一日目(木曜日)その4

鞄を取りに行く前に、一度自宅に戻った。

 冷蔵庫の中身を確認してみると、やはり空っぽだった。

 僕は、現代の男子高校生としては珍しく、できる限り自炊することを心がけている。まあ所謂、「自炊男子」ってやつだ。昨日、すでに食料が尽きることには気づいていたので、学校の帰りにスーパーに寄ろうと考えていた。

 が、いろんなことがあったせいですっかり忘れていた。近所のスーパーは午後八時には閉まってしまうので、今から食材を買いに行くことは不可能。もし、まだ買いに行けたとしても、もう料理を作る体力、気力ともにゼロ。仕方ない、自炊男子としての名に傷をつけることになるけれど、今日はコンビニ弁当で我慢するか。

 申し訳程度の星ときれいな三日月に遥か彼方から見守られながら、自転車を漕いでいく。

 唐突で申し訳ないが、僕は自転車に乗ることが大好きだ。

 なんといっても、風を全身に受けながら進むときの爽快感と歩行者を追い抜くときの優越感がたまらない。この気分を登下校時にも味わいたいのだけれど、誠に残念ながらうちの高校は自転車通学が禁止となっている。昔は自転車で通ってもよかったらしいのだが、自転車で登校する生徒のマナーが悪いと、近隣住民から苦情があったとかなんとかで当時の校長が禁止として以来、その規則が続いている。

 しかし、マナーが悪いとは具体的にどういったものだったのだろう。

 手放し運転とか? 子どもじゃあるまいし……いや、まだ子どもか。

 そんなわけで、登下校の際に自転車が使えないため、ふいに夜自転車に乗りたい衝動に駆られてサイクリングに出かけたりもしている。だからこれも日課の一つといえる。

 だが、今日はいつものサイクリングと違う。なぜなら、目的地が決まっているからだ。いつもはただフラフラと走って満足したら帰る、という調子だから、今回はちょっと嬉しい。何事も目的を持ってやらないと楽しくない。

 五分ほどペダルを漕ぐと、第一の目的地である豊丘公園に着いた。少しばかり後ろめたい思いを抱きつつ、自転車に乗ったまま公園を横切った。そして、向かい側の出入口――僕がヤンキーたちに襲われている渡瀬を見つけた――に行くと、入り口近くの植木に挟まっている鞄を発見した。

 よかった、と思わず言葉が洩れてしまう。

 正直、ヤンキーたちに持っていかれているか、ズタズタにされているだろうなと覚悟していたので、無傷の状態で手元に帰ってきたのが驚きだった。あいつらも相当頭に血が上っていただろうから、鞄などどうでもよかったのかな。それともただ気づかなかっただけかも。何はともあれ、無事でよかった。鞄を前かごに入れ、また自転車を走らせる。

 第二の目的地はコンビニエンスストア。場所は鞄を見つけたこの位置から学校とは反対方向に進んだところにある。

 わかりやすくいうと、学校とコンビニのちょうど中間に豊丘公園が位置している。

 道なりに進み、コンビニには二、三分ほどで到着した。駐輪場に自転車を停め、店内に入る。まっすぐ惣菜コーナーに向かい、弁当を選ぶ。あまり考えずに、なんとなく目についた牛焼肉弁当を手にレジへ。

