少年少女歪崇拝論

犬腹 高下

「ねぇ、お姉さん、一緒に死なない?」

 夜、十一時過ぎ。バイト帰りに、電信柱に心中に誘われた。電信柱にも自我があるのかとグレーの円柱を茫然と見つめていると、もう一度「おい」と声が聞こえた。それでようやく、電信柱の影に隠れるようにして人が座っているのだと気づいた。

「間に合ってます」

「えぇっ」

 ボサボサの茶髪、掠れた声、冬も深まる十二月だというのに妙に薄着のそいつは、不満げな声をあげてどこぞの家の塀にもたれかかった。赤いハイカットのスニーカーは履き潰されて穴が開いている。何故か靴紐が通されていなかった。

 私は、早く帰りたい一心で近道を使ったことを後悔していた。いくら治安の良い地域だとはいえ、人通りの少ない夜道にはこういう不審な人物が現れるのだ。勉強になった。

 不審者は塀にもたれたまま動かない。これ以上絡んでくることも、後をついてくることもないと考えて良さそうだ。控えめなタイプの不審者で良かったと安堵しつつ通り過ぎようとした時、地面に投げ出された細い指の先が、白を通り越して青く変色しているのが目についた。小刻みに震えているすらりとした指を見て、ある考えに行き当たる。

「あの、もしかして、女の人ですか?」

「え? あぁ、うん。そう」

 声質と服装でてっきり男だと思い込んでいたが、目の前の不審者は私と同じ性だと言う。顔を上げずに答えた彼女は、鼻の下を指でこする。外灯に照らされたその指が赤く染まったのを見て、私は仕方なく女を自宅に連れて行ってやることにした。

 エントランスのオートロックを解除し、女を引き連れてエレベーターに乗り込む。住人と鉢合わせないようにと願いながら七階に着くのを今か今かと待っていると、顔に血をこびりつかせている女が「いいとこ住んでんね」と背後で笑う。慣れ親しんだ1DKに入ると、センサーライトが私たちを迎え入れた。荷物を床に放り投げ、すぐに水に濡らしたタオルを渡す。

「とりあえず顔、拭いて。傷ひどいなら消毒くらいならできるから」

 女は大人しくタオルを受け取り、じっとそれを見つめている。遠慮しているのだろうか。暖房の電源を入れ、部屋の電気をつける。

「あんたさぁ、マジでお人好しだよね」

 水道水を入れたヤカンに火をつけてお茶のパックを探していると、濡れタオルを手に突っ立っている女が声を低くした。まるで責められているかのような響きだ。

「……なに、ほっといた方が良かったわけ? 怪我してる人を、こんな寒空の下に?」

 思わず口調が強くなる。深夜を回った時間にあんな人通りの少ない場所に女性が一人で座り込んでいたら、どう考えたって危険だろう。怪我をしていて何か訳ありのようだし、警察に連絡したところで大人しく保護されるとも思えない。そりゃあ少し考えなしの部分があったのは認めるが、本人に批判される謂れはないはずだ。

「ほんと変わんないよねぇ。そういう感じ」

 嫌味っぽさを滲ませた声音で言って、彼女はゴシゴシと乱暴に顔を拭く。私は「は?」とすっとんきょうな声を漏らした。おかしい。まるで私を知っているような口ぶりだが、私はこんな女と面識はない。

