紫苑

 あらためて中を見ると、探偵事務所はドラマで見たものと大差なかった。

 入ってすぐの場所に応接セットがあって、その奥にデスクがある。デスクには黒い電話機と積み重なった大学ノートサイズの紙の束。事件の資料だろうか。


 涼子を助けてくれた探偵は、デスクに長い足を載せて居眠りをしていた。肘掛のある椅子に深く座り、例の茶色い中折れ帽子を日除けにしている。

 白いワイシャツの左袖は空のまま、椅子の横に垂れていた。今は義手はつけていないようだ。

 声をかけようかと迷っていると。探偵は自分から帽子を取って涼子に顔を向けてくれた。左目には医療用の眼帯をしている。あの時は暗かった。でも、同じ顔。なんとなく安心する。


「ああ、やっぱり来たね」


「こんにちは、九十九神つくもがみさん。お礼が遅くなり、申し訳ありません。昨日はありがとうございました」


 探偵はぷっと吹き出した。

 ははは。声を出して笑う。

「九十九神か、こりゃあいい。僕も立派な妖怪変化だな」


「えっ、いや。何か間違えましたか」

 涼子はうろたえた。読み方は文芸部の友人に教えてもらった。歩く国語辞典のあだ名があるくらいだから、彼女なら間違うはずがない。ただ、珍しい苗字だね。そう言われたのは覚えている。


 案内してくれた少女が、感情の読みにくい表情で涼子を見た。

「失礼な小娘じゃ。本来ならば許さぬところだが、手土産に免じて教えてやろう。九十九神とは包丁や櫛などの道具が長い間に命を持ち、怪異と化した者共のことを言うのだ。神という言葉はついているが、つまりは低級霊だ。由緒ある神々とは比べることさえできぬ」


「すいません。ごめんなさい」


「僕の姓は九十九つくもだ。名前が神三郎しんざぶろう。なるほど、九十九神つくもがみか。名刺の間に、ひと文字空けておけばよかったな。まずは、そこに座ってくれ。僕もそっちに行く。紫苑しおん、お茶を淹れてくれ。もちろん、この子の分もだ」


「ふん。この小娘には茶など必要ないと思うが、神三郎様の言葉であれば従おう」


 神三郎と名乗った探偵は、よっと掛け声をかけてから足を机から降ろすと立ち上がった。長身だ。たぶん百八十センチはある。涼子も背が低い方ではないが、それでも二十センチ近くは高い。


「さあどうぞ。勇敢なお嬢様」

 探偵は紳士的な仕草でソファーをすすめてくれた。


 応接セットは、学校の校長室にもありそうな感じの物だった。三人は座れるソファーと一人用のソファー二つが向かい合わせになっていて、その間にガラスのテーブルがある。神三郎は、正面の一人用のソファーに座った。


紫苑しおんの口が悪いのは許してやってくれ。あれでも君を気に入っているんだ」


「そうなんですか」


「たぶん普通なら、声もかけないだろうな。紫苑は誇り高いんだ。初対面の人間にこれだけ話すのを聞いたのは初めてだよ。とりあえず面接は合格ってところだ」


「でも、私のどこが気に入ったんですか。九十九さんは勇敢って言ってくれましたけど、私はただの臆病者です。あの時だって、震えていただけで何もできなかったし……」


「そうかな。君は最後まで、自分の身に起きたことを冷静に見ていた。普通ならパニックになってもおかしくないところだ。それに別れ際に、自分の意思をきちんと僕に伝えた。ここに来たのだって、覚悟があってのことだろう」


「それは、まあ。そうです」

 涼子はうなずいた。

 勇気があるかどうかは別として、自分にはやらなければならないことがある。志穂のために何かをしたい。その気持ちだけは揺るがない。


「さあ。難しい話は後にして、お茶にしよう。ケーキを買ってきてくれたんだろう。それと、ここでのルールをひとつ教えよう。僕のことは名前で神三郎と呼ぶこと。いいね」


「あ、はい……」


 神三郎さん。

 心の中でそうつぶやいてみた。少しドキドキする。男の人の名前をそのまま口に出すのは、どうも気恥ずかしい。


 涼子はケーキの包み紙を自分で開いた。包み紙についたセロハンテープを丁寧にはがして箱を開けると、ショートケーキとモンブランが二個ずつ現れる。

 わあ、大きい。涼子は感嘆した。上に載っている苺も栗も立派だった。いつも買っている近所の店よりもずっといい。


「でも、私はいいです。自分のために買ってきたわけじゃないし。私の分は紫苑さんにあげてください」


「なかなか、わかっているではないか」


 紫苑という少女が、木製のお盆でアルミ製の急須と水玉模様の湯呑を運んできた。お盆ごとテーブルに置いて、自分も神三郎の隣に座る。その仕草を見ていて、涼子はかすかに違和感を覚えた。


