二日目(金曜日)その2
「本当に何も憶えていないんだな?」
僕の問いかけに、ロゼは凍えた小鹿のようにこくりと頷いた。そして、コーヒーを一口飲むと俯いてしまった。濡れた髪が顔を覆っているため、その表情を窺うことはできない。
「自分の名前も思い出せないのか?」
再度、今度は柔らかな口調で問い掛けてみるも反応は無し。濡れているローブの代わりに着せている僕のTシャツの裾をぎゅっと掴んでいる。
答えないということはわからないということなのだろうか。たった二文字の言葉なのに思い出せないというのは僕よりも重症だな。
ここで僕が口で教えてあげてもいいのだけれど、それでは信憑性が低い気がする。どこかにこの子の名前が記してあるものがあれば一番いいんだけれど……。
「あっ!」
僕が突然発した声にロゼはびくっとした。しかし僕はそんなロゼの挙動に構うことなく、仕切りのカーテンを開け放ち、洋室を出てすぐ右手にある洗濯機の蓋を開ける。思った通り、洗濯槽の中には雨に濡れて少し暗い色になっているローブがあった。おそらく、いや確実に、ロゼが入れたのだろう。それを軽く絞ってから取り出し、洋室に戻った。ロゼは僕のいきなりの行動に少々面食らっていたようだったが、僕と目が合うとまた下を向いて押し黙ってしまう。 しばらくの間、ロゼが僕の一連の行動について訊いてこないものかと待ってみたが、いつまで経っても訊ねてこないので仕方なく話し始めることにした。
「ちょっとこれを見てもらえるかな」
そう言って僕はローブの肩口にある刺繍をロゼに見せた。
「……なに、これ」
ロゼは昨日とはまったく異なる、弱々しい声を発した。
「これが君の名前だよ」
ロゼはローブに縫い付けられている文字をまじまじと見つめ、そして言った。
「ローズ……?」
僕は思わず吹き出してしまった。ロゼが訝しげな視線を向けてくる。
「何がおかしいの?」
「いや、君はきっと憶えていないと思うんだけど、昨日の僕とまったく同じ間違いをしたもんだからつい……」
ロゼは眉根を寄せた。
「ど、どういうこと?」
「君の名前はローズじゃないんだよ」
「え? だってここに刺繍がしてあるじゃない。わたしが着ていたものなんだから、そこにわたしの名前が縫い付けられていても何の不思議もない……まさか、これはわたしのものじゃないってこと?」
僕はかぶりを振った。
「いや、このローブは確かに君のものだよ。それと、肩のところに刺繍されている四文字が君の名前だということも合ってる」
僕の言葉に、ロゼは困惑の表情を深めた。
「じゃあ、わたしは何も間違っていないじゃない」
「いや、間違ってる。君はとても根本的な部分で間違いを犯しているんだ」
ロゼは首を傾げている。どうやらまだわかっていないらしい。僕は、殺人事件のトリックを説明する探偵のような口調で言った。
「君の名前は、ローズじゃなくてロゼなんだよ。ローズだったら、〟ROZE〝じゃなくて、〟ROSE〝でしょ?」
ロゼは僕の言葉をしばらく理解できずにぽかんとしていたが、やがてその意味がわかると顔を真っ赤にして俯いてしまった。一体いこれで何度目の俯きだろうか。
「ごめんね。決して君のことをからかうつもりはなかったんだけど……」
ロゼは何も言わなかった。
そのまま五分ほど黙っていたが、ようやく顔を上げてこう言った。
「……じゃあ、わたしの名前は、ロゼ……なの?」
「おそらくね」
僕はあくまで昨日ロゼから教えてもらっただけなので、本当にこの子の名前がロゼであるとは限らない。もしかしたら、ただ単にこのローブを作っているブランドの名前なのかもしれない。今となっては誰にもわからない。当の本人さえも。
「あなたの名前は?」
「見境航。ちなみに、お前は僕のことをワタルって呼んでたよ」
「そうなんだ……ワタル、ワタル、ワタル……」
ロゼは何度か僕の名前を繰り返し声に出した。
「どうかしたのか?」
「ううん。じゃあ、わたしもこれからあなたのことをワタルって呼んでもいい?」
「もちろん」
「わたしも、ってなんかおかしいよね。昨日までの『わたし』だって今の『わたし』であることには変わりないのに」
そう言ってロゼは微笑んだ。さっきと比べてだいぶ表情が明るくなってきた。自分の名前と相対している男の名前を把握したことで落ち着くことができたのだろうか。
