかった。ぐるっと辺りを見回してみても、いるのはカーストッパーに腰かけて煙草をふかしている中年の男性だけだ。おそらく、ロゼはもう店内に入ってしまっているのだろう。

 しょうがない。ここは腹を括ろう。そして怜がいないことを願おう。

 意を決して店内に入り、レジに目を向ける。幸運なことにレジには眼鏡を掛けた若い女性がいるだけで怜の姿は見当たらない。店の裏にいるという可能性もあるが、ひとまず危機は脱したようだ。怜が来ないうちにさっさと買い物を済ませてしまおう。

 ロゼの姿を見つけるために店内を見渡す。店の中には朝の早い時間帯のせいもあってか、客の姿はほとんどない。雑誌のコーナーに目を移すと、食い入るようにファッション誌を読んでいる若い女性がいた。雑誌と顔がくっつかんばかりに見入っている。

 いや、あれは見入っているというよりも、むしろ顔を隠しているかのようにみえる。そして何故かチラチラと横目で僕の方を見てくる。

 不審に思い、僕が彼女の方に近いていくと、彼女は僕が近づいた分だけ離れていく。

 あれ、もしかして……。

「渡瀬か?」

「ひゃうっ」

 僕が話しかけると渡瀬は素っ頓狂な声を上げた。

「ごめん、びっくりさせちゃったかな」

 彼女は僕の言葉にぶんぶん首を振った。そして、もう顔を隠すことはやめたのか、雑誌を棚に戻して身体をこちらに向けた。今日の彼女は普段僕が見慣れている制服姿ではなくゆったりとした白いワンピースに濃紺色のカーディガンを羽織っており、その服装は彼女の奇麗な黒髪と非常にマッチしている。彼女からは、そこらの女子高生では醸し出すことのできないであろう奥ゆかしさが滲み出ていた。

 それにしても、どうして渡瀬はこんな朝早くにコンビニで立ち読みなぞしているのだろうか。それにこの気合の入った格好。もしや……デートか?

 たまらず僕は訊いた。

「なんでこんな時間にコンビニで立ち読みなんかしているんだ? 友達と待ち合わせとかか?」

「え? あ、うん、そうなの。お友達とショッピングの約束をしていて。ここが待ち合わせ場所なの」

「へー、そうなのか」

 渡瀬でもやっぱりショッピングとかするんだな。どうしても彼女に対しては、世間一般の女子とは違ってどこか浮世離れしているイメージを抱いてしまっている。しかし、それは僕の勝手な思い込みで、実際の渡瀬はショッピングを楽しんだり、甘いものが大好きな人並みの女子高生なのかもしれない。

「そういう見境くんはどうしてここにいるの?」

「えっと、朝食を買いに。家に食べるものが何もなくてさ」

 嘘は言っていない。本当のことだ。僕はここに朝食を買いに来ただけだ。他意はない。

「そ、そうなんだ……」

 ん? どこか渡瀬の様子に落ち着きがない。さっきからあちこちに視線を彷徨わせている。そんなに僕と目を合わせることが恥ずかしいのだろうか。それとも待ち合わせの相手を探しているのか。

 まあ、そうだな。渡瀬の友達が来たらまたいろいろと説明が面倒になるだろうし、ロゼの存在を知られないためにも長居は無用か。そろそろ退散しよう。

「それじゃあ、雑誌を読むのを邪魔しちゃ悪いからもう行くよ。また学校で」

「う、うん。また学校で」

 僕の語尾を抜き取って繰り返し、頭を下げる渡瀬。よし、これで後はロゼの存在を知られないよう静かに店を後にするだけだ。

 しかし、そうは問屋が卸さなかった。

 ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、頭を下げた渡瀬の背後にロゼがおにぎりを手に立っていた。

