一日目(木曜日)その5
これは厄介なことになった。
どうやら、この小さな子は僕を知り合いの誰かと勘違いしているようだ。
どうしよう。もうこんな時間だし、ここで、「僕は君のことなんて知らない」なんて言ったらこの子は夜の町を彷徨うことになっちゃうよな……。
しょうがない。ここは話を合わせよう。と思っていると、話しかけられた。
「久しぶりだね」
「……え? あ、ああ、そうだね……はは」
「ボクのことおぼえてる?」
「も、もちろん! そ、それにしても前に会った時よりずいぶん大きくなったね」
ボク? あれ、その体つきから、どちらかというと女の子だと思っていたのだけれど、もしかして男の子なのか。
「そ、そうかなあ。あんまり実感はわかないんだけど……もみもみ」
「いやいや、そこじゃなくて! 身長が高くなったってこと!」
「ああ……なあんだ。胸のことかと思ったよ」
胸の大きさを気にするってことはやっぱり女の子なのか?
「ところで、……えーっと、なんて……」
「もしかしてボクの名前忘れちゃった?」
「……ごめん。久しぶりすぎて」
「ふうん。まあ人間は忘れっぽい生き物だからね」
苦しい言い訳だったが、どうやら納得してもらえたようだった。
「はい、これがボクの名前」
そう言って、ぐいっと自らの右肩を近づけてくる。そこには赤い糸で「ROZE」と横書きに刺繍が施されていた。
「ああ、思い出した! ローズだ」
「違うよ。ロゼだよ。ローズだったら〟Z〝じゃなくて〟S〝でしょ」
「あ……」
しまった! 大事なところでミスを犯してしまった。怒られるか、泣き出すかと思い身構えたが、このロゼという名の少女(?)は柔らかく笑っただけだった。
「まったく……本当、外国語に弱いなあ、ワタルは。ねえ、もう寒いから中に入ろうよ」
「そうだな。早く入ろう…………って、え?」
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもない。ほら、入って」
僕の反応に首を傾げながらも、ロゼはドアノブに手をかける。当然のようにドアノブは回らない。僕は慌ててポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差して回す。そのままドアを開けてもよかったのだけれど、なんとなくそれをするのは憚られたのでドアを開ける役目はロゼに譲った。
「お邪魔しまーす」
勢いよくドアを開いたロゼの後に続き、後ろ手でドアを閉める。
腑に落ちないことが一つ。
たぶん、いや確実にロゼは僕の名を口にした。どうしてこいつが僕の名前を知っているのだろう。本当に僕の知り合いなのか? だとしたらこの子は、僕とは一体どういった間柄なんだ?
僕の部屋は、渡瀬の部屋の造りとほとんど同じで(同タイプのマンションに住んでいるから当たり前なのだが)、入ってすぐに短い廊下が続いており、カーテンで仕切られた先に洋室がある。ロゼは興味津々といった様子で左手にある浴室やトイレ、右手の流し台などをひと通り見てから、
「意外ときれいにしているんだね。もっと汚いかと思ってたよ」
と、ニヤつきながら褒めてきた。室内に入ったからなのか、フードを脱いでおり、きめ細やかな赤褐色の髪が露わになっている。髪型は少し長めのボブカットだ。さらに、外にいたときはわからなかったが、グリーンに少しグレーを混ぜたような瞳の色をしている。僕は赤毛の人はみんな碧眼だろうと勝手に思っていたのでこれは意外だった。
髪の色と眼の色から察するに、おそらく日本人ではないのだろう。しかしこれだけ流暢な日本語を話すということは、ハーフなのかもしれない。
「きれいで悪かったな」
少しむっとしながらも言い返すと、ロゼは小首を傾げた。
「ワタルはあまり片付けるのが得意じゃなかった気がするんだけどな。こっちに来るとそういうのも変化するんだ……」
「え、なんのこと?」
「ううん、なんでもない。それより奥に行ってもいいかな? 立ち話もなんだからさ」
確かにそうだ。こんな狭いところで話していてもしょうがない。僕は一つ頷くと、仕切りの役割をしているカーテンを開けた。
「どうぞ。適当に座って」
はあい、とロゼは言い、僕のわきを通過して円卓の前に腰を下ろす。