しかし、ロゼに対して感じるこの違和感はなんだろう。自分の置かれている状況への順応がやけに早い気がする。
濡れているローブをそのままにしておくわけにもいかないので、再び洗濯機に入れ部屋に戻ってくると、ロゼが唐突に話し始めた。
「わたしね、気づいたら交差点の真ん中にいたの」
「交差点? どうして」
「わからない。何故、わたしはこんなところにいるのか。それまでのわたしはなにをしていたのか。そもそもわたしは誰なのか……なにもわからなくなってしまって……」
まあ、自分の名前も憶えていないような人間が、それまでの行動を憶えているなんてことはないよな。自分の姓名なんて記憶の中において最も重要な地位にあるものだろうし。よく他人の名前をど忘れしてしまうことはあるけれど……ん? ちょっと待て。
「じゃあ、なんでお前は僕の家の前にいたんだ? なにも憶えていないはずなら、僕の家がある場所なんてわかるわけないじゃないか」
「そうなんだけど……」
ロゼは自分でも納得がいっていないのか、首を捻っている。
「自分が何者かさえわからない状況なのに、あなたの家――正確に言えば、このマンションの二〇一号室っていう場所の記憶が、わたしの頭の中に残っていたの。自分の名前さえ憶えていないのに……おかしな話だよね」
そう言って、自嘲気味に笑った。まったくもっておかしな話だ。なぜ、僕の家の位置だけを憶えているのか。
「確か、お前はさっき何も憶えていないと言った。 でも、僕のマンションの部屋番号は憶えていた。さっきと言っていることが矛盾していないか」
「え? ああ、それは、言葉のあやというか……さっきは動揺していたから、あまり深く考えもせずに答えてしまって……ごめんなさい」
ロゼは深々と頭を下げた。いやいや、そこまでする必要はないんだけれど。
「別に怒ってるわけじゃないよ。ならさ、冷静になって考えてみると、まだ憶えていることがあるんじゃないか?」
僕がそう言うと、ロゼは唇に拳を当ててしばし考え、やがてはっと顔を上げた。
「何か思い出したのか?」
しかし、僕の期待に反してロゼはかぶりを振った。
「そうか……」
「ごめんなさい。わたしとあなたが以前どういう間柄だったかはわからないけれど、こんな形で押しかけることになってしまって、あなたに迷惑をかけて……本当にごめんなさい」
伏し目がちにそう呟くと、また深々と頭を下げた。もうほとんど土下座だ。
「お前が僕に謝る必要なんて露ほどもないんだ。だから面を上げてくれ、ロゼ」
ロゼはその後もしばらく謝意の表明であるこの体勢を崩さなかった。何度か説得することでようやくその体を起こしたが、相変わらず目線は下を向いたままだ。
……なんだこれは。いったい、なにがどうなっているんだ。
昨日、突然僕の前に現れ、「キミは記憶喪失だ」などと、にわかには信じられないようなことを言って僕を混乱させたと思ったら、今度は自分自身が記憶喪失になっただと?
それに、なんだか記憶を失っただけではなく、その振る舞いまでが一八〇度変わってしまったような気がする。昨日はあんなに悠然と、泰然自若としていたというのに。人間は、記憶を失うとその人格まで変わってしまうものなのだろうか。もしそうであるならば、記憶喪失になる前の僕はどのような人間だったのだろう。今よりも活発で覇気のある人間だったのだろうか。
そんな今となってはどうしようもないことを考えつつ、何の気なしにズボンのポケットに手を突っ込む。すると、何か柔らかい感触があった。
なんだろう? 携帯と財布はテーブルの上にあるし、そもそも普段はあまりポケットを活用しないしな……何か入れたっけ。
ポケットからその柔らかい物体を引っ張り出してみる。
それは、しわくちゃになった紙きれだった。レシートか何かだろうか。それにしては小さすぎるような気がする。
その丸まった紙切れを広げた瞬間、僕はあまりの自分の記憶力のなさに愕然とし、ひどく落ち込んだ。なぜ、こんな大事なことを忘れていたのだろうか。
「どうしたの?」
目を上げると、いつの間にか顔を上げていたロゼが心配そうに僕を見つめていた。
「ああ、いやね、本当に僕はどうしようもない馬鹿野郎だと思ってさ……」
ロゼは小首を傾げた。僕の言わんとするところがわからないらしい。まあ、それもそうか。これを書いたのはこいつなんだけどな。
「これだよ、これ」
