四片の記憶
第1話 返り梅雨
雨の音で目を覚ます。かなりの土砂降りだ。今が何時かはよくわからないけど、気分はとても良い。
自分で言うのもなんだか変だけれど、雨の日に気分が良いと言う人は珍しい気がする。
家の中で雨の音を聴くのは心地良いけれど、わざわざ外に出て濡れに行くのは少し面倒くさい。こんな風に出来ることを自分で狭めていることに気がつくのも、雨の日の雰囲気が少し暗いからだったりするのかな。
雨の日には思い入れがあるけれど、こんなふうに気分が高揚するのは初めてだ。
理由はわからないが昨日とはまるで違っていて、気持ちが晴れ晴れとしている。
昨日まで体が重たくて動けなかったが、それが嘘のように、今にも踊り出しそうな気分だった。
そんな気持ちを抑えきれず、私は外へ駆け出した。
傘を肩に乗せながら、仰ぎ見る。灰色の空から無数に降ってくる雨粒が、今にも目に入りそうでわくわくした。
このスリル感が
足は濡れることを気にせず前へ進んでいく。水溜りに足が浸かって、靴が沢山の水を含む。
いつもなら心地悪い感覚は、今日は何処かへ行ってしまったみたいだ。
この傘と一緒に、こんな気分だとあの時のことを思い出す。
__
あの日もこんな土砂降りだった。
その日も彼と一緒に散歩していた。急に雨が強くなり、私達は雨宿りしにいつものカフェへ走る。
慌ててついた席。
私は椅子に傘を立てかける。彼はその傘を見て、
「その傘、君に似合ってる」
少し照れた顔でそう言った。少しだけ耳が赤らんでいることに気がついて、心臓が鼓動を早める。
勇気を出して言ってくれたことに気がついて、それがとても嬉しくて表情が緩んだ。
__
ひとつひとつ鮮明に思い出せるぐらい、嬉しい出来事だった。それだけでは無く、彼の言葉の選びかたは人の心に響くものがある。
彼の言葉には力があった。私は彼のひとつひとつの丁寧な言葉運びが大好きだ。彼の言葉は人の心を柔らかくする。
そんなことを思ってまた表情が緩む。
彼は今日も居るだろうか。
体感だともう一週間ぐらい、会っていないように思う。
彼といつも待ち合わせをしていた場所がある。私は自然とそこへ向かっていた。
そこは私にとって何かが始まる特別な場所になっていた。
そういえば一週間前だったか、彼と会う約束していたんだった。彼は怒ってはいないだろうか。一週間も約束を放ってしまっていたので、少しだけ申し訳なくなる。
そんなことを思っていると、あの場所が近づいてくる。
しかし彼はそこには居ないようだった。
いつもは私の方が先にいることが多い。
…今日もそうだろうか。
そんな淡い期待を抱いて、少し待ってみることにした。
雨の音が心地よい。傘も役に立たないぐらいの雨だが、それが楽しい。この場所には雨の音と自分しか居ないのだと錯覚してしまう。
遠くの方では、蛙の賑やかな鳴き声や、遠くを走る車の水を跳ねる音が微かに聞こえていた。
そんな音に耳を傾けていると、遠くから、ぱた、ぱた、となにかが鳴る音が聞こえてくる。そしてその音が少しスピードを上げて、段々近くなってくる。
こちらへ向かってくるみたいだ。
音のする方へ向くと、彼が立っていた。
怒っているのだろうか。謝らなくては。
「ごめんなさい」
と、彼が驚いた顔を見て、早とちりしてしまったのだと気がつく。彼はその眉が上がった顔を崩さずにいるので、
「あの……この前約束を破ってしまったから……」
そう私が言うと、あぁ……と、まだ理解できていないような顔をした。
なんだか久しぶりだ。期待していたけれど、本当に会えたことが嬉しくて笑みが溢れた。
私は彼を見ながら思い出したように言った。
「久しぶり」
気がつけばそんな言葉が出ていた。会えたことが嬉しくてさっきの罪悪感が飛んでしまった。申し訳ないと思いつつ私の気分は舞い上がっていた。
雨は地面を跳ねて、黒いアスファルトに溶け込んでいく。
一週間会っていないだけなのに、もうずっと会っていなかったようなそんな不思議な感覚に少しだけ鳥肌が立った。自分の腕を摩る。雨で濡れたのか、透けているように見えた気がした。雨の音が私の鼓動の音を鮮明にする。
その後、私は少し強引に明日も会う約束を取り付けて、高揚した気分を落ち着けるようにその場を去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます