二日目(金曜日)その1
翌朝。
いつものようにテレビから聞こえてくるニュースキャスターの朝の挨拶で目を覚ました。
昨日、走り回ったのに加えて寝袋で寝たせいか、体じゅうの筋肉が痛み、立ち上がるのがやっとだった。
ベッドのほうに目をやると、ロゼはまだすやすや眠っている。柔らかそうな頬に触れると、「う、うん……」と呻き声を軽く洩らした。これ以上やると起きてしまう気がしたので、ローテーブルの上に置いてある携帯電話を取り、静かに居間兼寝室を出た。洗面台に向かい、目薬を差す。そして、朝の日課であるモーニングコールをするべく、怜に電話をかける。
驚くべきことに、ワンコールで繋がった。
「もしもし」
『おっはよー! 今日は良い天気だね!』
「お、おう……そうだな」
『なになにぃ? 元気ないよ!』
「お前が元気すぎるんだよ。しかし、僕より早く起きてるなんて初めてじゃないか? こりゃあ、総理大臣が交代するくらい珍しいことだな」
『そんなに珍しいことじゃなくない? 最近は一年持たずに代わってるじゃん』
「確かに……」
『本当に短い期間で首相が代わりすぎだよね! そんなにポンポン代わったら中長期的な政策を実行しにくくなるし……って、三ヵ月に一回くらいはあんたより早く起きてるわ!』
「はい、ノリツッコミ頂きましたー。うーん、七十点くらいですかね」
てか、年に四回だけかよ。少なすぎだわ。
『ば、バカにするな! もう絶対に早く起きてやらないからね! ワタルのバーカ、アホ、おたんこ――』
ギャーギャーうるさいので電源ボタンを押した。あとで色々言われるかもしれないが、バッテリーが無くなったとでも言っておこう。
居間に戻ると、ロゼはすでに起きていた。ベッドの上で胡座をかき、食い入るようにテレビを見ている。二十八インチの画面には、若い女性二人が、今話題のスイーツを食べに行くというロケの模様が映っている。二人とも背が高くスリムなので、おそらくモデルなのだろう。
「おはよう。もう起きてたのか」
僕が声を掛けると、ロゼはただ頷くだけで、テレビから目を離そうとしない。
「そんなに面白いか、それ?」
テレビ画面を指差すと、ロゼは首を横に振った。
「おいしいもの食べて、味の感想を述べるだけでお金が貰えるなんて随分楽な仕事だね」
「まあ、そう言ってやるな。彼女たちだって一所懸命頑張ってるんだから」
ロゼは首を傾げる。顔は相変わらずテレビに向けたままだ。
「ねえワタル。これって一応ニュース番組だよね? なんでこんなことやってるの?」
「いや、ニュース番組っていうよりは情報番組かな。ニュースだけじゃなくていろんなことをやってるよ。そうしないと視聴率が取れないからな」
「へえー。こっちではそうなんだ」
こっち? ロゼが住んでいる地域では朝はニュースしかやらないのかな。
「そんなことよりお腹空いた。なんか食べたい」
テレビから目を離し、眠たげな目を僕に向けてくる。
「食パンでいいか?」
「うん。いちごジャムたっぷりでお願い」
「了解」
冷蔵庫の上に置いてあるトースターで食パンを二枚焼き、いちごジャムを塗ってロゼに渡す。ちなみに僕はブルーベリージャムだ。ロゼは、ありがとう、と言って受け取るとこれまた一口で食べてしまった。
「もうちょっとゆっくり味わって食べろよ……汚らしいぞ」
僕が指摘すると、ロゼはうんざりしたような顔で反論した。
「あのさあ、味わい方は人それぞれなんだから好きに食べていいじゃん。第一、ちびちび食べるのが正しい食べ方だなんて誰が決めたの?」
「誰が決めたかなんて知らないけど、昔からよく言われてるだろ。早食いは体に良くないって」
「じゃあ遅食いは体に良いんだ?」
「……そうなるんじゃないか? ゆっくり噛んで食べることで、満腹中枢が刺激されてダイエットにも有効らしいし」
「ふーん。ダイエットが必ずしも体に良いことだとボクは思わないけどね。過度なダイエットはそれこそ体に良くないでしょ。それに、ボクが思うに女性は多少ふくよかな方が健康的で良いと思うんだけど。正直、彼女たちみたいのはあまり好かないな」
そう言ってテレビに顔を向ける。確かに少しばかし痩せすぎな気もする。
「まあ愚意を申し上げたまでだよ」
「確かにグルメリポーターにはふさわしくないかもな」
僕の言葉にロゼは肩をすくめた。