「嘘ぉ、まだ気付かない? 傷つくなぁ」

 くりくりとした大きな目と視線が合う。髪の毛と同じ、色素の薄い瞳。人を小馬鹿にしたような喋り方。飄々とした態度。脳内の奥深く、埃をかぶっていた古い記憶が蘇る。

「ピアノ、まだ弾いてんの?」

 あぁ、思い出した。思い出してしまった。

「藤村……。藤村宏人」

「久しぶりだね、幸野さん」

 ヤカンが甲高い声で鳴いた。血を拭いとった顔に胡散臭い笑顔を浮かべているそいつは、間違いなく藤村だった。中学時代、私の心を深く抉った男だ。そう、男なのだ。

「……通報してやる」

「え? ちょっと待ってよ。自分で家にあげといてそれはないでしょ。っていうか、ヤカン吹いてるよ」

「女だと思ったから同情したのよ。嘘つきは警察に引き渡してやる」

「自分で勘違いしたんだろ。いいじゃないか、一晩くらい」

「出てけ。凍死でもなんでもしろ」

「ねぇ、ヤカン」

「うるさい!」

 火を止める。しゅんしゅんと余韻を残してヤカンは大人しくなる。代わりに、私が大声をあげて泣いてやろうかと思った。

「タオル、ありがとう。捨てて良いよね?」

 藤村は返事も聞かずに赤が滲んだタオルをゴミ箱にポイと投げ入れた。あの頃よりも背は幾らか伸びているが、相変わらずに華奢で頼りない体つきをしている。声なんて、中学生の頃とほとんど変わっていないのだ。騙されるのも無理はない。そう自分に言い聞かせる。

 黙って睨みつけている私に気がついた藤村は、流石に焦ったのか眉を八の字に下げた。

「嘘ついて悪かったよ、ごめん。でも、本当に困ってるんだ。頼むから泊めてくれないかな」

 機嫌を取っているつもりなのか、お茶のパックを私の手から奪い取ってティーカップに入れ、沸騰したお湯を注ぐ。もう日付も変わる時間帯で、これから警察を呼ぼうにも明日の朝支障が出て困るのは他でも無い私だ。

 藤村は汚れた服のまま、ティーカップを二つ持って洋室に勝手に上がり込む。キョロキョロと部屋の中を見回してカップをローテーブルの上に置き、また胡散臭い笑顔を浮かべた。

「普通の男とは違って間違いも起こらないって、知ってるだろ。幸野さんは」

 返事をする気力もなく、のろのろとテーブルの前に向かい、崩れるように腰を下ろした。呑気にお茶を啜る男を見て、凍死でも何でも好きにさせておけば良かったのだと、一時間前の自分の判断を猛烈に悔やんだ。


 あれは忘れもしない、中学二年生の秋頃。その日私は、幼少期から続けていたピアノのコンクールに臨んでいた。招待した二十人前後の友人らの視線を客席から感じて、身体がかぁっと熱くなったのを今でも覚えている。

 先生が舞台袖で見守る中、眩しいほどに焚かれた蛍光灯の光を全身に浴びて、私はクロード・ドビュッシーの『アラベスク第一番』を弾いた。ピアノを始めた頃からずっと弾きたかった曲だったから、先生からやっとGOサインを貰った時は飛び上がるほどに嬉しかった。だから、少し、舞い上がっていたのだと思う。私は当然のように、親交のあるクラスメイトはもちろんのこと、関わりの薄い面々にも声をかけていた。練習の成果を、できるだけ大勢の前で披露したいと思ったからだ。当時私はクラス委員を務めていてそれなりに顔見知りも多かったから、熱心に宣伝活動をしなくとも、そこそこの人数が集まってくれた。

 暗く、しんと静まった会場で、ライトに照らされているのは私だけだった。音を発しているのも、私のピアノだけだ。燃えるように痺れるように指の動きのみに集中する脳の片隅で、ぼんやりと、しかし確実に、今この場の主役は私だけなのだと自覚した。私は、緊張と快感の渦に飲み込まれながら、母親と一緒に選んだ桜色のドレスに身を包み、発色の悪いネイルを塗った指先で、滑らかに鍵盤を叩いて見せた。

 演奏はミスなく進み、やがて満足のいくエンディングを迎えた。後ほど先生に指摘されるであろう改善点を予想しながら一旦会場の外に出ると、友人達がこぞって私を取り囲み「すごかったよ」「感動した」「かっこよかった」「綺麗だった」と各々感想を述べてくれて、誇らしい気持ちになった。

「さすが幸野って感じだよな。格の違いを見せつけられたよ。お嬢様はちげえや」

「ちょっと、やめてくんないそういうの」

 揶揄ってくる友人や、クスクスと笑っているクラスメイト。私は彼らの顔を見渡しながら、達成感と満足感が湧き起こるのをひしひしと感じていた。冷めきらない興奮と充実感に、酔いしれていたのだ。