 ロゼは僕と目が合うと、にっこりと笑って、

「ワタルは昆布と鮭、どっちがいい?」

 と、二つのおにぎりを掲げた。

 その声に反応した渡瀬が首を回らせる。

「え……? なんで……」

 よくわからない言葉を発した渡瀬はそのまま固まってしまう。一方のロゼはきょとんとした顔をしてこちらを見ている。

「どうしたんだ、渡瀬」

 声を掛けてもしばらく動かないままだったが、やがてまた時が動き始めたかのようにぐいっと顔をこちらに戻した。

「う、ううん。なんでもない。それより、この子は見境くんのお知り合い?」

 と言って、ロゼに手を向ける渡瀬。

「えーっと、まあ、知り合いというかなんというか……」

 しまった。何も思いつかない。こんなことになるなら、事前にロゼとこういう場合の対処法について話し合っておくべきだった。

「あー、ワタルとはね、親戚なんだ」

 僕が返答に窮しているのを悟ったのか、ロゼが助け舟を出してくれた。しかし、よりによって親戚とは。お前の見た目は明らかにハーフなんだからいろいろと説明がややこしくなるだろうが。

「そ、そうなんだよ! 父親の弟の娘でね。昨日の夜、突然訪ねてきたんだ。なんでも、急に僕に会いたくなったんだと。まったく、困っちゃうよなあ、ははは」

 かなり無理のある説明だが大丈夫だろうか。

「へえ、そうなんだ……。急に来られて大変だね、見境くんも」

 あら。どうやら、こんな不得要領な説明で納得してもらえたようだ。僕は彼女の気遣いに苦笑をもって返す。ほっとしてロゼに視線を移すと、何故か僕に向かって手招きをしている。

 渡瀬のわきを通って近づくと、ロゼは先ほどの質問を繰り返した。

「鮭と昆布どっちがいい?」

「僕は昆布より鮭がいいかな。でも、ロゼが鮭を食べたいなら昆布でもいいけど」

「わたしは昆布がいい。鮭はぱさぱさしているから嫌い」

 食べた時を想像したのか、ロゼは露骨に嫌な顔をした。

「じゃあそれで決まりだな。それじゃあ、渡瀬、僕らはもう行くから」

 あまり会話を長引かせると、ロゼが何を言い出すのかわかったもんじゃないからな。さっさとおさらばしないと。

 ロゼの手を引っ張ってレジへ向かおうとしたが、ロゼは僕の手を避けて渡瀬に向き直った。

「ねえ、お姉さん」

 ロゼは僕に背を向けているため彼女の表情を窺い知ることはできない。けれど、渡瀬の顔はしっかりと見ることができる。その顔は何故だか少し怯えているように見受けられる。

「な、なにかしら」

「お姉さんとワタルって友達なの? それとも恋人? それ以上の関係?」

 何を口走っているんだこいつは!

 急いで間に入ろうと口を挟みかけた。が、できなかった。そこには僕がとても話しかけることのできない空気が漂っていた。

 数秒の沈黙の後、渡瀬はどこか遠くを見つめるような目をして言った。

「見境くんとはそんな一言で言い表せるような関係ではないわ」

 そこで一度言葉を切り、今度はロゼをしっかりと見据えた。

「……ただのクラスメイトよ」

 その言葉を最後に張りつめていた空気が和らいでいく。そしてロゼがくるっとこちらに振り返って僕にとどめの一言を浴びせた。

「だってさ、ワタル」

 なんだよ、少し期待した僕が馬鹿みたいじゃないか。ただのクラスメイト……ね。けれど、彼女の言っていることは矛盾していないか。『クラスメイト』だって一言じゃないか。 まあどうだっていいさ。友達にはなれているだろうなんて、おこがましいな、僕は。

「じゃあ、またねー、お姉さん」

 ロゼは渡瀬にそう言い残すと、僕の腕を引っ張ってレジに向かっていく。僕は、渡瀬に声を掛けることもできず、ただロゼに引きずられるままに、お金を支払い店を後にした。


 僕に対して幾ばくかの精神的な傷を与える現場となったコンビニエンスストアから自転車を漕ぐことおよそ十五分。駅前に辿り着いた僕らは自転車を駅近くの駐輪場に置き、駅前のバスターミナルの前に突っ立っていた。

