赤いきつねと待ってる

花 千世子

赤いきつねと待ってる。

「お願いがあります!」

 まだボンヤリとした頭で、私は目の前を見る。

 この寒いのにフローリングの上で土下座をしているのは、夫のあおいだ。

 上から見上げるふわふわの猫っ毛の頭頂部は、あちこち寝癖がついている。

「何が始まったの?」

 ようやく私が言葉を発すると、碧は土下座をしたままで答える。

「土下座です」

「それは見ればわかります」

 私はふーっとため息をついてから、テーブルの上を見た。

 黒いトースト、炭のようになったソーセージ、見る影もない卵でできた物体。

 まさかこの朝食を錬成してしまったことを土下座で謝罪、というわけじゃないだろう。

 だって、碧の料理下手は今に始まったことではない。


 彼が在宅勤務になって2か月。

 忙しい私に変わって、『俺が主夫やるよ。だって仕事も減ったし』と申し出てくれた。

 料理が下手だということは私は気にしていない。

 大事なのはやる気だ。

 料理は作っていけばうまくなるし。

 碧にだってそれは話したはずだから、じゃあ、この突然の土下座は?

 まさか浮気しました?

 それとも別れてほしい?


「まだ結婚して1年しか経ってないのに?」

「料理教室は結婚何年目なら通わせてもらえるの?」

 私の独り言と、碧の言葉が重なった。

「え? 料理教室?」

「そう。俺、料理ものすごい下手だろ」

「うん、まあ、でもそれは作っていけば何とかなるよ」

「なんとかなりそうにないんだ」

「そうかなあ」

 私はそう言ってから、炭のようなソーセージを一口。

 しょっぱっっっ! そしてかっっらっっ!

 どんだけ塩こしょうしたんだよ!

 私はふーっとため息をついて、それから大きく一つうなずく。

「料理教室は行ったほうがいいね」 

「わあ、あかねありがとう! 頑張ってお弁当も作れるようになるから!」

「うん、ありがとう。頑張ってね」

「絶対に見ても楽しい食べて美味しいキャラ弁とか作れるようになるんだ」

 碧の目がキラキラと輝いていた。

 ハードル高くない?

 まあ、いいか。楽しそうだし。

 私は笑いながらコーヒーを飲む。

「あっっっま!」

「えへへ。隠し味に練乳とハチミツたっぷり入れてみたんだ」

「練乳とハチミツの味しかしない……」

「ごめん、作り直すよ」

 碧が立ち上がったので、私は甘すぎるコーヒーを一気に飲み干す。

「いってきます」

 私は席を立ち、空になったお皿とカップをシンクへ。

 碧に見えないように胃をさすりつつ、家を出た。


 次の日のお昼休み。

 お弁当用の風呂敷を開ける。

 中には赤いきつねが入っていた。

 碧に『私、赤いきつねなら週5で食べられる』と言ったことがあるからだ。

 碧が上達するまでお弁当は作れないと聞かなかった。

 赤いきつね、好きだから全然いいんだけども。

 そして赤いきつねと一緒にメモが入っていた。

 そこにはこう書かれてある。


   昨日は初めて料理教室を見学に行ったよ。

   女性に混じって男性もちらほらいて安心。

   楽しそうなところで良かった。


 私はそのメモをそっとカバンにしまった。

 それからお湯を注いで、赤いきつねを食べる。

 甘いおあげと柔らかめのうどんが最高に美味しい!

 出汁も効いていて、ついついスープまで全部飲み干してしまう。

 ああ、やっぱ赤いきつね、最高。

 

 それからというもの、私はお昼が楽しみになった。

 赤いきつねが食べられるというのもあるけれど。

 毎日、碧が料理教室での出来事をメモに書いてくれるからだ。

 これを見るのも楽しかった。

 今日はこう書かれてある。


      

   今日は肉じゃがを作ったよ。

   じゃがいもって剥くの難しいね。

   先生はピーラーを使ってもいいんですよ、と言ってくれたけど

  「包丁で向けたほうがカッコいいので頑張ります」と言ったら笑われちゃったよ。


 形から入るタイプだろうなあとは思っていたけど、本当にそうだったんだ。

 碧の知らない部分がこのメモでわかる気がして面白い。

 メモを見る限りでは、料理教室も楽しく通っているみたいだし。

「よかった」

 そう呟いて、窓の外を見る。

 いちょうの木が風に揺れていた。

 

 それからしばらくは、お昼は赤いきつねと料理教室での出来事メモが私のお昼となった。

 たまに緑のたぬき。

 サクッサクの天ぷらがおいしいので緑は緑でいいな。

 そんなふうに気楽に考えていれば、そのうち碧はお弁当を作ってくれるようになるんだろう。

 そう信じて疑わなかった。

 