 店内には店員が一人しかおらず、レジを担当していた。

 まあ、その店員っていうのが……。

「いらっしゃいませ、お待たせしました」

「すいません。あと、肉まんを一つ」

「かしこまりました。ご一緒にジューシー肉まんはいかがですか?」「いえ、結構です」

「では、ご一緒にジューシーアツアツ唐揚げはいかがですか?」「結構です」

「では、ご一緒にチキンマックナゲットはいかがですか?」

「じゃあ、それひとつ下さい」

「誠に申し訳ございません、お客様。そちらはマクドナルドの商品ですので当店では販売しておりません」

「お前が薦めてきたんだろ!」

「そんなに全力で突っ込まなくたっていいじゃない……」

「ごめん、怜。つい、いつもの癖で」

「まあいいわ。はい、これサービス」

 そう言うと、怜はアメリカンドッグを一つレジ袋に入れた。

「おいおい、勝手にそんなことやって大丈夫なのかよ」

「平気平気。一本くらいちょろまかしたってバレやしないわよ」

「そ、そうか……じゃあもらっとくよ。ありがとな」

「いえいえ。お客様にはいつも当店をご贔屓にしていただいているので、日ごろの感謝の気持ちをこのホットスナックに込めさせていただきました」

「はいはい」

 怜はこのコンビニで週三日働いているらしい。高校入学時に始めたらしく、もう一年近くになる。元々、人と話すのが好きなやつだし人当たりもいいので、怜にはもってこいのバイトだ。実は何度か、ここで働かないかとお誘いを受けているのだけれど、僕は人と話すのが得意なほうではないので断っている。

 でも、なぜ怜はバイトなんかやっているのだろうか。あまり経済的に苦労しているようには見えないのだけれど。なにか欲しいものでもあるのだろうか。女子はいろいろお金がかかるっていうしな。

 無駄話もほどほどに会計を済ませて帰ろうとすると、怜が呼び止めてきた。

「ねえ航。あんた、ここまでどうやって来たの」

「え? 自転車だけど」

「なら外で待っててくれない? もうすぐバイト終わるから」

「ああ、べつにいいけど。何か用か?」

「ちょっとね……それは後で」

「わかった。それじゃ」

 従業員用入口の近くのベンチに座ってしばらく待っていると、ほどなくして怜が出てきた。学校帰りにそのままバイト先に来たからなのか、制服姿だ。

「お待たせー」

「お疲れ。いつもこんな遅くまでやってるのか」

「遅いってまだ十時じゃん。なに? あたしのことが心配なわけ?」

 鼻先がくっつくほど顔を近づけながら問いかけてくる。

「そういうわけじゃないよ。ただ、お前の両親は心配するだろ。仮にも女の子なんだから」

「仮にも、とはなんだ! あたしは歴とした女の子だぞ!」

 そう高らかに宣言して平板な胸を張る。その態度に僕は思わず苦笑した。

「お父さんとかお母さんになにか言われたりしないのか?」

「なんにも。それに、二人ともまだ帰ってきてないと思う。いつも帰ってくるの十一時くらいだから」

「随分とまた忙しいんだな。それだと、あまり家族と会話する機会もないんじゃないか?」

 怜は小さく頷いた。

「しかも、あたしが起きる前には出かけちゃうから平日はほとんど話さない。土日だって、なんか部屋に籠もって仕事してるし。会話なんて全然しないよ」

 努めて明るく話す怜の表情からは、どこか寂寥感めいたものが滲み出ていた。

「そうだったのか……」

 悪いこと訊いてしまったな……。さっき人のプライベートには深く関わらないようにしようって決めたのに。怜を傷つけてしまったかもしれない。

「なーに、しょぼくれちゃってんのよ」

 落ち込む僕を見て、彼女はバシバシ背中を叩いてきた。

「あたしのことを可哀想だなあ、みじめだなあ、とか思ってるわけ? もし、そう思ってるなら、そんな哀れなあたしのお願いを聞いてくれない?」

「そ、そんな風には思ってないけど……。お願いって?」

「ふっふっふ……あれよ!」

 びしっと自分で効果音をつけながら指差した先には――僕の愛用のママチャリがあった。

「あたしを家まで送りなさい」


 女の子を後ろに乗せて自転車を漕ぐ、などという素敵イベントは僕には一生縁のないものだろうと悲観していた。しかしながら、まさかこのようなかたちで青少年の夢の一つである女子との二人乗りが実現しようとは。

 状況を説明すると、ペダルを漕いでいるのはもちろん僕で、怜は荷台に横向きに座り手を僕の腰に回している。

 この乗り方は通称「耳すま乗り」といわれるものだ。名付け親は僕であるが。

 意外にもペダルを漕ぐ力は、一人で乗っているときとあまり変わらなかった。女子の身体は男が想像しているよりもずっと軽いだなんて迷信だと思っていたが、実際に体験してみると、さもありなんといったかんじだ。

