第4話 眩暈

 その光に目を眩ませていると、瞬間に自分が宙に浮いているような感覚になった。目の前ががいつもと違う感覚だ。

 一瞬、気になって下を見ると、本当に宙に浮いているんだ!

 私は混乱してとりあえず何処かへ捕まろうと足をばたつかせてみるが、不安定な姿勢になるだけで余計気持ちが悪い。

 思えば自分の身体も少し溶けて見えるような。あの一瞬で私は死んでしまったのだろうか?そんな仮説が一瞬脳裏を過った。


 しばらく色々試した結果、とりあえず落ちることは無いようだ。

 そして先ほど人が前を通り過ぎていったが、私には目もくれず、行ってしまった。

 ……どうやら私は見えないらしい。先程の仮説が強まった。


 そういえば、場所には違和感を感じないと思ったら、眩暈がする前にいた場所と、殆ど変わりはない。

 いつも私が好んで行っている紫陽花の花壇の上の方を、ゆらゆらと浮遊している。

 なんとも気味が悪い。


 そんな不思議な感覚が慣れてきたころ、前方に女の人が歩いているのが目に止まった。

 ふと気にかかる点を見つけたのだ。

 あの髪飾りはいつも私がつけているのと同じもののようだ。それよりも、あの傘。あれは私がいつも大切にしている傘だ。

 そんな偶然に首を捻らす。その女性をじっと見つめる。顔も自分とそっくりのようだ。自分がもう一人いる……?

 自分が二人いるという違和感に、この場所の不気味さを感じる。そんなことを思った。


 その瞬間。


 前方から車がガードレールを乗り出してこちらへ突っ込んでくる。

 私、目の前の私は、衝撃で花壇に激突し、そのあと力の無い身体がぼとりと、凹んだガードレールを横に地面に打ち付けられる。


 タイルの上の赤い海に私が項垂れていた。




 先程の一瞬。瞬きをして目を開いた瞬間だった。視界には赤色が広がっていた。痛々しく見える私の中身は、自分でもはっきりとは見ることが出来ず、身の毛もよだつ気持ちだ。

 これは私が迎えた結末だというのか。

 それともこれは走馬灯だろうか。



 さっきいた場所から近いということは、彼は。彼は何処にいるのだろうか。彼は無事だろうか。

 そんな心配を横目に、それからの出来事は瞬く間に過ぎていった。

 横を通りかかった歩行者が警察に連絡し、パトカーが到着した。車に乗っていた人は泥酔していたように見えた。その人はそのまま警察官に連れて行かれ、車や死体の処理する人達が、機械的に片付けるのを見ているうちに、時間は経過した。



 人が死んだというのに、こんなに呆気なく終わってしまって良いのだろうか。

 私は呆然と見下ろしていた。周りの家の灯りは殆ど消えている。


 辺りは真っ暗だ。



 真っ暗闇の中、誰かがこちらへ向かってくるのが見えた。目を凝らして見ると、彼が向こうから歩いてくる。光が刺したように、視界が少しばかり明るくなった気がした。

 よかった、彼は無事のようだ。

 しかし、おぼつかない足取りの彼は、今まで見たことが無いくらいにやつれていた。ふらふらに歩く彼から、ふわりと酒の匂いがした。この位置からでも嗅ぐことができるなんてどれだけ飲んだのだろうか。そういえば鼻はきくみたいだ。彼の右手には空き缶が握られている。酒を大量に飲んだらしい。普段ならば彼は暴飲するような人では無い。


 花壇の手前、ガードレールはまだ凹んだままだ。地面は、血溜まりのあった場所が消されるように不自然に水気を含んでいる。

 ふらふらの足で彼はその場所に膝を着く。項垂れる。


 彼は額を地面につけて泣いた。その涙は先ほど見た涙、眩暈がする前に見た涙、とはまた別の、篠突しのつく雨のような、涙だった。

 それは見ているだけで胸が痛いものだった。頬を限りなく流れる涙に、私は救われたような、胸が苦しいような、そんな気持ちで彼を瞬きもせず見ていた。


 しばらくして、彼は空き缶を乱暴に掲げて花壇に上半身を乗せる。ガツンと空き缶が荒々しく鳴る。

「くそっ」

 彼にしては乱暴な口調で、拳を花壇に叩きつけた。手には少しぼこぼこした跡がついて、血が少しだけ滲んでいた。土が彼の頬を汚している。

「こんなの君が消えていい理由にならない」

 そう悔しそうに嘆くそれが、私の胸を強く打つ。彼は花壇に項垂うなだれながら静かに泣く。

 その姿が私の胸をさらに締め付けた。


 彼はその花壇の傍にぽつりと咲いている紫苑しおんを花壇から乱暴に掴み取り、握っていた空き缶に差し込んだ。そして花壇から上半身を下ろし、花壇を背にして、その場に座り込んでしまった。



 その日からの空模様はしばらく長雨であった。

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