三日目(土曜日)その3

「あー楽しかった」

 背中からロゼの満足そうな声が聞こえてくる。

「デートってこんなに疲れるものなのか……」

 太陽が山の稜線に沈みかけている。空気が昼間よりも少し冷たくなっており、自転車を漕ぐ僕にとってはそれが非常に心地良い。

 午後は売れっ子アイドル並みの分刻みのスケジュールだった。あまりに多くのデートめいたことをこなしたために、自分たちがどこに行ったのか、おぼろげにしか思い出せない。でも、行く先々には確かにカップルが多かった。なんだか、デートをしたというよりは、カップルが行きそうな場所に行く、といったほうが正しいのかもしれないが。

 まあなにはともあれ、ロゼが大層満足そうでよかった。僕も疲れたけれど、退屈はしなかったから、一応楽しめたとはいえるかな。

 信号に差しかかり、自転車の速度を緩める。横断歩道の手前で止まり、足をペダルから離す。この信号を渡ればもう我が家までは五分とかからない。

「ねえ、ワタル」

 唐突にロゼが言った。

「実は、一つやり残したことがあるんだけど」

「やり残したこと?」

 振り返ると、ロゼは小さく頷いた。

「それは今日やらないといけないことなのか?」

 ロゼはもう一つ頷く。今度は大きく。

「これだけはどうしても今日やらないといけないの。それも一日の終わりに」

 ロゼの目には真剣みが宿っている。僕はハンドルから手を離し、頭を掻く。

「家に帰ってからじゃ駄目なんだよな、やっぱり」

「うん。ワタルの家は特に駄目」

 どういう意味だ? 僕の家ではできないようなこととはなんだろう。

「あーわかったよ。今日はとことん付き合うって決めたからな。んで、何処に行けばいいんだい、お客さん?」

 これでまた駅前に戻ることになったらさすがにしんどい。近場がいいな。

 そんな僕の願いが通じたのか、ロゼは、

「あそこがいい」

 と言って、交差点の向こう側を指差した。

「あそこって、あそこには何もないぞ?」

 ロゼが指差したのは豊丘公園だった。登下校の際に、僕が近道として利用している場所であり、一昨日、渡瀬がヤンキーに襲われている場面を目撃した場所である。

「知ってる。でも、あそこがいい。というか、あそこじゃなきゃ駄目なの」

「わかった……」

 あの公園でロゼが何をしたいのかはまったく見当もつかないが、どうせすぐそこだ。行けばすぐわかるか。

 何もないとは言ったものの、それは遊具が一つもないという意味で、なんとかここが公園だと思わせるようなものはいくつかある。

 自転車を降りた僕らは、植え込み近くにある背もたれのついたベンチに並んで腰を下ろした。太陽はもう山の向こう側に隠れてしまい、辺りは先ほどより暗さを増している。それにつれて風も出てきた。ベンチのすぐ後ろにある大きなミモザの葉が風に揺られて大きな音を立てている。

「本当に何もないんだね」

 ロゼが周りを見渡しながらそう呟く。

「ああ。二年前くらいまではブランコがあったらしいけどな。なんでも、小学生が遊んでいるときに突然鎖が千切れて大怪我を負ったらしい。それで撤去されてしまったんだと」

「へえ。そんなことがあったんだ」

 さして興味もなさそうに言うと、ロゼは腕を組んで黙り込んでしまった。フードを被ってなにやらじっと考え込んでいる。

 ただひたすらに沈黙の時間が流れていく。もしやロゼのやり残したこととはこうして二人で静かな時間を送ることなのだろうか。確かにこれもカップルらしい行為ではある。しかし、どうやら僕の予想は違っていた。おもむろにフードを脱いだロゼが、口を開いた。

「他人の記憶を消去することって、言い換えれば、その人の過去を殺すってことだよね」

 どうしたんだ、藪から棒に。言っていることはわからないでもないが。

 僕が返答に困っていると、ロゼは言葉を続けた。

「ボクら人間にとって、記憶というのはとても大事なものなんだ。人は生きていくなかで様々なことを経験する。ボクらはその膨大な経験を自分の脳に刻み込みながら成長していく。自らの記憶を材料にして作った階段をボクらは一歩一歩上っていくんだ。

 だが、もしその記憶とやらが他人によって書き換えられていたとしたら。自分が直に経験したことを土台としている階段は非常に密度が濃い。それに対して、自分ではない誰かによって造りあげられた階段はすかすかで脆い。そして、その偽りの記憶で造られた階段を上った先にあるのは……」