 さて。いつまでも落ち込んでいるわけにもいかない。これからどうしようか。いくら駅前が栄えているといっても、それは僕の家の周りと比べた場合だ。ここは、大都市とは違って行楽施設と呼べるものはあまり多くはない。だから「デート」なぞというものをする場所としては非常に物足りない。おそらくこの地域に住んでいるそういった関係の男女はこんなところで関係を深めはせず、電車に乗ってもっと栄えた地に足を向けるに違いない。さりとて、僕にはそこまでしてロゼをもてなそうなどという考えは微塵もない。

 ロゼの「デート」という提案を受け入れたのには彼女が行きたがっていたのとは他にもう一つ理由がある。それは昨日ロゼが書き残したと思われる手紙に書かれていた、「町の様子が気になる」という文面と、一昨日の彼女が発した、「ある噂を調べに来た」という言葉。この二つが僕の中で引っかかっているのだ。昨日、ロゼはおそらくその噂とやらを調べるためにこの町をぶらついていたはずだ。

 そこで彼女に何かが起こった。彼女の記憶を失わせるような何かが。だから、今日この町を二人で歩いていれば彼女の身に起こったことについてなにか分かるかもしれない。そして、もしロゼが記憶を取り戻すようなことになったら、僕のこのエキセントリックな記憶喪失の原因が解明されることにもつながるだろう。そのような希望的観測に基づいて僕は彼女の提案を承認したのだ。

 こうした僕の思いを知ってか知らずか、先ほどからロゼは行き交うバスの流れを興味深そうに眺めている。

「そんなにバスが気になるのか?」

「ううん」

 ロゼはかぶりを振った。朝の陽光に照らされて、レディッシュの髪が煌めいている。

「バスそのものじゃなくて、バスの中に乗っている人たちの気持ちが気になるの」

「乗客の気持ちが気になる?」

 大きく頷く。その目はバスの流れを見つめ続けているままだ。

「どうしてあんなにみんなリラックスしているのかな。わたしなら不安で不安で堪らない」

「何故、不安になる必要がある? あのバスがこれから死地に向かうなら話は別だけど、そういうわけじゃないだろ。どこかに遊びに行くのかもしれないし、我が家へ帰るのかもしれない。だとしたら、あそこにいる人間たちはそういったマイナスの感情とは無縁じゃないか」

 僕の意見にロゼは首を傾げている。どうやら彼女の考えは僕のものとは異なっているようだ。

「まあ、世間一般の人たちの考えはそんなもんなのかな。でもわたしは、いまワタルが言った、死地に向かうって表現はあながち間違ってないと思うけど」

「どういう意味だ?」

「だからさ」

 ロゼはこちらを向いた。灰緑色の瞳が僕を捉える。

「言うなれば、あの乗客たちは他人である運転手に命を預けているも同然じゃない。逆に言えば、運転手が乗客の命を握っているわけ。もし、あの運転手が死にたいと思っていたとしたら、普段のルートを外れてそれこそ死地に向かおうとするかもしれない。そんなのわたしは耐えられない。他人の死という願望に巻き込まれたくない。死ぬときは自分の意思で死にたいよ」

「それはいくらなんでも暴論だろ。どう考えても、運転手が自殺、もしくは事故を起こす確率より、決められたルートを安全に運転する確率の方が高いだろう」

「確率的に行ったらもちろんワタルの言う通り。でも、ゼロじゃない」

「それはそうだけどさ……」

 そんな風に物事を考えていたら、電車や飛行機にだって乗れないじゃないか。

 ……ってあれ?

