17.文化部には勿体ない腕力
「というか普通に突っ込み損ねたんだが、なんでお前『おはようございます』なんて言って入ってきた? もう夕方なんだが」
「えっ、その日初めてせんぱいに会ったら、たとえ夜中でも『おはようございます』が常識じゃないです?」
「いや、俺にとってはだいぶ非常識なんだが……」
社会人だと夕方に出社しても『おはようございます』と言うことがあるとは聞くが、ここ学校だし。
それとも運動部ではこれが当たり前だったのだろうか。なんにせよ俺には理解できない律儀さだ。
「中学の時は、そんな感じだったのか?」
「はい?」
「お前、水泳部だったんだろ。兄貴と同じで」
「……せんぱい、覚えてたんですか?」
突然、芥川の雰囲気が変わる。
それこそ、本当の
「いや、今朝お前の兄貴から聞いただけだ」
「……そですか。ですよね」
「なんだよ、その反応は」
「いえいえ、なんでもないですよぉ。きっとそんなことだろうって思ってましたから」
一瞬垣間見せたしおらしさはどこへやら、また普段通りの笑みを取り戻している。
あまり突っ込まれたくない話題だったのだろうか……いや、そこまで気を遣うほどの間柄でもないだろう。
「なんで水泳部を辞めてデブ研に入ったんだ。ここにプールはないぞ」
「せんぱいもジョークを言ったりするんですね。あんまり面白くないですけど」
「余計なお世話だ。というか質問に答えろ」
「うーん、なんというかですね、あれですよあれ。水中じゃない方があたしの力を発揮できると思った的な」
「陸上部へ行け」
「運動部はもうやだったんですよぉ。毎日練習練習でくたくたになりますし、自由な時間もないですし、おまけに筋肉つき過ぎると洋服選びも大変になっちゃいますし」
「最後のおまけに関しては、あまり悩むほどでもなさそうな感じに見えるけどな」
「あっ、今あたしの筋肉を侮りましたね? こう見えても意外と引き締まってるんですよぉ。触ってみます?」
「バカ言うな。興味ない」
「そう言わずにぃ、ほらほらぁ」
芥川はさささっと俺の背後に回ると、間髪容れることなく俺に抱き着いてきた。
「お、おいっ。なにやってんだお前……!」
「どうです? 細マッチョ感、ちゃんと伝わってますか?」
からかうように言いながら、ぎゅうっと抱擁を強めてくる。
質問に素直に答えるならばNOだった。伝わってくるのは後頭部を包む柔らかな感触や芥川の体温だけで、いわゆるマッチョ感など微塵も感じられない。
強いて言えば、抱き締めるための
「せんぱいの髪、さらさらですねぇ。シャンプーなに使ってるんですかぁ?」
「おい、離せバカ……か、髪に頬ずりするのもやめろっ」
「いいじゃないですかぁ、減るものじゃないですし」
「げ、厳密に言えば髪は減るものだ」
「わっ、意外と禿げるの気にするタイプなんですか? でもせんぱいはきっと大丈夫ですよぉ。禿げても明るい将来が待ってると思いますから」
いや、そこは禿げる将来を否定してほしかったが……。
なんて内心で突っ込んでいる場合ではない。
こんなところ、また予備校前に顔を見せにきた柊先輩に見られでもしたら――、
「……これは中々、啓蒙高いプレイね」
ドアの方から声。
見ると、柊先輩が立っていた。
いつの間にドアを開けていたんだ、この人は。
「後輩の女の子に後ろから後頭部を抱き締められる……なるほど、そういうことね」
「待ってください柊先輩。なにか今とんでもない誤解が……」
「安心して萩原君。私はようやく得心がいったの。この前テレビで見たんだけど、最近流行っている言葉に『バブみ』というものがあるらしいわね。つまりこれがそういうことよね」
「いや、俺はテレビ見ないんでそういうのは……」
「大丈夫よ萩原君。あなたの性癖はそれほど異常ではないわ。むしろファッショナブルだと思うから……私には、少し理解したがたいけど」
二割フォロー、八割どん底に叩き落とされるような言葉だった。
いや、前半もほとんどフォローになっていないから十割絶望かもしれない……。
「あ、私は顔を見せにきただけだから。気にせず、二人でごゆっくりね」
「ちょ、柊先輩―― 」
バタン。ドアが閉じられた。
芥川がいるのにこれほど部室が静寂に包まれたのは初めてかもしれない。
「……せんぱいって、ラブコメの主人公みたいですね。フラグは折れたっぽいですけど」
「だとしたらお前が折ったんだろうが……」
「あっ、やっぱり元部長さんのこと好きなんですね。可愛いところありますね、せんぱいも」
「うるせえよ……」
その後すぐ、芥川は抱き着くのをやめて離れてくれた。
しかし俺の動悸はしばらく収まらず、平常心を取り戻すのにかなりの時間を要してしまった……。
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