それから二人でしばらくぼーっとテレビを見た。僕が食パンを食べ終えると、ロゼが訊ねてきた。
「今日は学校があるんでしょ?」
「ああ、もちろん。明日は土曜日だから休みだけど。てか、お前も一応高校生なんだろ? 学校休んじゃって大丈夫なのかよ」
「それに関しては問題ないよ。授業を休むことにはなるけど、公欠扱いになるから成績には影響しないと思う」
「……なるほど」
気になる単語が出てきたけど追及するのはやめておこう。
うーん、どうしようか。ロゼを一人でこの家に置いておくのはなんか危ないよなあ。かといってロゼを学校に連れて行くわけにもいかないし。いっそ、学校をサボってしまおうか。一日くらい休んだって平気だろう。
そんな僕の考えを察したのか、ロゼは親が子供に諭すような口調で言った。
「ワタル。ボクのために学校を休む必要はないよ。一人で一日お留守番をするくらい犬や猫にだってできる。 それにボクはこう見えて掃除が大好きなんだ。キミが帰ってくるまでにこの部屋をピカピカにしてみせよう。もし掃除を終えてしまってもキミが帰ってこなかったら、のんびりテレビでも見てるよ」
「……そうか。お前がそう言うなら、僕は学校へ行くことにするよ」
「うん。そのほうがいい。学生は一に勉強、二に勉強だからね。ほら、早く制服に着替えて。もう八時を回ってるよ」
テレビの上の壁掛け時計を見ると、八時五分だった。僕は慌てて制服に着替え(なんとなく恥ずかしかったから廊下で)、鞄を持って靴を履き、ドアノブを回す。外へ出ようとしたとき、背後からドタドタと足音が聞こえた。振り返ると、ロゼがこちらに向かってきていた。見送りのつもりなのだろうか。
僕はロゼに言い忘れていたことがあったのを思い出した。
「あ、そうだ。昼飯は、冷蔵庫の一番下に冷凍食品があるから、レンジで温めて食べてくれ。量は少ないけど、そこは我慢してくれると助かる」
「わかった。ゆっくり噛んで食べることにするよ」
「おう、しっかり味わって食べるんだぞ。じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
ロゼが手を振ってきたので、僕も手を振り返してドアを閉め、鍵をかけた。
昨日よりは早く家を出たので走る必要はなかった。でも、のんびり歩いていたら遅刻をしてしまうので早歩きだ。
ふと空を見上げると、ベールのようなうす雲が一面に広がっていた。その雲の影響なのか、太陽のまわりには薄い輪ができている。これは「日かさ」といわれる現象で、低気圧の接近に伴って発生しやすくなるらしい。つまり、雨が近いことを知らせてくれる。飛行機雲ができたら雨が降りやすいとかと同じようなものだ。なので、その名に騙されずに雨傘を持っていかなくてはならない。そういえば、さっきテレビの天気予報で夜から雨が降り出す、と言っていたのを今頃になって思い出した。まあ日かさが出ているからといって必ず雨が降るわけではない。降らないことを願おう。
いつもより歩を早めたせいか、チャイムが鳴る十分前には正門を通過し、五分前には教室に着くことができた。ロゼがあそこで言ってくれなかったら本当に遅刻してしまうところだった。帰ったら感謝の言葉を伝えなくては。
怜はクラスメイトの女子と楽しそうに雑談中。本当に朝から元気なやつだ。それとは対照的に春人は机に突っ伏している。どうせ、また夜中まで小説のネタ探しでもしていたのだろう。二人とも僕が入ってきたことには気づいていない。春人はともかく、怜は気づいてもいいと思うんだけどな。それほどお喋りに夢中になっているのか。いや、あいつのことだからわざと気づかないふりをしているのかもしれない。
ぐるっとクラスを見回したが、渡瀬の姿を見つけることはできなかった。真面目そうだから必ず十分前には来ているイメージだったんだけど。少なくとも彼女が遅刻をしたことは一度もないはずだ。なぜなら、昨日初めてクラスメイトだと知ったのだから。もし遅刻をしてきたら、どれだけ影が薄い生徒でも印象に残るはずだ。
結局、渡瀬が来たのはチャイムが鳴ってから数分後、アキ先生が入ってくるのと同時だった。
「ご、ごめんなさいっ!」と、アキ先生が入ってくるや否や大声で謝ってきたものだから、渡瀬が入ってきたことに気がづいたのは僕ぐらいだったと思う。渡瀬は静かに席に着いた。顔は無表情だったが、相当急いで来たのだろう、肩で息をしていた。
深呼吸を何度かして落ち着くと、僕の視線に気づいたのかその長い睫毛を備えた目をこちらに向けた。僕はなぜか目を逸らすことができなかったので、ぎこちなく笑いながら会釈をする。それに対して彼女はにこりともせず軽く頭を下げて、アキ先生のほうに視線を移してしまった。
どうやらまだまだ彼女との距離は縮まっていないようだ。昨日の一連の出来事で多少は仲良くなれたと思っていたのだけれど。
あれこれと考えているうちにホームルームが終わり、アキ先生が教室から出ていった。先生がいなくなった途端にクラスがざわつき始め、怜はまだ話し足りないのか、さっきの女の子のもとへ駆けていく。春人はまだ熟睡中。どんだけ眠いんだよ。
僕は取り立てて誰かと話すこともなかったので、ぼーっと窓の外の景色を眺めることにする。空には相変わらず薄い雲が広がっていたが、雨雲はまだ見られない。このまま、終日この調子だと嬉しいんだけど。雨さんよ、降ってくれるなよ。
曇り空に向かって心の中で祈りを捧げていると、声を掛けられた。
「お、おはよう」
「ん? おはよう…………ってえええ!?」
「ちょ、ちょっと。さすがに驚きすぎだよ……」
「あ、ああ、ご、ごめん。おはよう……渡瀬」
「う、うん。お、おはよう」
僕がこれほど驚いてしまったのも無理はない。まさか、渡瀬から声をかけられるとは。彼女は自分から挨拶をしてきたというのに、恥ずかしがって俯いてしまっている。しょうがないので僕から問いかける。
「どうしたの? なにか僕に用でもあるの?」
「え……う、うん」
そこで一度言葉を切り、胸に手を当てて、ふうと息を吐き出す。それから、すうっと息を吸って言った。
「あ、あのね、昨日あれから何か変わったことあった?」
「えっと……特にはなかったよ」
実際は、かなり大変なことがあったけど。でも、渡瀬に言ったところで信じてもらえるわけがないしな。
「本当に何もなかった?」
渡瀬は語気を強めて訊いてくる。
「うん。あの後、公園に鞄を取りに行って、コンビニで弁当を買って帰っただけだよ」
「……そう」
とだけ言って、彼女はまた俯いてしまった。
「なんでそんなに気になるんだ……もしかして昨日何かあったのか?」
渡瀬はぶんぶん首を振った。
「ううん。見境くんが帰った後、私はずっと家にいたから。でも、その……あなたはたぶん、鞄を取りに公園に行ったでしょ? だから、あの人たちに会ったりしてないかなって思って……」
ああ、そういうことか。ということは、つまり――
「僕の身を心配してくれたってこと?」
彼女はこくりと頷いた。顔が真っ赤になっている。
「あ、ありがとう……」
「うん……」
……なんだ、このむず痒い空気は。でも昨日の気まずい空気と違って、話さなくても苦しくなったりはしない。むしろこの沈黙が心地良く、どこか懐かしささえ憶える。
僕らはしばらく黙ったままもじもじしていたが、やがて渡瀬が口を開いた。
「そ、それじゃ。私は席に戻るから……」
「お、おう……」
僕が答えると、彼女は胸のあたりで小さく右手を振って去っていった。
渡瀬が自分の席に戻ったのと入れ替わりで怜が自分の席に戻ってきた。
「なにニヤニヤしてんのよ」
「え、そんな顔してたか僕?」
「してたわよ。この変態」
「だから僕は変態じゃないって言ってるだろ!」
「なんで変態というワードにそんなに敏感なのよ……」
「じゃあお前は変態呼ばわりされて喜ぶのかよ!」
「喜ぶわけないでしょ! 喜んだらそれこそ変態じゃない!」
「それなら、自分が言われて嫌なことを他人に言うな!」
「……すいません」
「わかればいいんだよ…………この変態」
「ちょ!? ふざけんな!」
怜が僕に飛び掛かろうとしたところでチャイムが鳴り、数学教師が教室に入ってきた。。
「後で覚えてなさいよ!」
怜はそう捨て台詞を吐いて自分の席に戻る。戻るといっても僕のすぐ後ろなのであまり動くことはないが。
ありがとう、チャイムさん。あなたのおかげで僕の寿命が五十分ほど延びそうです。
一時間目の授業中、僕は昨晩ロゼが話していた二つの推論について思いを巡らせていた。
一つ目は、中学卒業から高校入学までの間――つまり春休み――に、記憶喪失を起こさせるような出来事が僕の身に起こったというものだ。