僕は食器棚からコップを二つ取り出し麦茶を注いで部屋に運ぶと、ロゼの向かいに座った。
「はい、麦茶」
「ありがと」
ロゼは麦茶を受け取ると一口で飲み干してしまった。それからぐるりと部屋を見回して一言。
「本当にきれいだなあ。ゴミ一つ落ちてないね」
ロゼは部屋の奇麗さにいささか感銘を受けているようだ。僕は心もち胸を張って言った。
「まあ狭いからね。掃除が楽なんだよ」
「実は、彼女がときどき掃除しに来てるとか?」
「だったらいいんだけどね。残念ながら自分で掃除してます」
「本当かなあ」
ロゼは疑いの目を僕に向けてくる。
「本当だよ」
「ど忘れしてるんじゃないの? ボクの名前も忘れてたし」
「いないもんはいない! これ以上は空しくなるからやめてくれ……」
「ごめん、ごめん」
謝罪の言葉を口にしてはいるが、顔が笑っていたので全く謝られている気がしなかった。
なんか調子狂うなあ。顔は幼いのに言葉遣いや仕草が年不相応なんだよな。そのせいで
会話の主導権を握られてしまっている。
よし、今度はこっちから質問してやろう。そしたら僕のペースで話を進められるはずだ。まずは一番気になっていることを訊こう。
「ねえ、ロゼ。なんで僕のとこに来たの?」
「お腹すいた」
「は?」
「お腹すいたって言ったの。こっちに来てからまだ何も食べてないんだよね」
そう言いながら胃のあたりを押さえている。今にも腹の音が鳴りそうだ。
「そうなんだ……じゃなくて、僕の質問に答えてよ!」
「食べもの、食べもの…………あっ! あれなに?」
ロゼは鞄の上のコンビニ袋を指差した。
「ん? あれは弁当だよ。さっきコンビニで買ってきたんだ」
「弁当!?」
ロゼの灰緑色の瞳が輝いた。
しまった! と思ったときにはすでにコンビニ弁当はロゼの手に。
「いっただっきまーす」
ちょっと待て! という制止の言葉も聞かず、むしゃこら食べ始めてしまった。
僕はしかたなく怜からもらったアメリカンドックを頬張った。だいぶ時間が経っていたので冷たく、生地はしなしなであまりおいしくない。これではホットスナックというよりクールスナックだ。
弁当もすっかり冷えていているはずなのに、ロゼは「おいしい!」と感嘆の声を洩らしながらどんどん口に運んでいく。そして、三分も経たないうちに完食してしまった。しまいには麦茶のおかわりを要求してくる始末。麦茶に砂糖でも入れてやろうかと思ったが、さすがに可哀想なので代わりに塩をひとつまみ入れた。
コップを渡すと、さっきと同じように一気に飲み干した。味の違いには気づいていないようだ。くそったれ。ロゼはコップをテーブルに置くと、言った。
「で、さっきはなんて言ったの?」
「ああ、そうだった。えっと、どうしてここに来たんだ?」
「……知りたい?」
「知りたいから質問してるんだろ」
「それもそうだね。実は、ある噂を調べるために来たんだ」
「うわさ?」
「うん。その噂の真偽を確かめるためにボクはここまでやってきたというわけ。調査員といったところかな」
まったく言っている意味がわからない。
「へえ……。で、その噂っていうのはなんなの?」
「それは秘密。守秘義務があるからね」
「……あっそ」
「教えてあげられなくてごめんね。決まりは守らないといけないから」
「……うん」
「でも、後日教えてあげることができるようになるかもしれない。まあ、それも今回の調査の進展次第だけどね」
「…………」
「どうしたの?」
「いや、べつに……。なんかすごいなって思って」
妄想が。
「そんなことないよ。ボクは与えられた仕事をこなすだけだよ」
さぞそれが当たり前のことのように宣うロゼ。
「だって仕事っていうのは大人になってから始めるもんだろ。そういえば、お前はいくつになったんだっけ?」
「十六」
僕は思わず吹き出しそうになる。
「冗談はよせよ」
「冗談じゃないよ」
「いやいや、無理があるだろ。そんな容姿じゃあ、中学生だって厳しい――」
突然、視界が真っ暗になり、星がちらついた。
ビンタされたのだと認識するまでに数秒を要した。右頬がズキズキ痛む。叩かれるとこんなに痛いものなのか。
とういうか、何故ぶたれたんだ? いったい何がこの子の琴線に触れたんだ?