投げやりに言って、『記憶を失う前』のロゼが置いていった紙切れを『記憶を失った後』のロゼに渡す。
手渡されたそれを見たロゼは、灰緑色の瞳を大きく見開いた。置手紙を持つ手が震えている。
「こ、これ……」
もしかしてなにか思い出したのか。ここはロゼに記憶を取り戻させるためにも、この手紙を見つけた経緯について説明したほうがいいかもしれないな。
「今日の朝、僕はお前を置いて学校に行ったんだ。それで、夕方に帰ってきたらお前はいなくなっていた。代わりに、この紙切れがテーブルの上に置かれていた。その時は、この文面の意味もよくわからないし、ちょっと遊びに出かけたんだろうなぐらいに思っていたんだけど、いつまでたっても帰ってこないから心配になって探しに出たんだ。でも結局見つからなくて諦めて帰ってきたら、お前がドアの前で蹲っていたってわけさ」
僕が話している間、ロゼはずっと目を紙面に落としていた。畳み掛けるように話してしまったが、僕の言っていることが理解できただろうか。
それにしてもこの文面は抽象的すぎる。『少し町の様子が気になるから出かけてくるよ』とはどういう意味なのか。
それにこの筆跡はどこかで見た気がするんだよな……。
しばしの沈黙の後、ロゼはゆっくりと顔を上げた。
「……これはわたしが書いたものなの?」
ロゼの声は若干震えていた。
「僕は、お前がこの手紙を書いた場面に立ち会っていないから、そうだと断言することはできない。誰かがこの家に入り込み、お前の記憶を消去した後、これを書いて立ち去ったのかもしれない」
僕の推測を聞いたロゼは唖然としている。この人はいったい何を言っているんだろう、といった表情だ。
「記憶を消すって……そんなことが可能なの?」
僕は肩をすくめた。そんなこと僕に訊かれたって困るよ。
「憶えていないだろうけど、昨日お前は、『記憶を失う前』のお前は、僕にこう言ったんだ」
僕は冗談に聞こえないように、少し声を落として言った。
「『ワタル、キミは誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ』ってね。それを聞いたときの僕の顔はまさに、今お前がしているような顔だったろうよ。でもな、ロゼ。初めて聞いたときには荒唐無稽に思われたその推論が、今となっては事実なんじゃないかと思えてきたんだ」
ロゼは口を挟むことなく、僕の話をじっと聞いている。僕は唇を湿らせてから続けた。
「実は、僕も記憶喪失らしいんだ。ただ、お前の場合と違って、すべてを忘れてしまっているわけじゃないんだよ。ここ一年間の出来事は詳細に思い返すことができるのだけれど、高校に入学する以前のことは全く思い出せない――いや、より正確にいうと、抽象的なこと、たとえば、父親がいた、母親は幼いころにこの世を去った、だから父親と二人暮らしだった、といったことは思い出せる。だけれども、具体的なこと、つまり、父親や母親の顔や名前、暮らしていた家の間取りとか、そういったことが一切思い出せないんだ。この状況を例えるなら、物事を色々知っているけれど、広く浅くしか知らない知ったかぶりの男が、その道の人に専門的なことについて突っ込まれたときに、答えに窮してしまうような……そんな状態なんだ」
ふうっ、と一つ大きく息を吐く。僕が話し終えたのを見計らって、ロゼがゆっくりと口を開いた。
「……なるほど。確かにそれはおかしいかも。もしかしたら、今の話を聞いて昨日のわたしはあなたが記憶を操作されたっていう結論に達したのかな……」
僕は大きく頷いた。
「そうだろうね。そのうえ、お前は僕が知らない僕自身のことを何か知っている様子だった。そのことについて昨日の時点でしっかりと訊いておくべきだった」
「なんで訊かなかったの?」
「まあ、昨日はこのこと以外にもあれこれあってね……盆と正月が一緒に来たようだったからすごく疲れていたんだ。それを察したお前が、この話はまた明日することにしよう、って言って、僕もその言葉に賛同しちゃったわけだけど……。こんなことになるなら、昨日のうちに漏れなく訊いておくんだった」
後悔先に立たずとは、今のような有様のことをいうのだろう。
「ごめんなさい。わたしがもったいぶらずにちゃんと話しておけば……」
「なんでお前が謝るんだよ。今のお前は何も憶えていないんだし。それに、昨日のお前だって僕の身を案じてくれたんだから、むしろ僕は嬉しいぐらいだよ。だから、負い目を感じる必要なんてない」