これに関しては同意できる。なぜなら、高校入学以前の記憶が非常に曖昧なのに対して、入学直後から今までのことは鮮明に憶えているからだ。よって、記憶の有無の境目である春休みに何かがあったという考えに至ることは、当然といえば当然だ。さらに、残念ながら、その春休みのことを僕はまったく憶えていない。
このように、一つ目の推論は納得できるだけの根拠がある。だが問題は二つ目の推論だ。
昨晩ロゼはこう言った。
『キミは、誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ』
この話を初めて聞かされた時にはあまりの突飛な考えに動揺し、そんなことはできるはずがない、ありえないと思っていた。が、一晩経った今、冷静に考えてみると、考えられない話でもないような気がしてきた。
一般的に考えられている記憶喪失というものは、文字通り「記憶」を「喪失」することである。ある時点から遡っての記憶が引き出せなくなってしまう。症状が重い場合には、よくドラマなどで使われる、「ここはどこ? わたしは誰?」状態に陥る。
初めは僕もこのような記憶喪失になってしまったのだろうと思っていた。しかしながらよく考えてみると、僕の場合はただの記憶喪失ではない。
もしそうであるならば、僕は過去のことを何も思い出すことができないはずだ。しかし、僕は記憶を失っているわけではない。
「父親と一緒に暮らしていた」、「母親は僕が幼いころに亡くなった」といった情報は確かに頭の中に残っているのだ。だが昨日のように、その記憶に対して深く追及されると答えられなくなってしまう。
例えば、テレビを見ていて、画面上部に「連続殺人鬼、現行犯逮捕」とニュース速報が流れたとする。その時点で僕がその事件について何も知らないとしたら、ただある殺人事件の犯人が逮捕されたという情報だけが記憶として残る。
だから、その犯人がどこで、何人殺したか、凶器は何か、などという突っ込んだ質問をされても答えられるわけがない。
こう考えると、ロゼの「偽の記憶を植え付けられた」という説が現実味を帯びてくる。何者かが、僕が本来持っていた記憶を消去して、まったく違う偽の記憶に書き換えた。――そう考えれば、僕の高校入学以前の記憶が非常に薄っぺらいことの説明がつく。
しかし、いったい誰がそんなことをしたのだろうか? 何のために。
そもそも他人の記憶を書き換えるなんて離れ業をすることができる人間などいるのだろうか。到底信じられる話ではないが、ロゼはやけに自信があるようだった。もしいるとしたら、その人物は僕の知り合いだろうか? それとも記憶を操作することのできる通り魔の仕業だろうか? 後者だとしたら、僕は相当運の悪いやつだな。
それにロゼは、何やら僕の過去に関する秘密を知っているらしい。それもあの子の第二の推論の根拠になっているのかもしれない。
もう何が何だかさっぱりわからない。とにかく早く家に帰ってロゼに話を聞きたい。
いっそのこと、昼休みに早退してしまおうか? そうだ、そうしよう。体調が悪いとか言って帰らせてもらおう。アキ先生だったらこんな嘘も平気で信じるだろう。多少心が痛むが、そんなことを気にしている場合ではない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が教室から出ていくと、クラスメイトたちはそれぞれの鞄から弁当箱を取り出す。仲の良い友達のもとへ向かうやつもいれば、一人で黙々と食べ始めているやつもいる。弁当を親に作ってもらえなかった哀れなやつらは、購買へと向かう。
帰り支度を終えた僕は、後ろの怜に声を掛けた。
「すまん。ちょっと体調が悪いから早退するわ。アキ先生にそう言っておいてもらえるか?」
鞄から弁当を取り出した怜は首を傾げる。
「まあ、別に構わないけど。それより大丈夫なの? 保健室行かなくて平気?」
心配そうに顔を覗きこんでくる怜。僕は思わず後ずさる。
「あ、ああ。家で寝てれば治ると思う。じゃあアキ先生への伝言頼んだぞ」
「ち、ちょっと航!」
怜の静止の声を無視して、僕は教室を飛び出した。
家に帰ってきた僕は、ドアを開け、靴を脱ぎながらロゼに問い掛けた。
「おーい、ロゼ? いるかー?」
しかし反応は無い。あれ、いないのか?
