2 鬼三郎

鬼三郎

 やーい、鬼の子。鬼の子。


 子どもの頃。鬼三郎きさぶろうは友だちから、よくそうからかわれた。

 どうしてそんな名前をつけたのか。学校でいじめられ、泣いて帰った日。そう聞くと、母親は鬼三郎の肩をたたいてこう答えた。


「それでいいのよ。そのお陰で、鬼三郎はいつも元気でいるでしょう。強くおなりなさい。そんなつまらないことで馬鹿にする友だちなんか、笑い飛ばすくらいに強くなりなさい。

 鬼三郎は知っている? 神様は気に入った子どもに印をつけて、天国に連れて行ってしまうのよ。だから母さんは、わざと神様が嫌がるような名前をつけたの。よく考えてみて。名前が鬼なら、神様だって連れて行こうとは思わないでしょう。神様になんて愛されなくてもいい。母さんは、鬼三郎が生きているだけで幸せなんだから」


 断片的に聞いた話では、鬼三郎には双子の兄がいたらしい。

 神一郎と神二郎。色が白くて、まるで天使のように可愛い子どもだったという。三歳になったばかりの時に、二人ともトラックに撥ねられて死んだ。家から数メートル先。母親が目を離した、ほんの僅かの間のことだった。


 あの子たちは神様に愛されたから天に召されたのよ。伯母にそう慰められた時、鬼三郎の母親は一瞬、鬼のように怖い目をしたらしい。

 そして次に生まれた息子には、夫や親族の反対を押し切って鬼三郎という名前をつけた。この子は三人分だから。娘が生まれた後も、母親は鬼三郎を溺愛した。



「お父さん、怒ってたよ」

 佑子が鬼三郎の前に出た。

 ふわりと髪が揺れる。学生鞄を前にまっすぐに伸ばした両手で持ち、腰を少し曲げる。お気に入りのポーズらしい。


「何を?」


「わかってる癖に」


「また、大学のことか。親父が自分で行くわけじゃないのに、いちいちうるせえんだよ」


「そういう反抗的なところがダメなんだよ。東大、受験しないって言ったんでしょう。私、お兄ちゃんなら行けると思うんだよなあ」


「軽く言うなよ。親父が行けって言うのは、法学部だぜ。それに、それで終わりじゃないんだ。司法試験も取っておけ。国家公務員の上級試験を受けて、通産省の官僚になれ。エリート官僚になって、日本を動かせ……」


「それができなきゃ、柴崎家の長男じゃない」

 佑子が父親の口癖を真似た。色白の肌、ほんのりとピンク色の頰に笑窪ができる。


「からかうなよ」


「でも、私はお兄ちゃんが大学落ちて、良かったと思ってるんだよ。こうして遅くなったら迎えに来てくれるし。前より話せるようになったし。お父さんには悪いけどね。ようやく、お兄ちゃんを独り占めできた感じ」


 鬼三郎は何か言い返そうかと思ったが、その前に佑子に腕を取られてしまった。ぐいっと引っ張られる。

「さあ、行こう。あんまりぐずぐずしてると、テレビを見逃しちゃう」


「そんなもの、見なくてもいいだろう」


「うちはお嬢様学校だから、家にテレビがあるのが普通なの。お兄ちゃんはいいけど。話題に乗り遅れるのって、女子高生には致命的なことんだよ」


「勝手なやつだな」


 自分で立ち止まった癖に。

 鬼三郎は苦笑した。妹が毎晩、ブラウン管にかじりつくように見ているテレビ番組には全く興味がなかったが、どうせこいつには敵わない。鬼三郎は佑子につられるように足を速めた。


 いつの間にか道はもう、登り坂になっている。

 さっきまでとは違い、ここからは道も舗装されて街灯も多くなってくる。小高い丘に造成された住宅街の区画はどれも二百坪以上。一般的な建売住宅の数倍だ。高級官僚や企業の役員ばかりが住んでいる地区だから、巡回の警察官も多い。女性の一人歩きでも安全だ。普段なら、ここまで来るとほっとする。


 だが、今夜は気配が違った。

 生ぬるい空気が、体にまとわりついてくる。

 左腕に絡んだ佑子の感触に、ぎゅっと力がこもる。どうしてかわからないが、前に進みたくない。鬼三郎がそう思ったのと同時に、佑子の足が止まった。


「あれ……」

 指差した先に車が停まっている。四、五台。それも鬼三郎の家の前だ。四角い箱のような白い車と、黒と白、ツートンカラーのセダン。誰でも知っている車。救急車とパトカーだ。