「……優しいんだね、ワタルは」
「そんなことないよ。僕も昨日から色々あっていっぱいいっぱいなんだ。だからあまりロゼのこと気にかけることができなくて悪いな」
「ううん。十分気にかけてもらっているよ。これ以上ないってくらいね」
「そうか」
ロゼがそう思っていてくれるなら、否定することもないか。優しさの価値というものは、自分ではなく相手が判断するものなのだから。
「ところでさ」
と言って、ロゼは部屋の天井を見上げた。
「わたしたちってどんな関係だったんだろうね」
関係、か。
「昨日のお前は僕らの関係性についていろいろ言っていたけれど、一言で表すなら所謂、幼馴染ってやつだろうな」
「幼馴染ねえ……」
その声音にはどこか物憂げな響きが含まれているように感じられた。表情もどこか沈んでいる。
「どうかしたか? なにかご不満でもあるのか」
「あー、いや、もしかしたらわたしとワタルはもっと深い関係なんじゃないかと思ってね……」
「深い関係? 親戚とかってことか?」
「いやいや。そういう方向の深い関係ではなくてさ」
「え、じゃあどういう意味だよ?」
「あー、もういいよ! なんでもない! 鈍い奴だな、ワタルは」
不貞腐れたようにそう言うと、ロゼは僕のベッドに潜り込んでしまった。
「おい、ロゼ。シャワー浴びなくて平気なのか? 身体冷えてるだろ。それに腹も減っているだろ。何か食べるか?」
反応はなし。どうやら完全に拗ねているらしい。
「なあ、ロゼ。僕はそこまで鈍い人間じゃない。お前の言いたいことがわからないわけないじゃないか。深い関係っていうのは、つまり、その……あれだろ? 恋人とかそういう……」
「ぷっ……ふふふっ」
布団の中から押し殺したような笑いが漏れ聞こえてくる。
「なに笑ってんだよ? 僕がお前と恋人関係じゃないのか訊きたかったんだろ? いい加減に答えろよ!」
痺れを切らして掛け布団を引き剥がした。ロゼは僕に背を向けて丸まっていた。
「わかった、わかった。答えるからさ。そんなにムキにならなくてもいいじゃない」
そう言うとロゼは上半身を起こしてこちらを向いた。笑い過ぎたからか、目尻には涙が溜まっている。
「じゃあ答えてもらおうか。お前の言う深い関係というのは彼氏彼女の関係のことだろう?」
ロゼは居住まいを正し、一つ咳をして僕の瞳をまっすぐに見つめた。
「違います」
「へ?」
「なにを勘違いしているのか分からないけれど、わたしは深い友人関係、つまりキミが親友に近い存在なのではないかと感じただけだよ。それを恋人だなんて……ぷぷぷっ」
それだけ言うと、ロゼはまた腹を抱えて笑い始めてしまった。
まったく。恋人関係だという結論に達してしまった自らの脳を痛めつけてやりたい気分だ。僕はロゼに対して恋愛感情なるものは一切抱いていない。昨日今日の二日間で僕が抱いた彼女に対する感情は妹に対するそれに近い。何年もかけて熟成されていった感情とでもいえばいいのだろうか。
だから僕はこう断言することができる。この目の前で笑い転げている少女とは昔からの友達であったと。彼女とともに過ごしたであろう日々を思い出したわけではないけれど、心の内から湧き出る安らかな、あたたかい気持ちが何よりの証明であり、彼女との関係がここ数日のものだけではないことを確信せしめている。この想いを今のロゼに伝えても、恐らくぽかんとされるだけだろう。昨日の彼女にこの想いを伝えることができればまた違っていたかもしれないけれど。
まあ何はともあれ、こうして無邪気に笑っている彼女を見ているだけで今は十分だ。これ以上できることもなし。
今日はもう寝て、これからのことはまた明日考えることにしよう。
「ねえ、ワタル」
ひとしきり笑い終えたのか、ロゼは目尻を指で拭うと訊ねてきた。
「なんだよ」
「そんなにわたしの恋人になりたいんだったら明日デートでもする?」
「はい……?」
「今のは肯定の返事と受け取っても大丈夫だよね。じゃあ明日はデートをしましょう」
「いや、ちょっと待て! 今のはそういう意味じゃなくてだな……」
「男に二言はない……でしょ?」
彼女の顔には、昨日のあの妖艶な笑みが戻っていた。
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