仕切りのカーテンは開いたままだった。廊下を抜けて洋室に入る。もしかしたら昼寝をしているのかも。ちょうど眠くなる時間帯だし。
だが、ロゼの姿はなかった。一応、バスルームやトイレ、クローゼットの中まで探してみたが徒労に終わった。
一通り探し終えて洋室に戻ってくると、ローテーブルの上に一枚の紙きれがあることに気がついた。手に取って確認してみると、そこには達筆な字でこう書かれていた。
少し町の様子が気になるから出かけてくるよ
ロゼ
たったこれだけだった。具体的にどこに行くとか、何時ごろ帰ってくるとかそういう類のものは一切書かれていない。一応、裏も確認してみたが何も書かれてはいなかった。
「町の様子が気になる」とはどういった意味なのだろう。まったく意味が分からない。
単純に遊びに行ったと考えればいいのだろうか。だとしたら、今ごろ何をしているのか? 雨に濡れていなければいいんだけど。
まあちょっと遊びに行っただけだろう。そのうち帰ってくるか。
僕は、ロゼからの伝言用紙をズボンのポケットに突っ込み、テレビのスイッチを入れた。
そして。
時間は流れていき、ふと時計を見上げると時刻は午後五時にさしかかるところだった。ロゼはまだ帰ってきていない。窓の外に目を向けると、すでに雨が降り出していた。
これはさすがにおかしい。こんな時間までロゼは一体何をしているというのだろうか。もしかしたら、この雨のせいで帰るに帰れなくなっているのかもしれない。
そう思い至った僕はロゼを探しに行くために家を出た。
ひとまず、家の周辺を探してみる。だが成果はなし。
今度は少し足を延ばして駅前まで行ってみる。だが成果はなし。
まさか電車に乗って遠くに行ってしまったのかとも考えたが、ロゼはお金を持っていないはずなので、電車に乗ることはできない。
その後も駅周辺を隈なく探し歩いてみたが、結局ロゼを見つけることはできなかった。
雨足はさらに強さを増していた。「バケツをひっくり返したような雨」とはまさに今のような状態を指すのだろう。途方に暮れて自分のマンションに戻るころには、スニーカーの中にまで水が入り込んでいた。
帰ったらスニーカーに新聞紙を突っ込もう、と階段を上りながら考えているうちに二階にたどり着いた。キュッ、キュッという自分の足音を聞きながら部屋に向かう。
その時の僕は、びしょ濡れになったスニーカーを見ながら歩いていたので、自分の部屋の前にずぶ濡れの黒い物体があることに直前まで気づかなかった。
そう、これは昨日と同じ状況だ。しかし全く同じではない。僕はこの物体の正体が何であるかを知っている。ローブの色が、焦げ茶色ではなく黒色に近いのは雨に濡れているからだろう。
だから僕は驚くことなく、ロゼに優しく声をかけた。
「こんなとこで何やってるんだよ。風邪引くぞ。ていうか、今までどこ行ってたんだよ? 探したんだからな」
僕の問いかけに、ロゼは一切答えない。それどころか、顔を上げようともしない。むっとした僕は、ロゼの濡れた肩を持って揺さぶった。
「おい、寝てるのか? なあ、返事しろよ。おい――」
再びの問いかけにもロゼは答えなかったが、肩が震えていることは分かった。雨に濡れて寒いのだろうか。
とにかく一度部屋に入ろう。そう思い、ポケットから鍵を取り出す為に、ロゼの肩から手を離す。すると、ロゼは埋めていた顔をゆっくりと上げた。そして徐々にその目線を上げていく。僕はロゼがこちらを向いたときにもう一度事情を訊こうと考えていたが、結局訊かなかった。いや、訊けなかった。それどころか、声を発することさえできなかった。
なぜなら、僕を見ているロゼの瞳がとても怯えていたからだ。まるで、赤ちゃんが見知らぬ人に声をかけられたときのような目をしていた。昨日ここで会ったときとは一八〇度違う。昨日のロゼはむしろ威嚇するような挑戦的な瞳をしていた。
なぜ? どうしてこんなに泣きそうな顔をしているんだ? もしかしてこれは演技で僕を驚かせようとしているのか?
訳がわからないまま、あたふたしていると、ロゼは怯えた瞳のまま僕をじっと見据え、やがて震えた声でこう言った。
「わたしは……だれ?」
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