ロゼはしばらく憤怒の表情を浮かべていたが、やがて少し落ち込んだような表情で口を開いた。
「やはりボクの読みは正しかったようだ。今ので確信したよ。キミはそんなことを言うような人じゃなかった」
「え? どういうこと?」
ロゼは僕の問いには答えず、目を伏せてじっと考え込んでいたが、やがて意を決したように僕の目をまっすぐ見つめ、こう告げた。
「端的に言おう。ワタル、キミは記憶喪失だ」
「は?」
声が洩れてしまうのも無理はない。
見知らぬ、性別も分からない子どもが、突然自分の家に来て「君は記憶喪失だ」と宣告されるなんて考えられない。突拍子がないにもほどがあるだろ。妄想は自分の頭の中だけでやってろよ。他人を巻き込まないでくれ。
「キミがそんな顔をしてしまうのも無理はない。信じられないだろうが、これは事実なんだ。ワタル、キミは記憶を失っているんだよ」
「……おまえ、頭大丈夫か?」
「いたって正常だよ。そうじゃなきゃ、調査員としてここに派遣されないでしょ?」
「……………」
もうなにを言っても無駄なようだ。
「うーん、どうやったらキミに信じてもらえるだろうか……」
腕を組んで考え込むロゼ。
「そもそも、僕が記憶喪失だと思う根拠はあるのかよ?」
「あるにはある」
「なんだよ?」
曖昧な返答だな。
「それは、キミがボクのことを忘れているということだ。それに、以前のキミだったら、決してこのボクの年齢にそぐわない容姿を馬鹿にしたりしはない。ボクがそういうことを言われるのを嫌っている、ということを知っているはずだからね」
「……ごめん」
「いや、いいんだ。ボクのほうこそ悪かった。つい感情的になってしまって……」
そう言うと、ロゼはうなだれてしまった。僕もなんと返したらいいのかわからず、黙りこくってしまう。
沈黙を破ったのはロゼだった。
「しかし、この理由だとボクは納得できても、キミは納得できないだろう?」
「あ、ああ。お前が嘘をついているだけかもしれないからな。実際、僕はそう思ってるし」
「そうだよね。さすがにこれだけでは信じてもらえないか」
はは、と自嘲気味に笑うロゼ。僕は麦茶を一口飲むと、言った。
「あまりに根拠として薄すぎるからな」
「なるほど……ちょっと質問してもいいかな?」
僕は頷く。
「高校に入学する以前はなにをしていたの?」
「中学校に通っていたけど」
当たり前のことを訊いてくるな。
「この近くの中学校に通ってたの?」
「いいや。中学三年の初めに、父親が海外に転勤になったから、それで僕もこっちに引っ越しってきたんだ。だから、それまではこの近くの中学校には通っていなかった」
「なるほどね。こちらにやってくる前まではどこに住んでいたの?」
「どこってそりゃあ…………あれ、どこだっけ?」
ここからは結構離れていた気がするんだけれど。てか、どんな家だったっけ? 一軒家? それともアパート?
