第4話 雲の糸

 次の日、窓から外を覗くと微かではあるが、昨日の雨が降り続いているようだった。

 僕の切実な願いは叶ったようだ。

 僕はちょっとの安心と、少しの期待を寄せる。雨が止んでしまう前に早めに外に出よう。


 僕にとって雨の日は一瞬で特別な日になっていた。


 降る雨が小降りなので歩きやすい。

 土曜日は散歩のコースを少し変えている。その通りに少し遠回りをしようと思ったが、僕の足はいつも通りあの橋へ向かっていた。


 彼女のことが頭から離れない。


 もしかしたらまた居なくなってしまうかもしれないという恐怖が、何処からか湧き上がっていた。



 橋が見えてくると、僕は安堵した。いつものように彼女と傘のシルエットが姿を表した。

 僕が早足で彼女の元へ向かうと、彼女は傘を傾けて上の方に気を取られていた。



「こういう糸みたいに細い雨を糸雨しうっていうんだよ」

 静かな沈黙を破るように、急に彼女が言った。彼女が見上げている方を見ると、蜘蛛の巣が雨粒によって綺麗な飾りになっていた。

「綺麗だね」

 僕がそう言うと彼女は恥ずかしそうに笑って、行こっか、と言った。

 僕が頷くと彼女は行きたい所があるの、と言って、いつもより少し早足で歩き始めた。


 僕はその少し後ろをついて行く。早足で歩く君は雨の中に溶け込んで消えてしまいそうで、必死に後をついて行った。



 しばらく歩くと、細い道に入った。右には線路がフェンスで区切られ、左には紫陽花が宝箱の中の宝石のように、ぎゅうぎゅうに詰められていた。白や紫、ピンクなどが、ここに迷い込んできた人達を迎えるように咲いていた。ここだけ、おとぎばなしような雰囲気だ。

「ここ、私のお気に入りなの」

「素敵だね」

「私紫陽花の中でも白色の紫陽花が好きなの」

 そう言って、彼女は頬を赤らめて少し躊躇とまどいながら口を開く。

 言いかけた所で彼女は口を閉じてしまった。

「紫陽花には謙虚って意味があるらしいよ。……私みたいでしょ?」

 そうやってはにかんだ。

 僕はその顔がものすごく悲しくて、口を噤む。

 君はいつもそうやって誤魔化す。

 彼女が何を言おうとしたかは分からなくても、その言葉が彼女の優しさからきたものだというのは、ずっと一緒にいた僕からすれば明らかだった。

 僕は彼女の優しさを受け取るといつも悲しくてなんとも言えない気持ちになる。

 僕はなんて言ったらいいかわからなくて、そうだね、とだけ返した。


 雨は糸のように紫陽花に降り注ぐ。紫陽花はそれを静かに受け取るように佇む。


 僕達はほんの一瞬、寂しさに囲まれた時間を過ごした。


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