 友人らを会場の出口まで見送りに行って控え室に戻ろうとした時、ちょうど、私は彼と鉢合わせた。

「藤村くん、来てくれてたんだね。ありがとう」

 まさか来ているとは思わなかった藤村との遭遇に、私は驚きつつも嬉しさを覚えていた。彼はクラス内どころか学校内ですら誰ともつるまず、打ち解けようともせず、誰の目から見ても明らかに異質な存在であった。生徒の中には藤村をおかしな奴だと疎む者もいたけれど、その実、彼のことが気になっていた者も多かったし、私もその一人だった。だから、これが藤村と皆が打ち解ける良いきっかけになればと思い声をかけたのだ。しかし、やはり今日も単独行動を貫き通したらしい。

「いやぁ、やっぱすごいね幸野さん」

 藤村はまるで女の子のような大きな目を細めて、微笑を浮かべた。彼が笑っているところなんて滅多に見たことがなかったし、それが私に向けられていると思うと、彼と少し距離が縮まったように感じられて、悦ばしい気持ちになった。私が咄嗟に謙遜を口に出そうとすると、しかし藤村はそれを遮って続けた。

「気持ちいいだろうね、大勢の前で綺麗な服着てスポットライト浴びて、お得意のピアノの披露。皆に褒められて、自己肯定感満たされまくりって感じ? いいよねぇ」

 柔らかい笑顔のまま言うものだから、その言葉が私を否定しているのだと理解するまでに少し時間がかかった。ただ、茫然と彼の薄い唇を見つめたまま、彼の吐く言葉を反芻する。

「俺みたいなのまで誘っちゃって、ほんと、すごいね。尊敬するよ」

 藤村は、微笑みを顔に貼り付けたまま言い捨てて、私の反論も許さずに自動ドアをくぐって会場からさっさと出て行った。私は、全身を流れる血液が全部砂に変わってしまったような心地になって、しばらくの間立ち尽くしていた。


「あのさぁ、一晩だけって話だったでしょ。いつまで居座る気よ」

「うん、思ったんだけど、一日も一週間も一ヶ月も大差なくない?」

 客用の布団を我が物顔で使っている藤村は、あれから三日経っても一向に出ていく気配を見せなかった。私が大学やバイトに行っている間にスーパーに食料調達に出向いているようだが、それ以外はずっと私の部屋にいるのだ。おかげで私は、どこに行くにも通帳と財布、身分証を持ち歩かなくてはならない。

「なんで私があんたを住まわせなきゃいけないわけ?」

「中学からの仲じゃん。かたいこと言うなよ」

「私はあの頃あんたと親交を深めた記憶なんかないんだけど」

「えー、ひどいなぁ。俺は幸野さんのこと結構気に入ってたのに」

 反射的に、藤村の胸ぐらを掴む。私が貸しているスウェットに身を包んでいる彼は、全く無防備だったためろくに抵抗もせずに目を剥いた。

「出て行って。今すぐに、ここから」

「嘘、待って。暴力は良くないって」

 藤村は、両手を上げて降参のポーズを取って見せた。簡単に下手に出るところを見るに、本当に行く宛ても金もないらしい。中学の頃よりもだいぶ表情筋が鍛えられていることに気がついて、怒りが呆れに変わり、私は手の力を緩める。

「こわぁ。あんなに品行方正だった委員長がなんでそうなっちゃったの?」

 伸びた襟元をいそいそと正している藤村は、懲りずに無駄口を叩く。

「うるさいな。せめて黙ってて」

「どうせ付き合ってる奴もいないんでしょ。だから、俺を留守番兼ボディーガードってことでにしようよ」

「余計なお世話にも程があるんだけど」

「合鍵渡してくれたのはそっちじゃん」

「大学行く時間なのに起きないから渡したの! ポストに入れといてって言ったのに」

「そういえば何系の大学行ってんの? 音大とか?」

 平然と話題を変える様が無性に頭に来た。それが故意的なものではなく、本当に興味が移っただけであるのが表情から伺えることにも腹が立つ。自由奔放、自分勝手、協調性皆無。彼の根本は何一つ変わっていない。

「そんなわけないでしょ。普通に、文系よ」

「えー、もったいないね。ピアノ、上手だったのに」

 藤村はヘラヘラと笑っていた。私は再び、奴の胸ぐらをひっ掴んだ。


「ユキさぁ、男できた?」

 二限の社会福祉学が終わり食堂で生姜焼き定食を食べていると、向いに座っている亜実が大盛りの牛丼を片付けながら唐突に言った。私は、豚肉をゆっくり咀嚼し、飲み込む。

「……なんで」

「いやぁ、なんとなくだけど。当たった?」

「大外れ。真逆」

 もう、藤村が家に住み着いてから二週間ほどが経過していた。私もだいぶ流されやすいとは思うが、奴も奴であまりにも図々しい。今朝も、私が家を出る時にはまだ布団にくるまって、気持ち良さそうに眠っていた。

「前のと別れてからすっかり浮いた話無いよね、あんた。周りに男いないの?」

「いないいない。ありえない」

 亜美は疑わしげな目を向けてきたが、私はそれっきり生姜焼きを食べることにのみ集中した。彼女にだけはどうしても打ち明けられない理由があるのだ。

 それに、本当にありえないのだから教える必要もないだろう。ありえないからこそ、私は彼の横暴を受け入れてしまっている。

 藤村からそれを聞いたのは、あのコンクールから一月ほど経った頃だ。奴に己の善意を踏みにじられ慢心を指摘されて以来、私は藤村と関わることを徹底的に避けていた。再び対峙したらば、恥ずかしさと悔しさが蘇って死んでしまいそうだったからだ。

 しかし、その日はどうしても彼に話しかけなければならなかった。

「藤村くん、好きな人とかいるの」

 掃除の時間、私はこれ以上ないくらいの逃げ出したい気持ちで彼に話しかけた。校庭の隅っこにある旧体育倉庫で藤村がしょっちゅうサボっているという情報は事前に教えられていたから、その時間を狙った。

「なぁに、幸野さん。もしかして、俺のこと好きなの」

 埃まみれのマットに腰掛けていた藤村は、開け放たれた扉にもたれて立っている私を、ひどく間抜けな面で見上げた。

「そんなわけないでしょ。私じゃない」

 それだけで大体の事情を察したらしい。「面倒見がいいのも大変だね」と嫌らしく笑って、「じゃあ、その子に伝えておいて」とマットについた手に体重をかけ、姿勢を崩した。

「俺、男が好きだから。ごめんね」

 足をだらしなく広げる。ベルトの金具が日の光を反射する。長いまつ毛に遮られた瞳が、挑発するようにこちらを見ている。その動作一つ一つが下品で、要らぬ想像をさせられて、物凄く気分が悪かった。だから、受けて立ってやろうと思った。

 私はすぐに、ことの発端である友人の亜美に藤村の言葉をそっくりそのまま伝えた。思春期真っ只中の過敏な集団にとって、藤村の異質性は格好の餌食となった。元々悪目立ちをしていたせいもあって瞬く間に噂は広がり、売春をしているだの、悪い輩とつるんでいるだの、薬物をやっているだのと尾ひれが付いて、藤村は一際浮いた存在になった。

 それでも藤村は、全くどうでもよさそうに学校生活を送っていた。まるで周りの生徒なんて見えていないみたいに、平気な顔をして。私は、罪悪感を覚えることをすっかり忘れていた。苛立ちさえ感じていた程だ。

 それから半年ほど経って、藤村は突然に学校を辞めた。中学三年生の、夏休み直前のことだった。


 嫌なことを思い出した。いや、都合が悪い、と言った方が正しいかもしれない。

 四限が終わり、バイトも無いため久々に明るいうちから家路に着く。急ぐ用事もないので大通りを使ってもよかったのだが、私はなんとなく、藤村を拾ってしまった裏通りを選んだ。軽自動車がぎりぎり一台通れる程の道幅しかない道路は、古いアパートや空き家、雑草に覆われた売地などに囲まれている。

 不安定な胸中とは裏腹に、足取りはしっかりしていた。鮮明に蘇る痛んだベルトの映像をかき消すみたいに、私は随分見慣れた景色をじっくり眺める。ブロック塀に巻き付いた蔦、電柱に貼られた胡散臭い求人ポスター、安価な料金表が取り付けられているラブホテルの門。そこから出てくる二人組の男。背の高い方が背の低い方に札を何枚か渡している。それを受け取り、手を振って長身の男を見送っているのは、紛れもなく藤村だった。

 奴は尻ポケットの財布に手を触れてから私の視線に気付き、金をポケットにねじ込んで、パーカーのフードを被った。しかし、私がずんずんと彼との距離を縮めると、観念したような視線をこちらに投げる。