僕が悩んでいると、ロゼは続けて質問してきた。
「両親と三人で暮らしていたの?」
僕は首を横に振った。
「母親は物心つく前に亡くなったから、ずっと父親と二人で暮らしてきた」
「お父さんはどんな人だったの?」
「………………」
「どんな人だったの?」
「……わからない」
愕然とした。
父親の面影はおろか、名前さえ思い出すことができない。
「転校する前の学校のクラスメイトの顔は覚えてる? 担任の先生は?」
「…………」
「家の近所にはなにがあった? ご近所さんはどんな人?」
「…………」
「お父さんの職業は? どこで働いて――」
「もうやめてくれ!」
頭の中が混乱してしまい、つい声を荒げてしまう。
「……ごめん。怒鳴ったりして」
「ううん。ボクのほうこそ問い詰めるようなことをして悪かったよ。でも、これで自分が記憶喪失だってことがわかったでしょ?」
頷くしかなかった。
よく考えてみると、十年以上一緒に過ごしてきた父親の顔や、つい数年前まで暮らしていた家の形も思い出せないなんてさすがにおかしい。
そう、おかしいのだ。
でも、一番問題なのは「忘れていることがおかしい」ということに、今の今まで気づかなかったことだ。
まるで僕の脳が、そういう考えに至るのを避けているような――。
「なあ、ロゼ」
「なに?」
「お前と僕はどういった間柄なんだ?」
こんなに親しく話しているのだから、僕が記憶を失っているだけで、おそらくロゼとは知り合いなのだろう。
「小学校三年からの友達だよ。中学二年まで、ボクらはほとんど同じクラスだったんだよ。憶えてる?」
僕はかぶりを振った。
「……ごめん。まったく心当たりがない」
「それはそうだよね。わかってたことだけど、こうはっきり言われると、ちょっとショックかな……」
ロゼの表情が一気に沈んでしまった。
この落ち込み様を見る限り、僕とこの子がクラスメイトだったということは事実なのかもしれない。けれど、ロゼが嘘をついていて、落ち込んでいるふりをしている可能性も否定できない。まあここで僕に対して嘘をつくことが、ロゼにとって意味のあることとは思えないけれど。
「もしかして、ボクのこと疑ってる?」
と、ロゼが訊ねてきた。
「え、なんでそう思うの?」
「そんな疑いのこもった目で見られたら、誰だってそう思うよ」
思っていることが顔に出やすいタイプなのかな、僕。それとも、ロゼの洞察力が優れているのか。僕は素直な心情を吐露した。
「正直、信じられないんだ」
「うーん、やっぱそうなるよねえ。あっ、そうだ!」
なにか思いついたのか、ロゼはローブのなかに手を突っ込んだ。そして、中から一枚の写真を取り出した。
「これを見たら、信じてもらえるかな」
そう言って、僕に写真を渡す。写真には、私服姿の小学生らしき子どもたちが、紅葉を背景に横三列に並んで映っていた。どの子も無邪気に笑っている。
「これは?」
僕の問いに、ロゼは昔を懐かしむように答えた。
「あれは、小学校五年のときだったかな。みんなで近くの山へハイキングに行ったんだよ。これは、そのときに山頂で撮ったうちのクラスの集合写真。ほら、ここ見て」
ロゼが人差し指を向けたところには、今よりも幼いロゼと僕らしき子ども(小学生時代の自分の顔を覚えていないので断言できない)が並んで映っている。
「…………信じられない」
僕のつぶやきにロゼは何度も頷く。
「だろうね。でも、これは事実なんだよ。もちろん、合成写真なんかじゃない。キミはボクと友達だった……いや、友達なんだよ」
「…………下手したら幼稚園生に見えるぞ、これ」
「うん、確かに――って、どういうこと!?」
「ほんとに小さくてかわいいなあ…………フヒヒ」
「ワタル!? なんでボクの写真見てニヤニヤしてるの!?」
「えっと、ハサミはどこに閉まったっけ……」
「ちょ、なにするつもり!?」
チョキ、チョキ、チョキ、チョキ…………。
「なんでボクのところだけ切り抜いてるの!?」
「…………よし、できた! 大切に保管しておこうっと」