 そこでロゼは口を閉じてしまう。僕は続きが気になって訊ねる。

「上った先には何があるんだ?」

 しかし僕の期待とは裏腹に、ロゼは大きく首を横に振ると、肩をすくめた。

「……わからない。それがわかるのはキミだけだ、ワタル」

「どういう意味だよ? それに急にどうしたんだ。突然、立て板に水のように喋って」

 おまけに一人称も「わたし」から「ボク」に変わっているし。

 ん? 「ボク」? 確か、記憶を失う以前のロゼは、自らのことを「ボク」と呼んでいたような……。そして、この淀みのない口調。

 もしかして……。

「お前、まさか記憶が戻ったのか!」

 立ち上がりロゼに詰め寄ってしまう僕。ロゼは僕の突然の行動に困惑顔だ。

「すまん。ちょっと興奮しちゃって」

 自らの愚かな行動を恥じ、頭を下げようとする僕をロゼは手で制した。

「別に構わないよ。それに、謝るのはキミじゃなくてボクのほうだ」

「え?」

 ロゼは腰を上げると、きょとんとしている僕に向かって深々と頭を下げた。

「ごめん。実はキミに嘘をついていた」

「嘘……?」

 顔を上げたロゼはこくりと頷いた。

「記憶が戻ったんじゃなくて」

 そこでロゼは一呼吸置いた。僕は思わず息をのむ。

「――初めから記憶なんて失っていなかったんだ」

 そう言うと、ロゼはもう一度深く頭を下げた。何も言わない僕を不思議に思ったのか、ロゼが上目遣いでこちらを見つめる。

「……怒ってる?」

 僕は即答する。

「いいや、まったく」

「なんで? ボクはキミを騙していたんだよ?」

 驚きの声を上げるロゼに対し、僕は静かに語りかける。

「もちろん騙されていたことに対する残念な気持ちはあるよ。だけど、それよりも僕の心のなかではその気持ちよりも、お前が記憶喪失じゃなかった、と安堵する気持ちの方が大きいんだ。だから、怒りなんてしないさ」

「ワタル……」

 記憶を失うなんていう経験は僕だけで十分だ。

「ただ、ひとつだけ訊かせてくれ。どうしてお前は僕にそんな嘘を吐いたんだ? 何か理由があるんだろ」

 僕のことをからかうためだけにこんな演技をしていたのだとしたら、昨日の時点でネタばらしをしていたはずだ。わざわざ日をまで行うようなことじゃない。物事には必ず理由があるのだ。

「もちろん」

 ロゼはひとつ頷いた。

「キミのことをからかうためじゃない。ボクが記憶喪失のふりをしていたのには理由がある。そうしなければいけなかった理由が」

「何故?」

 そこでロゼは声を落とした。

「キミの家は、盗聴または盗撮されていたからね」

「とうちょう? とうさつ?」

 あまりに現実離れした言葉に僕は呆気にとられる。ロゼはさらに声を落として言った。

「そう。盗み聴き、盗み撮りとも言うね。そして、キミはおそらく二十四時間体制で監視されていた。学校に行っている間ももちろんね」

「おいおい、冗談だろ……」

「残念ながら、これは冗談ではない。事実だ」

 きっぱりと言い切るロゼ。

「そんなこと信じられるか! 証拠を出してみろよ。僕の私生活が盗み見られていたという証拠を」

 詰め寄る僕をロゼは手で制した。

「その前にひとつ」

 そう言うと、指を一つ立てた。

「二日前の夜、つまりボクがキミと久方ぶりに会ったときだが、ボクはキミにいくつか推論を述べた。キミが誰かに偽の記憶を植え付けられた、と言ったと思う」

 そうだ。ロゼはそんな荒唐無稽なことを突然僕に言った。

「そしてその時に、ボクはキミに伝えようとしてやめたことがある。憶えているかい、ワタル?」

 僕は眉根を揉みながら、一昨日のロゼの言葉を思い出そうとする。

「ああ。確かお前は、『これを言うとさらにキミが混乱してしまう。これはキミの人生観に関わることだ』とかなんとか言って、また明日にしようと先延ばしにしたんだ」

「その通り。あの時点でキミにこの事実を伝えたとしても、キミはおそらく信じはしなかっただろうね。だけど、今なら信じてもらえると思う。そして、ボクがいまから言うことは、キミが記憶喪失に陥ってしまった理由、またキミが盗聴または盗撮されている理由の原因でもあるんだ」

 そこまで一息に言うと、ロゼは大きく息を吐いた。僕は口を挟まずにはいられない。

「もったいぶらずにさっさと言ってくれよ」

「それもそうだな。では、単刀直入に言おう。ワタル、キミはね」

 あたりはさらに暗さを増し、お互いの顔も見づらくなってきた。しかし、ロゼの灰緑色の瞳だけは輝いている。その瞳が僕を射るように捉える。僕はそのとき、これからロゼが言うことを聞いてしまったら、もう後には戻れない、そんな気がした。しかし聞かずにはいられなかった。いや、聞かなければいけない。