 コンビニから怜の家まではさほど遠くなかったのですぐに到着した。怜の家も春人の家と同じく一戸建て住宅だったが、コンクリートの打ちっぱなしなので、僕は彼女の家を訪れる度にどこか無機質な印象を受ける。

 ありがと、と言いながら荷台から降りる怜。

 僕はどうしても彼女に訊いておきたいことがあった。

「なあ、怜」

「うん? なに」

「どうしてバイトをやってるんだ? お金にそこまで困ってるわけじゃないだろ」

「まあね」

「なにか欲しいものがあるからやってるとか?」

「それもあるけど、それがメインの理由じゃない」

「じゃあなんで?」

 僕が再度問うと、怜は木の温もりを一切感じられない混凝土の城を見上げながら答えた。

「居場所が欲しかったんだよね」

「居場所?」

 僕が首を傾げていると、怜はふっと一つ笑った。

「うん。さっきも言ったけどさ、両親が帰ってくるのは夜中だから、学校から帰ってきても一人なわけ。小さい頃は別になんとも思ってなかったんだけど、ある日ふと気づいたんだ。あたしの居場所ってどこだろう? って。もちろん、この家があるし自分の部屋もあるから、物理的な居場所はあったんだけどね。こうなんていうのかな……ここに居てもいい理由みたいなものがないなって。そんなの家族だから居ていいに決まってるだろ、って思うかもしれないけど、いつも一人だったからそういうものが実感できなくてさ。それで高校一年の春に、たまたまあのコンビニに立ち寄ったら『バイト募集』って書かれてる紙を見かけて、そのときに、はっと思いついたんだ」

 僕は怜が次に言う言葉がわかった。

「居場所がないなら新しく自分で居場所を開拓すればいい……」

「そう。それであそこで働きだしたの。初めてのバイトだから勝手がわからなくて最初のうちは大変だったんだけど、店長さんや先輩たちが優しく丁寧に教えてくれたおかげで、仕事はすぐに覚えられた。そうしたら、働いていくうちにどんどん楽しくなってきちゃって……。あたしはここに居ていいんだ、って思えるようになったの。言葉じゃ言い表しづらいんだけど、こんなかんじかな」

「なるほどな……」

「なに考え込んでんの? あ、もしかしてあたしと一緒にバイトしたくなってきちゃった?」

 顔を寄せてくる怜。

「いや、それは遠慮しておく。接客は苦手だし」

 丁重にお断りすると、怜は頬を膨らませた。

「なんだよお。でも気が変わったら教えてね。いつでも大歓迎だから!」

「気が変わったらな」

「うん!」

 大きく頷く怜の顔には、満面の笑みが広がっていた。

「じゃあそろそろ帰るよ。もう夜遅いし」

「そうだね。じゃあまた明日」

「また明日」

 怜がコンクリートの塊の中に消えていくのを見届けてから、僕はサドルに跨った。


 家までの帰り道。僕は先ほどの怜との会話を反芻していた。

 まさかバイトをしている理由があれほどしっかりしたものだとは思わなかった。正直、

小遣い稼ぎが目的だろうと予想していたから、少しあいつのことを見直した。

 怜は、「新しい居場所を見つけるためにバイトを始めた」と言っていた。

 もちろんそれも理由の一つ――彼女が嘘をついていなければ――なのだろう。

 しかし彼女と話しているうちに、それよりももっと大きな理由があることに気がづいた。

 きっとあいつは寂しかったのだ。無意識のうちに人を求めていたのだ。一人で多くの時間を過ごすということに耐えられなかったのだろう。多くの人は、一人の時間が長ければ長いほど、人恋しさも増すものだ。あいつも、そのように感じる一人だったのだろう。もちろん僕も。部活にでも入ればまた違っていたのかもしれないが、怜はどの部にも所属していなかった。気に入った部活がなかったのだという。

 コンビニでのバイトは、人と話せるという点においては非常に有益なものだ。一日に数十人もの人々と会話をすることができる。それは僕みたいな、家でぼんやりテレビを見ているようなやつには決して経験できないものだ。