「――って自分のところだけかい!」
「当たり前だろ。貴重な僕の小学生時代の姿なんだから」
「よかった、そういう理由か。ボクはてっきりロリコンだと」
「そんなわけあるか……ふふ、それにしても本当にかわいいなあ、小学生の僕……フヒヒ」
「ロリコンよりやばいかも……」
僕はもう少し自分の可愛らしい写真を眺めていたかったが、ロゼが軽蔑の眼で睨んでくるので、仕方なく切り抜いた写真を机の引き出しに閉まった。ロゼは僕にとっては何の価値もない切り取られた写真を手に取ると、それをローブのなかに戻した。
「で、納得してもらえた?」
僕は頷いた。
「自分が記憶喪失だということを認めるよ」
「それだけ?」
「あと、お前が僕の友達だということも」
「よかった」
ロゼは微笑んだ。
よくよく考えると、僕は人見知りなので、初対面の人間とこんなに打ち解けて話せるはずがない。そのことにもっと早い段階で気がづくべきだった。
ロゼと友達だった、という記憶を失ったとしても、僕の心、または身体が憶えていたから、テンポ良く会話をすることができているのかもしれない。
こうしたいくつかの根拠から、自分が記憶喪失であることは理解できた。
でも――
「どうして、僕は記憶喪失になったんだろう?」
「ボクもそれはさっきから気になっていたんだ。記憶を失ってしまったのには、何か理由があるはずなんだけど……」
ロゼの言うとおりだ。朝起きたら、記憶喪失になっていたなんていう馬鹿げた話があるはずがない。物事には必ず理由があるはずだ。
「繰り返しになるけど、高校に入る以前のことはまったく憶えていないんだよね?」
腕を組んで考えに耽っていたロゼが訊ねてきた。
「うん。でも……」
「なにか気になることがあるの?」
身を乗り出して訊いてくる。
「あるにはあるんだけど。……なんて言えばいいのかな」
「まとめようとしなくていいから、思っていることをそのまま言ってみて」
ロゼにそう促され、僕は考えていることをそのまま口に出した。
「確かに僕は高校入学以前のことを憶えていない。忘れてしまっているんだ。けれど、さっき言ったように、父親と二人で長い間一緒に住んでいたことや、母親が早くに亡くなっていることは僕の中に記憶として残っているんだ。それなのに、両親の顔はまったく憶えていない。これっておかしくないか?」
「父親と住んでいた」という文字としての記憶は頭の中に存在している。が、それに関する記憶(どんな家に住んでいたか、家の中には何があったか)を思い出すことができない。というより、初めから存在していないかのようだ。
僕の話を聞いてロゼは少し考え込んでいたが、やがてなにか思いついたのか、はっと顔を上げた。
「なにか分かったのか?」
ロゼは首を横に振って頷いた。分かったような、分かっていないような様子だ。
「ワタル。キミは高校に入るまでのことは憶えていない――いや、忘れているんだよね?」
「うん。何度もそう言ってるじゃん」
「じゃあ、高校に入ってから今までのことは憶えてる?」
僕は即答した。
「もちろん」
「具体的に憶えてることは? 行事とか」
「えーと、体育祭は小雨のなか行われて、百メートル走で八人中三位になった。文化祭では劇で悪役を演じたよ。僕たちの劇は投票で一位になったんだ。あとは……」
あれ、なにか大事なことを忘れているような気がする。体育祭、文化祭に限らず、どの記憶もどこか一ヵ所だけぽっかりと抜け落ちているような……。まるで、そこだけマジックで黒く塗り潰されているみたいな……。
「やっぱり高校のことはしっかり憶えているんだね。ということは、やはり……」
「思い当たることでもあるのか?」
「……うーん、なんとも言えないな。ところで、クラスで仲が良い友達はいる?」
「唐突だな。まあ、それなりにいるよ」
「その友達の名前は?」
「言ったってわからないと思うけど」
「いいから教えて」
有無を言わさぬロゼの問いに、僕は首を傾げながらも答えた。
「特に仲が良いのは、五十嵐怜と波流春人ってやつかな。いつも一緒に昼飯を食べてるよ」