 異変が起こったのは、碧が料理教室に通い始めて2カ月が経過した頃だった。

 風呂敷に包まれていたのは封筒一通。

 その中にはお金。

 つまり、社食で済ませてくれ、ということだった。

「なんで赤いきつねじゃないんだろう」

 私はそう呟きながら封筒の中を覗き込む。

 メモは入っていない。

 社食はそれなりに美味しいのだけれど、私は社食のうどんよりもやっぱり赤いきつねが好きだ。


 風呂敷の中身が社食用のお金入りの封筒だけになって1週間。

 私はその理由を碧に聞けずにいた。

 赤いきつねでなくてしまったことも寂しいけれど、あの日記のようなメモを読めないはもっと寂しい。

 風呂敷の中身が封筒のたびに、私は大きなため息が出る。

 赤いきつねは私と碧を繋げてくれる大事なものだった。

 そしてあのメモからは碧の愛が感じられたのに。

 それがなくなった途端に、どんどん不安になる。


「ただいま」

 ある日、私は会社を午前中で早退してきた。

 風邪気味だったからだ。

 熱はないけれど、頭が痛くて喉も痛い。

 これでは仕事にならないと思って今日は早退するね、と碧にもメッセージを送信したのだけれど。

 いつまで経っても既読はつかなかった。


 家に帰ると、辺りはしんと静まり返っている。

 キッチンからかすかに出汁の良い香りがした。

 ひょいとキッチンを見て「えっ、なにこれ」と声が出た。

 キッチンには、大量の卵焼きがあったのだ。

 軽く10人分はありそう。

 卵焼きは、べちゃっと崩れているものや焦げているもの、ぺったんこのもの、スクランブルエッグみたいなものと色々とあった。

 だけど中には少し不格好だけれど、卵焼きの形をしているものもチラホラとある。

 私はキッチンを出て、寝室のドアをそっと開けてみた。

 ベッドの上で碧がぐっすりと眠っている。

 ドアを閉めようとすると、寝言が聞こえた。

「ううう~ん……。もう出汁巻き卵は食べられない……」

 なんという典型的な寝言。

 そして、あれは卵焼きじゃなくて、出汁巻き卵なのね。

 私の大好物だ。

 しかも、赤いきつねを食べた後の出汁を少し入れると美味しいよ、とも話したことがある。

 キッチンに戻ると、ゴミ箱には赤いきつねの空箱もいくつかあった。


 そこで私はようやく理解をした。

 最近、私のお昼が赤いきつねでなくなったのは、出汁巻き卵の出汁としてつかうため。   

 メモがないのは、出汁巻き卵を練習しているのを隠しているからだろうか。

 そしてお昼は失敗した出汁巻き卵を食べている、ということね。

「言ってくれればいいのに」

 私はそう呟いて、大量の出汁巻き卵の一切れに手を伸ばしかけて、やめた。

 お弁当に入る日を楽しみにしていよう。


「さーて、お昼お昼、っと」

 お昼休みになり、カバンからお弁当用の風呂敷を取り出す。

 今日はやけにずっしりと重い。

 風呂敷の形から察するに、赤いきつねのように見える。

 私はうれしくなった。

 じゃあ、今日はメモが入っているんだ。

 そう思って急いで風呂敷を開けて、驚いた。

 だって、そこには赤いきつねはなかった。

 代わりに丸っこいお弁当箱が入っていたのだ。

「とうとう……」

 私はそう口に出してから、そっとお弁当箱のふたを開ける。

「うわあ」

 思わず私は声を上げた。

 お弁当の中は、おにぎり、ミニハンバーグ、タコさんウィンナー、茹でたブロッコリー。

 それから出汁巻き卵も入っていた。

「いただきます」

 私は手を合わせ、さっそく出汁巻き卵に箸を伸ばす。

 きれいに巻かれた出汁巻き卵は、口に入れれば赤いきつねの優しい出汁の味が広がる。

 濃くもなく薄くもなく、ちょうど良い塩梅。

 今まで食べたどんな出汁巻き卵より美味しい。

 私は噛みしめるようにお弁当を食べた。

 夫が作ってくれた初めてのお弁当。

 きれいに完食してから気づく。

「写真撮っておけばよかった……!」


 その日の帰りに、私はコンビニへ寄ってそれから家へ帰った。

 晩ご飯は碧が作ったポークカレー。

 正直、本当に碧が作ったの? というくらいに美味しくておかわりまでした。


「ねー、これ食べない?」

 時計の針が23時をさしたころ、私は碧にそう言った。

「え、もう遅いよ」

「夜食だよー。明日は休みなんだから今日は夜ふかしして映画でも観ようよ」

「いいね。実は俺もさ」

 碧はそう言うと、キッチンから何かを持ってきた。

 こたつの上には、赤いきつねと緑のたぬきが2個ずつ。

「なーんだ。お互いにおんなじこと考えてたんだね」

 私が言うと、碧は笑いだす。


 私は赤いきつね、碧は緑のたぬき。

 出汁の香りが、リビングに広がる。

 おあげを噛めばじゅわっと甘く、ほどよくやわらかな麺は出汁によく絡む。

 私はちらりと碧を見る。

 碧も私を見て、二人して笑う。

 一人で食べる赤いきつねより、二人で食べる赤いきつねのほうがずっと美味しいな。

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赤いきつねと待ってる 花 千世子 @hanachoco

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