「なに?」

「ならどうしてお前はさっき僕の自転車の後ろに乗ったんだ? お前の考えからするとあの時は僕に命を預けていたってことになるぞ」

「うん、そうだね」

「言っていることとやっていることが矛盾していないか」

「いいえ、そんなことはないけど。だって」

 そこでロゼは視線をまたバスの方へと向けた。

「……あなたのことを信頼しているもの」

「ああ、なるほど……」

 一応信頼されているのか、僕。……何故だろう。吹き付ける風が先ほどよりも心地良い。

「と、とにかくわたしが言いたいのは」

 こころなしかロゼの頬が赤らんでいる。どうやら自分の言ったことが恥ずかしいようだ。

「自分の身勝手な願望に他人まで巻き込むなってこと」

 まるでそういった経験があるかのような物言いだな。記憶を失っているはずなのに。

「さ、いつまでもこんな気が暗くなるような話をしていないで何処か行こうよ、ワタル」

 言いたいことはすべて言い終えたらしい。僕は軽く頷く。

「そうだな。じゃあバスにでも乗って少し遠出するか」

「もう。今のわたしの話聞いてなかったの?」

 どんと背中を叩かれた。そして僕に背を向けて歩き出してしまう。慌てて僕も彼女についていく。

「おいおい、何処に行く気だよ」

「うーん、どうしようかな……」

 そう言いながら腕を組んで考え込むロゼ。

「一応デートって言ったからには、カップルが行きそうな場所に行かないといけないよね……」

 いや、別にそんな縛りを設ける必要はないと思うんだけど。

「まあ一般的にデートといったら、映画を観たりとか、ショッピングしたりとか、かなあ」

 僕の言葉を聞いたロゼは腕組みを解き、ぽんと一つ手を叩いた。

「そうね、じゃあ最初は映画を見に行くことにしましょうか」

「仰せのままに」

 これといって観たい作品があるわけではないけれど、観たくないわけでもない。正直、どちらでもいい。なら、わざわざ否定する必要もない。まあ、デートと呼ばれる行為の第一歩としては妥当なところだろう。

「決まりね。で、映画館の場所ってどこなの?」

「この通りの二つ目の信号を左折したところにあるよ」

「へえ、さすがに地元とあって詳しいんだね」

 感心した様子のロゼ。僕は少し嬉しくなって胸を張ってしまう。

 実を言うと先月、春人に連れられてとあるアクション映画を観に行ったばかりなので、映画館の位置は把握している。ちなみにその映画はさして面白くなかった。隣の春人は何故か号泣していたけれど。

「映画を観るのはいいけど、観たいジャンルとかってあるのか?」

「そうねえ……やっぱりカップルで観るものといったら、ラブストーリーかなあ」

 別にカップルだからってラブストーリーしか観ないわけじゃなし。カップルにとってはそういうジャンルとかは二の次で、「二人で同じ映画を観る」という行為そのものが意味のあることなのだろう。

「ラブストーリー、ねえ。というか、今ってどんな映画が上映されているんだろう?」

「そんなの実際映画館に行ったらわかるじゃない」

「それはそうなんだけどさ。……あ、そうだ! ちょっと電話してもいいかな」

「別に構わないけど……突然どうしたの」

「知り合いに映画に詳しい奴がいるんだよ。そいつに訊いてみる」

 ボディバッグから携帯電話を取り出し、着信履歴から馴染みの電話番号を選んで掛ける。

この時間だと、生活が不規則なあいつのことだからまだ眠りについているかもしれない。 案の定、コール音がひたすら鳴るだけで一向に電話に出る気配がない。やはり寝ているのだろうか。

 そう思い、諦めて電話を切ろうとした瞬間にコール音が鳴り止んだ。

 聞こえてきたのは、踏切の警報音と車のエンジン音。

「もしもし、春人? 聞こえているか?」

 やや沈黙の後、声が返ってきた。

『あー、聞こえるよ。どうしたんだこんな時間に』

「まあちょっとな。それよりお前、どうして外にいるんだ?」

『別にいいじゃねえかよ。俺だって外の空気を吸いたいときだってあるさ。それより用件があるならさっさと言ってくれ。俺も暇じゃないんでね』

「忙しいところ悪いな。実は今映画を観ようと思って映画館に向かってるんだ。ほら、この前お前と観に行った場所あるだろ? あそこに行こうと思ってるんだが、何を観たものか悩んでいるんだよ。何かお勧めあるかな?」

『おい、航。普通は順序が逆じゃないか? 観たい作品があって映画館に足を運ぶもんだろ。映画館に行ってから観る映画を探すなんておかしくないか』

 それはごもっともなことで。でも、春人にこの複雑怪奇な状況を説明する必要性などないし、したくもないから適当にごまかそう。

「そりゃそうだけど、今の僕は映画館という雰囲気に酔いしれたいだけだから、別にどんな映画だっていいんだ。でも、一応観るからには評判の良い作品を観たいからこうしてお前に訊いているわけ」

