第6話 雨水の澱み
今日の雨は糸のようだ。こんな雨を
いつもの橋で彼を待つ私は、雨が止まってしまわないか、空から目を逸らすことが出来ずに上を見る。
すると橋の柱と横に伸びている鉄筋に、蜘蛛の巣が張り付いているのが見えた。彼が来たようだったが、その蜘蛛の巣から目を逸らすことが出来ずに沈黙が流れる。
その雨粒を飾る蜘蛛の巣を見て、ある話を思い出す。
蜘蛛の糸という話があったか。
地獄に落ちた罪人が生前に蜘蛛を助けた事で、お釈迦様から救いの手が伸べられる。蜘蛛の糸が天から下ろされてそれを無我夢中で登る。
私はもしかしたら、雨が降る梅雨の時期だけ姿を現すことを許されているのかもしれない。そんな不確定な考えが脳裏を過った。
蜘蛛の糸のように、そんな糸が今、私の元に下ろされるのだとしたら。私にも救いの手が、猶予が与えられているのだとすれば。
彼と離れたく無い。
そんな希望のような身勝手な考えが思いついた。
結局、その話は蜘蛛の糸がプツリと切れて終わってしまう。
嫌われものの梅雨は、儚い季節だ。きっともう終わる。私も、きっと。
「綺麗だね」
彼の言葉で我に帰る。ドキリとした。蜘蛛の巣のことか…。彼が隣にいたのを忘れていた。そんなことを考えてしまっていたことに、罪悪感を覚える。
しかし、一瞬でもその言葉が自分のことだと思ってしまったことへの気恥ずかしさが勝る。私の顔は熱を残して、「行こっか」と言った。
今日は行きたいところがある。
着いた。ここは線路沿いのフェンスと紫陽花に沿って作られている小道だ。
私のお気に入りの場所だ。いつか、彼と来たいと思っていた。
今日来られてよかった…。安堵感とともに雨がさらさらと紫陽花の上に落ちてゆく。
狭いので二人で横に並ぶことは出来ないけれど、二人だけの場所だと勘違いするほど、人は居ない。秘密基地のようだ。
2人の呼吸さえも聴こえるくらい静かだ。彼が息を浅く吸った音が聞こえた。
「君はずっと何処へ行っていたの」
彼は躊躇しながらも、私にそう聞いた。
きっとあの一年分のことだ。
すぐに言葉が出てこない。きっと彼はまだ気づいていない。
このまま、何も言わなければ幸せな時間が続くだろうか。
そんな考えがずっと頭の中を巡り、上手く答えられない。口を噤む。雨音と呼吸だけが聞こえる。
「ごめんなさい。答えられないの」
そう答えていた。右の線路は沈黙を守る。
「ここ、私のお気に入りなの。」
分が悪くなり、話を逸らしてしまった。それでも彼は何も言わずに私の話を聞いてくれた。
「素敵な場所だね」
「私、紫陽花の中でも白色の紫陽花が好きなの」
気がつけばそんなことを口走っていた。
白い紫陽花の花言葉は、ひたむきな愛情だ。
こんなことを言ったら彼は困るだろうか。
少しの沈黙が苦しい。喉にある塊を無視して私は言った。
「紫陽花には謙虚って言葉があるらしいよ。私みたいでしょ?」
咄嗟に出した言葉はこれだった。
胸がきゅっと悲鳴をあげた。自分が言ったことで傷ついているなんて、私はなんて愚かなんだろう。
彼は、私の言葉に「そうだね」と返してくれる。
彼の優しさが私の心を蝕んでいくようだ。
私は彼を道連れにしようとしているのに。
紫陽花が冷たく私達を包み込む。
湿気の匂いで身体が重い。雨が降っているのに体が重たくなるなんて。
なんとなく、梅雨が続くのは明日までのような気がした。
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