「何してんの」

「えーっと、バイト的な」

「現代社会では売春は違法なんだけど」

「え、そうなの?」

 本当に知らないのかふざけているのか、一瞬だけ判断に迷うような調子で言った。すぐに空々しさが追いかけてくる。黙って射竦めていると、藤村は軽薄な笑顔を引っ込めて「しょうがないだろ。こういうことしか出来ないんだから」と、ぽつりと、薄い唇をほとんど動かすことなく溢した。私はこいつのこういう顔を、以前にも、どこかで見たことがあったように思う。

「ま、そういう硬い話はやめてさ、焼肉でも行こうよ。奢るからさ」

 私が記憶を呼び起こすのを待たずして間延びした声を取り戻した藤村は、返事も聞かずに勝手にすたすたと歩き始める。少しの安堵と蟠りが、私の心中に波紋を広げた。

「私、昼に生姜焼き食べたんだけど」

「じゃあ牛肉食べれば良いじゃん」

 家主であるはずの私の異論は聞き入れられず、しばらく足を運んでいなかった焼肉チェーン店に気乗りしないまま入店した。窓際のテーブル席に通され、私達は日の沈まぬうちから大した会話もなく肉を焼いては食らい、焼いては食らいを繰り返し、腹を満たす。

「潔癖そうなのに、こういう金で飯食うのには抵抗ないんだ」

 焼き網の火を消し、胃の隙間を埋めるようにレモンサワーをちびりちびり飲んでいると、焼酎をハイペースで飲み下している藤村が赤ら顔で口火を切る。

「中学のイメージ引きずるのやめてくれない? あれから何年経ったと思ってんの」

「ふふ。だって、もっと怒ると思ったのに」

 耳まで赤く染めた男は、目を伏せて頬を緩ませる。私の使い古しのパーカーは袖が足りないらしく、骨張った手首が露になり、そこもほんのりと赤みを帯びていた。

「俺が男が好きだって言った時も、幸野さん全然動じないで澄ました顔してたよね。覚えてる? 体育倉庫でさ。普通もっと驚くとか、気持ち悪がるとかあるでしょ」

「驚いてたわよ、じゅうぶん。それよりも腹が立ってただけで」

 汗をかいているグラスを指先でくるくると回転させながら、「あれ怒ってたんだ。わかりづらぁ」と白々しく言う。彼は、その後晒し者のような扱いを受けることとなった原因が私であるとわかっているはずだ。しかし、中学の頃も、今も、その件について私を責めたり非難したりを一切しない。中学を辞めた後にどんな生活を送ったのかという話も、まるでしない。

 会話が途切れ、周囲の客の話し声や笑い声が勢いを増していることに気がついた。窓の外はすっかり日が沈んで暗くなり、点々と街灯が灯っている。グラスを空けて頬杖をつく藤村と目が合い、自然と言葉が口をつく。

「あんた、仕事とかしてないわけ?」

「してるように見える? 無職文無し。だから世話んなってんだろ」

 眠たそうに半分ほど降ろされた目蓋の下から、茶色い虹彩がこちらを見ている。「今まで何の仕事してたの。学校とか」と聞いても「まぁ、色々だよ」としか帰ってこず、これ以上の追求は無駄であると踏んだ。

「ヤバい薬とか、やってないでしょうね」

 そんな噂があったことを思い出したので念のためにと問うと、藤村は目を丸くして、心底可笑しいというふうににけたけたと笑う。

 彼のバイト代とやらで会計を済ませて店を出、ふらふらと覚束無い足取りの男に仕方なしに肩を貸す。上機嫌に私の右肩に手を回した藤村は、なんともだらしのない顔で「今日、楽しいなぁ」と独り言のように呟いた。

 私は否定も肯定もせずに、ただ藤村の重みに押し負けないようにだけを考えて歩いた。


 十二月も後半に突入し冬季休みが目前に迫っていた私は、大学の食堂で昼食を取りながら、実家に帰っている間あの居候をどうするべきかと考えていた。ふと、目の前の亜美がいつになく険しい顔をしているような気がして箸を止める。嫌な予感がしたのだ。