 僕が覚悟を決めたのを見て取ったのか、ロゼはゆっくりと口を開いた。そして、言った。

「この世界の住人じゃないんだよ」

「…………」

 ロゼが発したその言葉は、僕の想定していた言葉の斜め上のさらに上をいっていた。

 到底信じられるような話じゃない。だから僕はロゼが、冗談だよ、と口にするのを待ってみた。しかし、一向に口を開く気配がない。どうやらロゼも僕がなにか言い出すのを待っているようだ。仕方なく、僕は彼女に訊ねる。

「そんな御伽話を突然かまして、僕が信じると思うか?」

「やっぱりそうだよね」

 ロゼは少し寂しげに笑った。この顔には見覚えがある。初日にロゼが僕との関係性を述べた際に、僕がそのことについて憶えていない、と言ったときの表情と同じだ。

「ごめん」

 僕はいたたまれなくなり、思わず謝っていた。

「でも信じられないよ。さすがに」

「では証拠を見せるとしよう。いや、証人と言ったほうが正しいかな」

 そう呟くと、ロゼはおもむろに顔をベンチの後ろ側のある植え込みに向けた。

「どうした」

 僕の問いには答えず、ロゼはにやりと笑うとその何もないはずの空間に向け声を発した。

「そろそろ出てきたら? 監視の時間は終わりだよ」

 一際大きな声に反応して、植え込みがガサガサと音を立てたかと思うと、続いてその植え込みの陰からゆっくりと白い影が姿を現した。初めは暗がりでよく見えなかったが、だんだんとその影が近づいてくるにつれて、それが誰であるかがわかった。

 僕は目を見開いた。

「…………渡瀬?」

 そこに立っていたのは、薄手のカーディガンを手にした渡瀬伊吹であった。植え込みにの陰に伏せていたせいで、真っ白いワンピースがところどころ緑色になっており、顔にも葉がついている。しかし渡瀬は顔についた葉を取ることもせず、ただじっと俯いている。

 僕はロゼに逼る。

「おい、ロゼ。これはいったいどういうことなんだ。どうして渡瀬がここにいる? お前はその理由を知っているんだろ!」

「まあまあ落ち着いて、ワタル」

 ロゼは僕を宥めると、今度は鬱蒼と葉が生い茂っているミモザの木を見た。そして、

「ほら、あなたもそこに隠れてないで出てきなって」

 わずかな間の後、幹の裏側から姿を現したのは、僕がよく知る男だった。そいつは僕の姿を認めると、力なく笑った。

「……よう、航」

「春人…………?」

 春人は苦笑すると、渡瀬のそばまで移動した。そして、今にも崩れ落ちそうとしている渡瀬の身体を支える。

「大丈夫か、伊吹」

「うん、大丈夫。ありがとう、春人くん」

 そうは言ったものの、やはり立ってはいられないようで、春人が肩を貸し、なんとかベンチに腰を下ろした。呆然と立ち尽くしていた僕は、我に返ると春人に問うた。

「一体全体どういうことなんだ? どうしてお前と渡瀬が一緒にいる? どうして木の陰に隠れていた? どうして」

「だから少し落ち着きなよ、ワタル」

 口早に捲し立てる僕の肩をロゼが叩く。僕はその手を振りほどいた。

「こんな状況で落ち着いてられる奴がいたら、そいつは人間じゃない。ただの肉の塊だ。お前に『この世界の住人ではない』って言われた直後に、今度は僕の知り合い二人が出てきた。それに、お前の口ぶりから察するに、この二人は僕を監視していたってことだろ?何故そんなことをする必要がある? 僕には理解できない。もし、お前ら三人がグルになって僕を騙しているんだとしたら、これはさすがに度が過ぎるぞ!」

 そこでふと我に返り、冷静さを取り戻す。少々声を荒げすぎてしまった。

 一つ深呼吸をして、立っているロゼと春人を見る。二人とも表情が曇っている。

「いや、あの別に怒っているわけじゃないんだ。多少感情が昂ぶってしまっただけで……」

 慌てて取り繕う僕をじっと見ていたロゼは、こちらに近寄ると僕の手をそっと握った。

「そうだね、聊か冗談めかして言いすぎたかもしれない。でも、いままで言ったことは決して嘘じゃない。すべて真実なんだ。そしてこれからボクが言う、キミの過去に関することも。だから真剣に聞いてくれ。茶化したりせずに」

 僕を見つめるロゼの瞳には、今までに見たことのない誠実さが込められていた。

 僕は小さく頷いた。

「わかった」

 僕の返答を聞いたロゼはほっとした表情を浮かべると、僕の手を離し春人に顔を向けた。

「これからワタルにすべてを話すけど、構わないかい? 波流春人?」

「ああ。こうなってしまった以上は仕方ない」

 次いで渡瀬を見るロゼ。

「いいかい、イブキ?」

 渡瀬は顔を下に向けたまま、こくりと頷く。そうして、ロゼは再び僕に向き直った。

「では、すべてを話すことにしよう。キミがこの世界に来た理由を。そして、ボクがやってきた理由を」

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