「……それだけ?」
「親しいのはこの二人くらいかな。他の連中とはたまに話すくらいだ」
「なるほど……」
ロゼは僕の答えに何度も頷いた。何か掴んだみたいだ。もしかしたら、記憶喪失の原因がわかったのかもしれない。やがてロゼは真剣な顔で話し始めた。
「これはあくまで推論だけど、二つわかったことがある」
ロゼは人差し指を立てた。
「一つ。高校入学以前のことは忘れてしまっていて、それ以降から現在までのことは憶えている。つまり、高校に入る直前の時期に記憶を失うような出来事があったはず」
なるほど。ということは一年前の春休みに、僕の身に何かが起こったということか。
「もう一つは?」
「二つ目だけど、おそらく……」
今度は中指を立てたが、なぜかそこで口ごもってしまう。
「どうした?」
「……おそらく、キミはその時、誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ」
「…………は?」
また訳のわからないことを言い始めたぞ。つまり、誰かが僕の記憶を操作したってことか? 馬鹿馬鹿しい。そんなことできるわけないだろ。
「急に何を言い出すんだこいつは、とでもキミは思っているのだろう」
「当たり前だ。記憶を失っているらしいことは理解できたとしても、偽の記憶を植え付けられたなんてことはさすがに信じられない。第一、そんなことが可能なのか?」
他人の記憶を書き換えることのできる人間がこの世界に存在しているとは考えられない。
「まあそう思うのも無理はない。だってボクは、まだ大事なことをキミに伝えてないから」
そう言ってロゼは微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「大事なこと?」
「キミの過去を語る上でとても重要なことだ。これを知ったら、キミの人生が大きく変わってしまうだろう。いや、変わるというよりはむしろ――」
「もったいぶらずに早く教えてくれよ」
こいつは一体なにを知っているっていうんだ。まだ僕には秘密があるのか。だとしたら、どれだけ僕は今まで自分自身を理解していなかったんだ。
しかし、ロゼは首を横に振った。
「これを言ったらキミはさらに混乱し、動揺してしまうだろう。ただでさえ、今日は今まで知らなかったことをたくさん知ったはずだ。これ以上、キミの心に負担をかけるのはよくない。それにもうこんな時間だし、この話はまた明日にしよう」
「……そうだな」
正直、ロゼが握っている僕に関する秘密はとても気になる。今すぐにでも訊きたい。
でもロゼの言うとおり、疲れているのも事実。明日教えてくれるのならそれでもいいか。
「うん。じゃあ、おやすみー」
僕が同意するや否や、ロゼはベッドに潜り込んでしまった。すでに寝息を立てている。
「……ったく、なんなんだよこいつは」
本当に、今日は朝からいろいろなことがあった。こんなに忙しかった一日は生まれて初めてかもしれない。記憶を失っている――ロゼが言うには書き換えられている――ので、ここ一年間での話になってしまうが。
ロゼの寝顔を眺める。とても僕と同い年には見えない。子ども用切符で改札を通り抜けても誰も疑問に思わないだろう。そのくらい幼い顔立ちだ。
そういえば、ロゼは調査員としてここに派遣されたと言っていた。
調査とは何のことなのだろう? あまりに当たり前に言うものだから、深くは追及しなかったけれど。
まあ気にはなるが、こんなにすやすや眠っている子を起こすのも気が引けるし、また明日訊いてみるか。
あまり見つめていると変な気分になりそうだったので、浴室に向かい、シャワーを浴びた。浴室から戻り、クローゼットから以前来客用に購入しておいた寝袋を引っ張り出して、それにくるまった。
なかなか寝つけないかと思っていたが、疲れ切っていたのですぐに眠りに落ちた。
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