「ユキ、やっぱ嘘ついてるよね」

 彼女は、おもむろに口を開く。

「何のこと?」

「藤村と付き合ってんでしょ」

 予想は的中した。よりにもよって亜美に、中学時代に藤村に好意を抱いていた彼女に知られるとは、最悪の状況だ。こうならないようにと細心の注意を払っていたはずだが、どこかで見られていたのだろうか。

「待って、確かに最近色々あって再会したんだけど、付き合ってるとかじゃないって。亜美だって知ってるでしょ、あいつは……」

「それもさぁ、嘘だったんじゃないの」

 焦りつつも慎重に言葉を選んで誤解を解こうとしたが、彼女の切れ長の目には拒絶の色が滲んでいて、私は口を噤むしかなくなる。

「昔っからあんたら、なーんか変な空気だったじゃん。もしかして、あの頃もデキてた? 私が藤村のこと好きだったから、断るために嘘ついたんじゃないの」

「違うよ、そんなわけない」

「だってさ、あんたっていつも本当のこと言ってくれないじゃん。中学の時からずっとそう。皆に平等で皆に良い顔すんの。私にもね。それで信用しろって言われても、無理」

 亜美は淡々と意見を述べる。感情や勢いに任せた言葉ではなく、今まで溜め込んでいた考えをようやく打ち明けたというふうに見えた。私は、亜美がそんな不満を抱えていたなんて、これっぽっちも知らなかった。

「……ごめん。でも、聞いて、私と藤村は」

「誤解しないでね、私はもう藤村とかどうでもいいんだよ」

 パスタと水を載せたトレイを手に、亜美は席を立つ。箸を握ったまま情けなく狼狽る私を見下ろして、「私、ユキに頼られてるって感じたこと、ほとんどない」とだけ残し、背を向けた。何か言わなければと思うのに私の喉からは何の音も出てこず、黙って小さくなっていく背中を見送る。


 三限も四限も捨てて、沈鬱な気持ちを引きずって家に引き返した。一刻も早く自室に逃げ込んで篭城したいけれど、そこには今一番顔を合わせたくない相手がいる可能性が高い。奴が留守にしていることを願いながらドアを開けると、しかし、やはり藤村はちゃんと私の部屋にいるのだった。

 布団の隅っこで丸まっている姿を見て、昼も過ぎているのにまだ寝ているのかと呆れたが、何やら様子がおかしい。朝見た時は毛布と掛け布団の下に綺麗に収まっていたのに、今はそれらがぐちゃぐちゃに引っ掻き回されていた。ローテーブルには一リットルのミネラルウォーターのペットボトルと、空になった包装シートが何枚も置いてある。調子でも崩したのかと思ったが、薬のパッケージを見るにそれはカフェイン剤であった。手にとって中身を確かめると空っぽだ。絨毯に落ちていたレシートには今日の日付が印字されている。

「ちょっと、藤村、ねえ」

 汗で湿った手で、ぐったりと眠る男の肩を揺する。浅い呼吸をしていた彼はふっと息を吐いて、のろのろとまぶたを持ち上げた。よく見ると、また顔に傷を作っている。

「あれぇ、幸村さん、今日早いんだったっけ? まずった」

 舌のもつれた掠れた声は、別人のもののように聞こえた。濁った瞳でじっとりとこちらを見つめて「泣いてる?」と優しい声音で言う。私は思わず自分の頬に手をやったが、涙など出てはいない。昔から、変なところで聡い。

「なんか、あった?」

 紙のように白い顔が、締め切ったカーテンの隙間から差し込む一筋の細長い陽光に照らされていた。私が黙っていると、血色の悪い唇を歪める。

「ねぇ、いっしょに死なない?」

 それを聞くのは、あの晩以来、二度目だ。いや、違う。本当は、三度目だ。

「いいよ」

 瞳孔が拡大されたように見えた。「は?」と表情を硬らせる男に「いいよ」ともう一度告げてやると、弱々しく息を吐いた。嘲笑を浮かべているつもりのようだが、上手くできていない。

「なにそれ、同情のつもり? 幸野さんが死ぬ理由なんて、どこにあるわけ? こーんないい部屋に住んで、真面目な大学生やってて、食う物にも着るものにも困らないくせして」

 先ほどまでの弱々しさや穏やかさを取っ払った、突き放すような言い方だ。私はその痛々しい男の声をぼおっと聞いている。

「なに。恵まれた人には、俺が可哀想に見える?」

「そんなくだらない基準を、あんたも気にするんだ」

「そんなくだらない基準が全部だろ、人間は」

 その台詞はひどく自嘲的に、換気の行き届いていない部屋に響く。

「幸野さんって、優しいふりして実は人のこと見下してるよね。そんなつもりが無かろうと、俺みたいのにはわかっちゃうんだよ。昔っからずっとそうだ。やっぱり変わんない」

 憤りを隠そうともせずに藤村は捲し立てる。コンクール会場での言葉とは違って、そこには皮肉も侮蔑も含まれてはいない。

 私は、見下してなどはいない。多分、そうではないのだ。ただ、理解ができないだけだ。私は自分のやり方以外に方法を知らないから。でも、それは藤村も同じはずだった。だから相入れない。そういうふうにできているはずだったのに。

「やだな、すげえ嫌だ。あんたなんか、たまたまそういう環境下に生まれただけじゃん。たまたまそういう素質持ってただけじゃん。俺は、たまたま、全部持ってなかっただけじゃん。ハズレ引いただけじゃんか」

 藤村は、ストッパーが外れたみたいに喋り続ける。その姿は端から見れば苛辣であり哀れであり、普段の軽薄で余裕があって憎たらしい彼からは想像もつかない。いや、違うか。そんな姿を想像することを避け続けていただけだ。

「俺が欲しくてしょうがないもの全部持ってるくせに、当たり前みたいな顔して、そんでも足りないとか言うんだ。ムカつく。だからずっと、気に食わなかったんだ。俺は、ずっと幸野さんが、羨ましくて妬ましくて死にそうだったよ」

 私は、いよいよ我慢ならなくなってきて「はぁ?」と声をあげた。

「羨ましいって、言ったの? あんたが、私を。何それ、やめてよ、つまんないこと言わないで」

「は? 何がつまんないんだよ。はは、わかんないだろうねこんな気持ち、幸野さんには。あーあ、いやだ。もう、本当に嫌だ。惨めでさ、死にたい。さっさと死にたいのに。どうして俺は。ずっと……。ねえ、わかんないでしょ。わかるはずないもんね、あんたには」

 黙ってくれと言いたかった。何もかもが、違う。


「幸野さん、俺と一緒に死なない?」

 初めてこいつがそう言ったのは、中学三年生の夏。放課後の教室だったと思う。久方ぶりに話しかけてきた藤村の顔を見て、私はものすごく不安になったの。だって、何事にも動じずにいけしゃあしゃあとしている男が、いつになく脆く見えたから。私は、ひどく焦った。焦った故に、「なに。変な冗談やめて」と素っ気なく突き放したのだ。無かったことにしようとしたのだ。

 藤村は私の意を察したように、全くいつもの調子で笑って背を向けて、教室を出て行った。私は卑怯で、藤村はきっと臆病だった。

 そして次の日に、彼は学校を辞めた。


 青白い手でシーツを握りしめ、布団に顔を埋めている藤村の元からそっと離れる。キッチンのシンク下収納から、入居してから数える程しか使っていない包丁を取り出し、首筋に刃を当てがった。ひやりとした冷たさが肌に伝わる。柄を握った両手に力を入れてすっと引くと、ひりつく痛みが走って、やがて温かいものが皮膚を伝った。

 部屋に戻って布団に膝を付き、突っ伏している藤村の肩を包丁の柄で軽く叩く。「藤村」と呼ぶと彼はのっそりと顔を上げて私を見上げ、面白いくらいに目を剥いて飛び起きた。彼はあからさまに焦って手を泳がせる。

「ちょっ、何してんの。血が、すげえ出て……。ティッシュとか、ハンカチとか、いや、病院。っていうか、救急車呼んだ方が」

「だから、つまんないこと言わないで!」

 癇癪を起こした子供のような声だった。包丁の柄を藤村の胸に押し付けるが、彼は狼狽するばかりで受け取ろうとはしない。そのくせ、私が再び自分の首に刃を当てようとすると痛いくらいの力で腕を掴んで制止する。薬の過剰摂取の影響か、手が震えていた。

「何よ、三回も誘ってきたの、あんたでしょ。なのに何で止めるの。どうしてそんなに普通のこと言うの。何で私を羨ましいとか言うのよ。それは私のポジションじゃない。あんたはもっと、意味わかんない奴のはずでしょ」

