依頼
「さてと……」
神三郎が遠慮がちに口をはさんだ。
「そろそろ、僕に会いに来た本当の理由を聞かせてくれないか。ただ、挨拶するためだけに来たわけじゃあないんだろう」
「はい」
もちろんだ。そのために涼子は準備してきた。
膝に置いたポーチから茶封筒を取り出し、神三郎の前にすっと差し出す。
「これは?」
「仕事の依頼です。本当はお礼もしないといけないんですが、先にこれであなたを雇わせてください」
「探偵としての仕事かな」
「正直、よくわかりません。でも、あなたにしかできないことです。志穂を救ってください。志穂を操っている鬼神を倒して、志穂を人間に戻してください」
「難しいことを言うな……」
神三郎はスラックスのポケットから煙草の箱を出した。包装のセロファンが破れ、くしゃくしゃに潰れている。指を突っ込むようにして切り口を広げてから箱を下に向けて振ったが、中身は一本も出てこない。
「紫苑、煙草を買ってきてくれないか」
「駄目じゃ。一日にひと箱だけと決めたであろう」
「一本だけでいいんだ。残りは吸わない。明日に取っておく」
「駄目じゃ。煙草は体に悪いとテレビで言うておった。これは神三郎様の健康を思って言うのだぞ。もちろん妾は奴隷じゃから、それでもと命令されればそうするしかない。妾の心まで奴隷にしたければ、そう言うがよい」
神三郎はやれやれという顔をした。
「煙草を吸えない探偵なんて、絵にもならないな。まあ、仕方ない。話に戻ろう。お嬢さん、探偵を雇うのにいくらかかるか知っているのかい」
「涼子と呼んでください。ここでは名前で呼ぶのがルールなんでしょう」
「ああ、そうだったな。涼子くん。僕が探偵の看板を出しているのは生活のためだ。普通は着手料と日当、必要経費と成功報酬をもらう。ただしこの探偵事務所は特別でね。成功報酬のみで、一律百万円だ。値引きはしたことがない」
「百万円……」
その金額を聞いて、涼子は愕然とした。封筒の中には十万円しか入っていない。
それでも涼子にとっては大金だった。
このお金のうちの八万円は、祖母に頼みこんで貸してもらったものだ。涼子名義の通帳は親が持っているから勝手に引き出す事はできない。手元にあったのは貯金箱の中身を合わせても二万円ちょっと。手付金にもならないことくらい、いくら世間知らずの自分でもわかる。
お金を貸してください。そう言い出した時、もちろん祖母には理由を聞かれた。
何かあったのかい。祖母は怒らずにそう言ってくれた。でも、鬼のことは話せない。涼子は黙って、必死に頭を下げ続けた。
早まったことだけはするんじゃないよ。
そう言って箪笥の奥からお金を出してくれた祖母を、涼子は心の中で何度も拝んだ。振袖を買うために取ってあるお金があるから、もっと必要なら言いなさい。大丈夫だよ。成人式までには、また何とか貯めるから。
そんな祖母に、もうこれ以上甘えることはできない。
「ごめんなさい。ここには十万円しかありません。でも、足りない分は私が働いて必ず払います。だから志穂を救ってください」
答えを待つ数秒の間、涼子は神三郎から目をそらさなかった。世間知らずのたわごとだ。そう言われるのも覚悟している。
助けに入ってくれたのは意外にも紫苑だった。
「意地悪をしなくても良いのではないか。鬼神狩りは探偵の仕事ではなかろう」
「覚悟を知りたかったんだよ。あの鬼神は小物だ。退治するだけなら、そう難しくはない。ただ、宿主を助けるとなれば話は別だ。わかるだろう。危険もあるし、助けた後のこともある。
涼子くん、正直に言おう。僕たちは今までに十人以上の鬼神を倒してきたが、宿主となった人間をまともに救えた試しがない。まず、切り離すのが難しい。上手く切り離せても、ほとんどの場合は心が壊れてしまっている。すぐに自殺することもあれば、絶望から食を断って衰弱死したこともある。まだ生きているのはひとりだけ。それも精神病院の個室の中だ」
「そんな……」
「考えてもみてくれ。君の友人は鬼神と契約して人を殺した。仮に救い出せたとしても、その事実は変わらない。法律で裁かれることはないだろうが、一生、後悔しながら生きないといけないんだ。君はそのことについて責任を持てるのかい」
涼子は言葉に詰まった。神三郎の言う通りだ。ただ怖い物を見ただけなら、悪い夢にすることもできる。でも山田先輩はもう、この世にはいない。
「これは、その場だけで済むような話じゃないんだ。あのまま死んだ方が良かったって言われるかもしれない。一生、その友人の心の傷に寄り添う。君にその覚悟があるのなら話を聞こう」
神三郎は自分のデスクから灰皿を持ってきた。もみ消した紙巻きたばこの中からまだ吸えそうな物を選ぶと、指先で丁寧に整えてから口にくわえる。
「紫苑、火……」
「まるで物乞いのようじゃな」
紫苑は渋い顔をしたが、結局はテーブルの上に置いてあった黒い紙マッチを取った。
黒猫と印刷してある。下の階にある店からもらった物なのだろう。
マッチを千切って内側に挟んで擦ると、チッという音がして先端に小さな火がついた。
両手で火を包むようにして神三郎に近づける。片腕ではマッチを擦るのも簡単ではない。そう思うと、かすかに胸が痛んだ。
細かい煙草の葉が火を吸って赤くなっていく。考える時間をくれたんだ。涼子は理解した。でも、答えは変わらない。
涼子は息を吸った。
「志穂があそこで鬼神を止めてくれなければ、私は死んでいました。今、ここにいるのも志穂のお陰です。
神三郎さんの言うように、確かに志穂の心は救えないかもしれません。でも、そのことで志穂が苦しむなら、一緒に苦しみます。志穂が泣くなら、一緒に泣きます。後悔はしません」
神三郎は胸に溜めた煙を一気に吐き出した。
「よし、聞いたよ。それなら僕もそのつもりで相手をしよう。わかってるとは思うけど、これは君個人からの仕事の依頼だ。大人にものを頼む時にはそれなりの報酬がいる」
「はい」
涼子はテーブルの上の茶封筒に目を落とした。もちろんこれだけでは足りないのはわかっている。でも、鬼神狩りの報酬は探偵とは別だとも言っていた。
「紫苑、どうだ?」
「うむ、そうじゃな。悪くない。この者なら、体との相性も良いかもしれん」
少女の姿をした美しい鬼神が涼子を値踏みするように見た。黒いドレスの袖が動き、人形の手が涼子の頰に触れる。
涼子は息ができなくなった。滑らかに磨かれた木の冷たい感触が、頰をなぞるように動く。
そして、次に紫苑の柔らかな唇が動いた時。その短い言葉が涼子を凍りつかせた。
「そなたは、処女か?」
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