父親
思い切り開けた、ドアの向こうにそれはあった。
腐った肉の臭い。むせるような熱気。
ギ、ギ。ギギ。
テーブルが床とこすれる耳障りな音。
鬼三郎は目を疑った。
鬼……。
他に形容する言葉がなかった。太い腕と足を持つ赤黒く巨大な筋肉の塊。下顎から上に伸びる鋭い牙。優に二メートルはあるその化け物は、子どもの頃に聞いた鬼の姿そのものだった。
血のように赤い目が光を灯している。何かを喰ったばかりなのだろうか。耳まで裂けた大きな口からは、どす黒い血が溢れていた。
鬼は、居間にあった頑丈なテーブルで壁に押しつけられていた。筋肉が膨張し、全身から蒸気が発散している。自分を押し潰そうとする力を、逆に押し返そうとして。そのたびにテーブルの脚が音を立てる。
テーブルを押しているのもまた、鬼だった。ただし、そっちの鬼は青い。それもかなり小さい。
その体躯はせいぜい赤黒い鬼の半分でしかなかった。ただし、筋肉の塊のような姿であることに変わりはない。
圧倒的な力の差がありそうなのに、どういうわけか双方の間には奇妙な均衡が保たれていた。
重量感のあるテーブルが、両者の間で軋んだ。真鍮製の枠に厚い板を張った高級品だ。そうでもなければ、ずっと前に木っ端微塵に砕けていただろう。
「外へ出ていろ!」
鋭い声がした。
その男は和服を着ていた。いや、写真で見たことがある。修験者の着る服だ。霊山で修行する人間のことを、昔からそう言うらしい。脂汗を滴らせながら、絶えず指を動かし、不思議な形を結んでいる。印、というものだろうか。
佑子のか細い悲鳴が鬼三郎を振り返らせた。
「お兄ちゃん、お母さんが……」
鬼三郎は言われるまで気がつかなかった。目の前にいたのに。
部屋の手前、修験者に守られるように右隅にうずくまっている女性。鬼三郎の母親は弱々しい視線を鬼三郎に向けていた。ただ足が……ない。大量に溜まった血が絨毯を盛り上げている。血の気のない真っ青な唇を必死に動かしているが、声はほとんど聞こえない。ただ、口の形は人の名前を呼んでいる。
きさぶろう。
きさぶろう。きさぶろう。
「佑子、警察を呼んでこい。救急隊員もだ。止血の道具と担架がいる。わかるな」
「うん」
佑子が飛ぶように出て行く。これでいい。今は、少しでもここから離れていて欲しい。
「母さん、話そうとしないで。僕はここにいるから」
鬼三郎が母親に触れようとした時。鬼が縦に溝のある、その赤い瞳を動かした。
「ふん、出来損ないめが……」
その声に鬼三郎は凍りついた。知っている。その声を知っている
めき、めきめき。
不気味な音と共に鬼の顔の筋肉が動き、形が変わっていった。黒い髪が生え、眉がその形になる。牙が口の中に収まり、顎が後退していく。
鬼三郎は、口を両手で塞いで吐き気を抑えようとした。流れ込む大量の涙とこみ上げる酸っぱい胃液が口の中で混ざる。
「どうした、その顔は。よく見ろ。自分の父親の顔だぞ。まさか初めて見たわけでもないだろう」
「関わるな、去れ。おまえの母はもう助からない。ここにいると、おまえも死ぬぞ」
修験者が叫んだ。
だが、鬼三郎は父の顔から目を背けることができなかった。父の顔をした物は、嘲るように喉を鳴らした。
「何を黙っている。今なら逃げられるぞ。この小さな鬼にできるのは、せいぜいあと数分、足止めをすることだけだ。
この式神は確かに強い。だが、ずっと人を喰らっていないから、こんなにも小さく萎んでしまった。今はこの男が邪魔をしているが、巫力が尽きたら、俺はこいつと式神を喰い殺す。その次はおまえだ。この場で死にたくないなら、さっさと逃げるがいい」
「母さんをどうした」
「どうもこうもない。見たままだ。足を喰らってやった」
その顔はぞっとするような笑みを浮かべた。
「おまえも、嫌なくらい見ただろう。こいつは俺をさげすんだ。家族のために働いている俺に感謝もせずに、つまらないことで責め立てた。
浮気だと? 女の一人や二人、なんだ。俺がどんな競争をしてきたかわかるか。寝る間も惜しんで国のために働いてきたんだ。それを、休日は子どもと遊んでやれ? 旅行に連れて行け? そんなだから俺は、山口の奴に嵌められたんだ。次の事務次官になるのは俺のはずだった。同期の中で一番優秀なのは俺だ。他の誰でもない」
鬼三郎の父は通産省の官僚としてエリートコースを歩んでいた。山口という名前は聞いたことがある。同期のライバルらしい。卑劣な小者。それが父の下した評価だった。
「だから、殺してやった。鬼と契約して喰ってやった。おまえらも必要ない。人でなくなるのに家族は邪魔だからな。口うるさい妻と、出来損ないの息子も殺すことにした。だが、おまえは最後だ。今は殺さん。絶望を味わえ。俺の無念の半分でもいいから味わってから死ね」
力の均衡が崩れ、テーブルが弾かれるように倒れた。父親の顔をした鬼が、小さく青い鬼を殴り飛ばす。赤黒い血が散って、小鬼が床を跳ねて転がった。
「
小鬼の名なのだろう。修験者がそう呼んだ。
同時に懐から銀色の拳銃を出し、続けて撃つ。六発。そして、最後にカチリという音。弾倉が空になる。
だか銃弾は、鬼の動きを一時的に止めただけだった。肉が盛り上がり、銃弾が浮いて床に落ちる。
ひとつ。
そしてもうひとつ。
コトン、カラカラ。銀色の弾丸が床を跳ねる。
「巫力を込めた銀の銃弾か。ふむ、選択は悪くない。だが相手が悪かったな。そこらにいるような雑魚ならば殺すこともできようが、俺についた鬼は本物の戦士だ。こんなものは痛くも痒くもない。構うのも、もう飽きた。そろそろ死ね」
修験者は拳銃を投げ捨てた。鋭く叫ぶ。
「玄鬼、人を喰うことを許す。わしの左腕を喰え。喰って戦え」
伏していた小鬼がピクリと動き、跳躍した。そして牙のある大きな口が開く。
血飛沫がぱあっと広がった。
鬼三郎は目を閉じた。
かかる血をただ避けようとしたのか、怖かったのか。自分でもわからない。ただ、見たくはなかった。その後に聞こえたのは、正に地獄だった。
ごきり。ががぐ。
骨が砕ける音。人を喰う音だ。耳を塞ぎたくなる。
鬼三郎が再び目を開けた時、玄鬼という鬼は、体積で言えば倍ほどに膨れていた。敵に向かって真っ直ぐに突進していく。だがその振り上げた爪の一撃は、あっさりともう一体の鬼に止められた。
「残念だったな。千年経ってその力なら、さぞかし昔は名のある鬼神だったのだろう。だが、これではまだ物足りぬ」
小鬼は腕をつかまれ、そのまま壁に投げつけられた。ぐしゃり。鈍い音がする。妙な形に体が捻れている。骨が折れたのかも知れない。
「陰陽師が操る式神は強いと聞いたが、年を経るとこんなものか。どちらにせよ、噂ほどではないな。さあ、殺してやろう。喰ろうてやろう。向かってこい。本当は誰が強いのかを教えてやる」
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