 でも、サイレンもライトも点灯していない。暗い道端で、制服の警官や白い服を着た救急隊員が集まって。まるで蛍の群のように、薄ぼんやりと光る煙草を吸っている。


「行こう」


 鬼三郎は佑子の腕を引きながら先に進んだ。

 佑子を迎えに自宅を出たのが三十分前。その時、母親は二人のための夕食の準備をしていた。


「おい、君たちは誰だ」

 鬼三郎たちに気づいた警官の一人が進路を塞いだ。


「あの家の者です。何かあったんですか」


 警官は慌てたような顔をした。仲間を探しながら後ろを向く。

「誰か来てくれ。柴崎さんの家の子どもだ。ここに二人ともいる」


「何があったんです」

 鬼三郎が聞くと、警官は困ったような顔をした。指に持っていた短い煙草を道に投げ捨てる。光の線が、弧を描いて落ちていく。


「それが、わからないんだ。俺だって、本庁からの命令で来たばかりだからな。ただ、指示があるまでは誰も屋敷に入れるなと言われている。まあ、そうだな。とりあえず、いいと言うまではパトカーの中にでもいてくれ。夕食どきなのに悪いな。腹は減ってないか」


 鬼三郎は素早くあたりを観察した。

 パトカーは三台。門のすぐ横の路上に停めてある。車の外にいる警官は五人。ここに向かっている警官の他に、ボンネットにもたれかかって煙草を吸っている男が三人。

 この警官の言う通りかもしれない。みんなバラバラ。目的もわからずに、ただ集められたという感じだ。


「サイレンはともかくとして。どうしてライトまで消しているんですか。それに、門も開いたままです。先に誰か中に入ったんでしょう」


「それも上からの指示だ。中のことは知らん。これ以上は聞いても無駄だぞ。本当にそれしか知らないんだ」


 別の若い警官が駆け寄ってきた。

「根本さん、この人たちですか?」


「ああ、パトカーに案内してくれ。夜食に買ったアンパンと牛乳が後ろのシートに置いてある。食わせてやってもいいぞ」


「じゃあ、こっちに……」

 突然、佑子が鞄を鬼三郎にドンと押しつけた。警官たちの不意を突き、走り出す。


「おい、ちょっと待つんだ」

 佑子はリレーの選手になったこともある。足が速いだけでなく、思い切りもいい。

 警官が鬼三郎から目を離した。


 よし。行ける。


 鬼三郎も妹に続いた。

 家には母親がいたはずだ。そこに誰かが侵入した。警官が遠巻きにしている。わかっているのはそれだけだ。

 鬼三郎の家は庶民の感覚からすれば豪邸だった。三代続く官僚の家系だ。西洋風の建築で二階建て。車庫には自家用車もある。


 門から入って、暗い庭を突っ切る。庭は芝生で埋まっているが、レンガでできた通路が真っ直ぐにのびている。

 人の気配はあった。玄関だけでなく、窓からも明かりが漏れている。


「おいやめろ。待て」


「自分の家です。好きにします」

 走りながら、鬼三郎は後ろの警官たちに向かって言い放った。追いかけてくる気配はない。これも上からの指示なのだろうか。


「お兄ちゃん、ごめん」

 佑子が走りながら神三郎に詫びた。


「いいさ。俺だって母さんのことが心配だ。それにどうせ、大人しく待ってなんかいられないだろう。でも、いいな。俺が先に行く。おまえは後からついてこい」


 佑子を追い越し、玄関にたどり着く。ドアについたレバーを下げると、そのまますっと動いた。鍵はかかっていない。

 鬼三郎は舌打ちした。母親はそんな無用心なことはしない。何か異常なことが起こっている。それは間違いない。


「土足で入るぞ」

 佑子の鞄を玄関に投げ、不安に背中を押されるようにして、鬼三郎はそのまま段差を駆け上がった。廊下に泥がついている。誰かが先に上がった跡だ。居間のある場所まで続いている。それを追いかけるように一気に距離を詰め、ドアに手を伸ばす。


 だが鬼三郎は、次に自分がした行動をずっとのちになるまで悔やんでいた。

 勢いのまま、ろくに考えもせずに居間のドアを開けてしまったこと。ただそれだけのこと。

 

 ドアを開けないという選択肢はなかった。それは理解している。開けなかったとしても事実は何も変わらない。

 しかし、開けたから。開けてしまったから時間は前に進んでしまった。決して引き返せない未来に……。

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