『……なるほど。でもいきなり言われても困るな。せめてジャンルくらいは絞ってもらわないと』

 やはりそうくるか。気恥ずかしくてあまり言いたくはないのだけれど。

「え、えっと……ラブストーリーを」

 絶対笑われる。そう覚悟した僕であったが、意外なことに春人は笑い声を上げなかった。

『そうだなあ、今公開されているものだと、「教師と生徒のラプソディ」というタイトルの作品の評判はなかなかいいな。俺も観たんだけど、あれはいいね。教師と生徒の禁断の恋。俺もアキ先生にアタックしたくなったよ』

「そうか……」

 どう考えても、アキ先生はお前なんかには惚れないだろうよ。あの耳の後ろが濡れているような先生には、包容力のある大人の男性が相応しい。残念だったな。

『なに本気にしてんだよ。冗談に決まってるだろ』

 と言って、朗らかに笑う春人。

「なんだ、冗談かよ。この前、お前の将来の夢とやらを聞いたばかりだったから危うく信じてしまうところだったよ」

 一昨日、彼の部屋で聞かされた「お婿さんになりたい」という夢。あの時の春人にはいつものちゃらんぽらんさは無く、その表情は真剣そのものだった。ともすれば彼の中においてその夢は、小説家になりたい、というもう一つの夢と同じくらいの地位を占めているのかもしれない。

『もちろんその夢は嘘じゃないさ。でも、残念ながらそのお相手はアキ先生じゃない。あ、それに、その映画の面白さも嘘じゃないから是非観てくれ。お勧めするよ』

「おう、教えてくれてありがとうな。お礼に今度何か奢るよ」

『いやいや。そこまでしてもらう義理はないよ。映画を観た感想を聞かせてもらうだけで十分』

「わかった。じゃあそれは月曜日に学校で。忙しいところ悪かったな。それじゃ」

 そう言って電話を切ろうとしたのだが、

『ああ、ちょっと待った』

「ん?」

『映画を観た後ってどっか行ったりするのか』

 どうしてそんなことを訊くのだろう。この後の僕の予定が春人の今後の予定に関わってくるとでもいうのだろうか。

 僕の考えを察したのか、春人が慌てて付け加えた。

『いや、別に他意はないよ。ただ、単純に気になっただけ』

「そうだなあ、この後の予定か……」

 横目でちらりと隣を歩いているロゼを窺うと、手を後ろに組んでのんびりと歩を進めている。

 僕は春人に、「ちょっと待ってて」と言い送話口を手で塞ぐと、ロゼに話しかけた。

「なあ、ロゼ。映画を観た後なにかしたいことあるか」

 僕の問いを聞いたロゼはというと、

「うーん、さすがに未来のことまではわからないよ」

 と、思案顔。要するに、まだ考えてないってことだな。拳を口に当てて唸っているロゼは放っておいて、送話口から手を離し、再び春人との会話に戻る。

「まだ決めてない。でも、今日は終日外で過ごすことになると思う」

『そうか。わかった。それじゃあ良い週末を』

「良い週末を」

 上流階級の貴婦人たちが交わすような挨拶をして僕は電話を切った。

 どうやら結構な時間を春人の会話に費やしてしまっていたようで、携帯を鞄にしまった時にはもう映画館の前まで来ていた。入口の前まで歩を進めたロゼがこちらを振り返った。

「で、何を観るか決まったの?」

「ああ。ラブストーリーものなら『教師と生徒のラプソディ』ってやつがお勧めだって」

 タイトルを聞いたロゼはくすっと笑った。

「なんだか、いかがわしいタイトルだね」

「そうか?」

 確かに言われてみれば、そんなような気がしないでもない。

「まあそれでいいよ。さ、中に入ろう!」

 それだけ言ってロゼは自動ドアを抜けて中に入ってしまった。僕も慌ててついていく。

 ロビーを抜けてエスカレーターを上がると、チケット売り場がある。午前中ということもあり、あまり混雑はしていない。ロゼを手近のソファーに座らせると、チケットを買いにカウンターに向かった。チケット売り場の上にはモニターがいくつか設置されており、そこに各作品の上映時間が表示されている。僕らが鑑賞予定の作品はどうやら後十分で始まるらしい。これは運が良かった。あまり待たされずにすみそうだ。チケットも滞りなく購入することができ、席も観やすい位置を確保することができた。

 ロゼを伴って劇場内に入ると、スクリーンでは上映中の諸注意が流れていた。思った通り客席はあまり埋まっておらず、僕らの座る列には誰も座っていない。

 席に着いた僕は、背もたれにゆったりと背中を預け、ぼんやりとスクリーンを眺めていた。しかしそんな僕とは対照的に、ロゼは電車内で外の風景を眺める子供のように後ろを向いている。僕は恥ずかしくなってたまらず言った。

「おいやめろって、そんな幼稚園児みたいなことするのは。おとなしくスクリーンの方を向いとけよ」

 そう窘めると、ロゼは頬を膨らませた。

「えー別にいいじゃん。まだ始まってないんだしさ」

「じゃあせめてその行動の意味を教えてくれ」

「わたしたちのように、カップルでこの映画を観ようとしている人がどのくらいいるのか数えてるの」

 ……馬鹿馬鹿しい。

「でも、見た限りだと二組しかいないね。まあこれから入ってくるカップルもいるかもしれないけどさ」

 そう言うと、本来の映画を観るべき態勢に座り直す。僕も少し姿勢を正してスクリーンに目を戻すと、ちょうど上映中の諸注意のテロップが流れ終えたところだった。

 照明が消され、劇場内は誘導灯の灯りのみとなる。その場内が一番暗くなったタイミングで不意に足音が僕の耳に入ってきた。続いてその足音の主であろう人物のシルエットが目に入る。暗くてその顔まで見ることはできないが、どうやら男性と女性の二人組のようだ。その二人はスクリーンを横切って階段を上がると、僕らのいる列よりさらに後方へと向かっていった。ロゼがあんなことを言った直後に本当にカップルが現れるとは。もしかしたら、こいつは僕と同じ能力を備えているのだろうか。しかも僕より先の未来を予測できるのか。これには少しジェラシー。まあ偶然だろう。そうであってほしい。

 映画の内容は、途中で寝ることなく最後まで観ることができたので、つまらないものではなかったといえるだろう。唯一、残念だった点を挙げるとするならば、おそらくこの映画の最も感動的なシーンだったと思われる、主人公である男子高校生が授業中にも関わらず、恋仲になった女教師とともに教室から飛び出すという場面において、隣りからすすり泣く声ではなく寝息が聞こえてきたことくらいで、他は個人的には概ね満足のいくものであった。どうやらこの女、終始眠っていたらしく、上映終了後にそれとなく感想を求めてみたところ、

「いやあ、最後に二人が結ばれて本当に良かったよ」

 などとぬかしやがった。この映画のラストシーンは、駆け落ち先にあった大きな池に二人で入水していくというものだったのに。

 まあ確かに、二人は結ばれたと解釈できないこともないが。

 映画館を出るころには時刻は正午を回っていた。

「ロゼさんよ、次はどうしましょうかね」

「次はもちろんあれに決まってるじゃない。ランチよ、ランチ」

「そうだな。ちょうど小腹も空いてきた」

 なにせ朝食はおにぎり一個だけだったしな。この案には僕も大手を振って賛成できる。

「カップルが昼食をとる場所って一般的にはどこかな」

「小洒落たレストランという手もあるけど、僕らみたいな懐が寒い高校生が行く場所としては、ファストフード店がベストとまではいかないけどベターな選択じゃないかな」

 正確には「僕ら」ではなくて「僕」だけれど。ロゼはすかんぴんだ。

「オッケー。そこにしましょう。場所は?」

「駅前に一つと、さっきの通りをさらに直進したところに一つ。距離的には駅前の店舗の方が近いかな」

「じゃあ駅前の方で。さあ、出発!」

 そう言って片手を高々と上げると、陽気にスキップせんばかりの勢いで歩き始めた。

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