 僕にも怜の一人ぼっちの寂しい気持ちをよく理解できる。やっぱり一人は寂しい。僕の場合は帰ってくる両親もいないので、その思いは一層大きい。

「一人暮らしは親の監視の目もないからやりたい放題だろ」と春人に羨ましがられているけれど、実際はそんなに楽しいものではない。

 頼れる相手がいないということは、すべてを一人で抱え込まなければいけないということになる。

 相談できる相手がいないということは、すべてを一人で解決しなければいけないということになる。

 だから、春人や怜が羨ましい。僕は「家庭」というものを経験したことがないので、それがどういうものなのか具体的にはよくわからないのだけれど、自分が困ったときには相談に乗ってくれるだろうし、力になってくれるだろう。

 このようなことは親しい友だちでもよいのかもしれない。

 しかし、どれだけ仲が良くても他人なのだ。血の繋がりはない。たとえ、普段ほとんど会話をしない怜の両親でさえ、もし娘が学校でいじめを受けていたら、それを阻止するために全力を尽くすだろう。

 家族とは、親とは、そういうものだと思う。そうであってほしい。

 まあ結局のところ、僕はただの寂しがり屋なのかもしれない。一人暮らしを始めて約二年経つが、寂しさを感じなかった日は一日たりともない。たまに、まるで世界から切り離されたような孤独感に苛まれることさえある。

 小学生や中学生のときには、いつも家族がいたのでそのようなことを感じたことは――

 ってあれ? 僕、ここに引っ越してくる以前はどうしてたっけ? なんていう中学校に通っていたんだ? 小学校は? 幼稚園は?

 ……あ、そうだ。中学三年になったとき、父親が海外へ転勤することになり、それを機にここへ引っ越してきたんだった。ということはそれ以前は父親と二人暮らしだったのか。

 ったく、自分の過去を類推しなくてはならないとは。人間の記憶力ってやつはまったくあてにならないな。

 そんな記憶力のなさを嘆き悲しみながら歩いていると、もうマンションの目の前まで来ていた。駐輪場に自転車を停めて、階段を上がり、二階へ向かう。

 このときの僕は、朝から女の子とぶつかったり、ヤンキーに追いかけられたり、女の子の部屋に行ったり、女の子と二人乗りをしたりと生まれて初めての経験をたくさんしたおかげで心も体もくたくたになり、眠気が限界にきていた。

 そのため、初めは自分の部屋のドアの前に段ボールが置いてあるのかと思った。

 あれ、通販でなにか頼んだっけ? それとも父親からの贈り物? はたまた捨て猫?

 しかしだんだん近づいていくにつれて、それが段ボールではないことに気づいた。というか全然違った。

 それは、人だったのだ。焦げ茶色のローブをまとった人らしきものがドアの前で体育座りをしている。フードをすっぽりかぶって俯いているので顔はよく見えないが、体型からして中学生、下手したら小学生かもしれない。かすかに寝息が聞こえる。

 どうしてこんなところで寝ているんだ? なんでよりによって僕の部屋の前に?

 お母さんと喧嘩でもして家を追い出されたのかな。でも、そうだとして、なぜ僕のところなんだ。第一、このマンションは一人暮らし用だ。家出をした人間がわざわざこんなところに来るだろうか。

 もしかしたら、このマンションにこの子の知り合いが住んでいてそこに逃げ込もうとしたのかもしれない。それで、部屋番号を間違えて僕の部屋の前に来てしまったのかも。

 兎にも角にもこの子に事情を訊いてみないと。

 そう思い、その人間の肩のあたりを叩こうと手を伸ばすと、急にむくっと顔を上げた。 僕は驚いて後ずさる。

 その顔つきは、非常に幼く、性別の判別が難しいものであった。まだ眠たいのか、ローブの袖で目をごしごしこすっている。やがて僕の存在に気づいたのか、ゆっくりと目線を上げていく。そして僕と目が合うと、その容姿からは想像できないような妖艶な笑みをこぼしながらこう言った。

「来ちゃった」


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