 こいつは、別の世界で生きているような奴だった。理解の範疇を超えた存在のはずだった。それで良かった。それが良かったのだ。藤村はついに私の手から包丁を奪い取り、フローリングに投げ捨てた。青い顔には、困惑の表情が浮かんでいる。

「売春でも薬でも好きにやってりゃいいじゃない。私が出来ないことも言えないことも当然のようにやって、ヘラヘラしてるのがあんたでしょ。私を蔑んで悠々と見下ろしてるべきでしょ。そういう藤村だから、私はあんなに嫌いだったのに、そんな普通の人間みたいなこと言わないでよ!」

 目の前がぼやけてきていたし、頭が痛かった。息が上がる。自覚する気なんて一生なかった感情が形になって出て行ってしまい、もう戻っては来なかった。藤村は呆然と私を見つめて、それから張り詰めていた空気を綻ばせて肩を落とした。

「なにその、わっけわかんねえ偶像崇拝」

 大きく息を吐き、布団に体を沈める。白いシーツに栗毛色の髪が散らばった。カーテンが引かれ日を遮られた部屋の薄暗さは、いつかの体育倉庫を彷彿とさせる。

「あーあ、なんかどうでもよくなっちゃったなぁ。ねえ、酒ある? 飲もうよ。俺、疲れた」

 ごろりと寝返りを打つ藤村がかったるそうに言った。私も、そんなような気分だ。冷蔵庫から発泡酒の缶を二つ手に取り、片方を青い顔をしている男に渡してその傍らに腰を下ろす。落ち着いたからだろう、首元の痛みがじわじわと脈を打つように強まってきた。私はそれを誤魔化すようにアルコールを流し込む。藤村は寝転んだまま缶を傾けるので中身の大半を布団に溢していて、何がおかしいのかケタケタ笑っている。

「ねえ、マジで、何この状況。俺すっげえ気持ち悪いし、幸野さん血だらけでビール飲んでるし」

「笑ってんじゃないわよ。この服結構高かったし、まだそんなに着てないのに」

「いや自分のせいでしょ」とびたびたに濡らした口元を服の袖で拭いながら言う。

「幸野さん、多分自分で思ってるほどまともじゃないよ。俺もあんたが思ってるほどイカれちゃいないしね」

「あー、うるさい。もう、黙って」

 私は、藤村の顎をむぎゅっと掴んだ。滴った発泡酒が手についてベタベタする。

「子供かっつーの。じゃ、黙らせてみ」

 目の縁がうっすらと赤い。栗色の瞳は昔よりどろりと淀んでいるが、やはり扇情的で癪に障る。布団に手をついて顔を寄せ、唇をくっつけた。柔い感触とぬるい温度を感じる。

「うわぁ、やっぱ、全然良くないね。むしろ嫌。気持ち悪い」

 全くの同意見だったので、深く頷いた。手を離して、藤村の隣に寝転がる。体の力が一気に抜けた。

「ねえ、これ心中っていうのかなぁ」

「馬鹿じゃない。このくらいの血じゃ失血死には程遠いし、あんたが飲んでた薬だって致死量の半分以下よ」

「さすが、頭いいねぇ」

 彼が溢した発泡酒と自分の血が布団を染めていく様子が、視界の端に映っている。洗ったところで、もう使い物にはならないだろうか。

「布団も服も、捨てなきゃなぁ。っていうか、私友達と喧嘩したんだった、あんたのせいで」

「俺の? へぇ、だからあんな変な顔してたんだ」

「藤村だって変な顔してんじゃない。何やらかしたのよ、その傷」

「いやぁ、ちょっと小金稼ぎに失敗してさぁ。どうにかしないとなぁ」

 言葉を交わしている間にも、眠気がどんどんと募っていく。起きたらまた、生活の続きが始まる。考えるだけで面倒臭くて、どうにかなりそうだった。今はもう、全部がどうでもいいように思える。

「まぁ、いいじゃん、あとのことは。起きてから考えようよ」

 またしても同意見だったので、私は再び頷いて目を閉じた。彼の小さな呼吸音を聞きながら、私はすぐに、泥のような眠りに沈んで行った。

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少年少女歪崇拝論 犬腹 高下 @anrhrhr

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