 変だ。

 紫苑の動作が妙にぎこちない。正確には腕と足の動きが、まるで木でできた人形のように固い。


 湯呑を並べ、急須からお茶を注ぐ。

 お茶が落ちるコポコポという音は別に、わずかにキイという、木製のドアが軋むような音が聞こえた。

 木……。

 そのことに気がついて。涼子は思わず息を呑んだ。

 よく見ると、指の関節が丸い玉のようになっていた。指は肌色に塗られていたが、本物とは質感が違う。まるで操り人形の手だ。


「青い顔をして、何をじろじろと眺めておる。失礼じゃぞ」


「あの、あの。その手は」


「見たとおり作り物の手だ。それがどうかしたか」


「あなたは、その……」

 人間なんですか。その言葉を涼子は呑み込んだ。志穂のことが思い出される。正体を見破った瞬間に志穂は悪魔になった。そのことはもう、取り返しがつかない。


 紫苑は急須に残った雫を切った。

「そなたの言いたいことはわかる。顔に書いてあるからな。面倒だから先に答えよう。もちろん、わらわは人間ではない。神三郎様に仕える奴隷じゃ。この国の古い言葉だと式神という」


「式神?」


「人間に囚われ、使役される鬼神のことじゃ。わしは神三郎様と契約して式神となった。ただし普通の式神と違い、嫌々にではない。妾は神三郎様を心からしとうておる」


「おいおい、紫苑」

 神三郎はあわてて割って入った。


「良いではないか。いつか神三郎様に妾の身体の全てを、透けるような白い乳房を見せてやりたいものだ。男なら皆、とろけること請け合いじゃ。神三郎様とて、同じに決まっておる」


「紫苑、女性の前だぞ」


「だからこそ言うのだ。神三郎様が誰の物か。先に教えておく必要がある。小娘、良いな。わかったら妾の淹れた茶を飲むがいい。ケーキもその、モンブランの方なら食べても良いぞ。あれは栗の餡みたいだから、妾は好かぬ」

 紫苑は小皿の上に自分のショートケーキを載せてから、フォークで生クリームをすくった。口に入れた瞬間に表情がゆるむ。幸せそうな顔だ。


「これよ、これ。甘いのう。体のほとんどを置き捨ててまで、人の世に来た甲斐があるというものだ」


「体を、置き捨てた?」

 涼子には、その言葉が引っかかった。紫苑の作り物の手。それと関係があるような気がする。


「あれから、かなり取り戻したがな。この世にある妾の体はへそから上だけじゃ。腕も足も、女の大事な部分もまだ、向こうの世界に置いてある。もちろん乳房もない。だから残りは作り物の木偶人形じゃ。どうだ。見せても良いが、見たいか?」


「いえ、そんな……」


「遠慮深いな」

 紫苑はふふんと鼻を鳴らした。


「妾が元いた世界とこの世には、境界が存在するのだ。互いに存在できる物質の量が決まっておる。だから好き勝手に行き来することはできぬ。つまり片方の世界に行くためには、同じ種類の物と交換せねばならんということだ。

 わかるか。だからこの世に来たがる鬼神は人と契約する。人の願いを叶える代わりに、肉体を奪うのじゃ。人を喰うのも同じ理屈だ。生きた肉を喰ろうて向こうの世界にある自分の肉と交換する。そうすればより大きく、強くなれる」


「紫苑さんも。人を?」


「どういう意味じゃ」


「紫苑さんも、人を食べてこの世に来たんですか。つまり、殺して……」


「バカを申すな。そんなことをするのは血に狂った痴れ者だけじゃ。我らの世界にも秩序がある。国も家族もある。犯罪者なら、こちらの世にもおろう」


「ごめんなさい」

 涼子は素直に謝った。


「まあよい。そなたのその率直さは好ましい。単純とも言うがな。妾は人を喰い殺してはおらぬ。神三郎様の腕は喰うたが、それだけじゃ。これからも人を喰らう気はない。だからいまだに、この姿なのじゃ」

 紫苑は寂しそうな顔をした。


 神三郎の腕を食べた。

 涼子はその言葉に背筋が寒くなった。だが同時にその表情を見て、抱きしめてやりたいような不思議な衝動にかられた。人ではないと自分から語り、きつい言葉を使う。おそらく見かけとは違い、少女ですらないのだろう。でも、その中には普通の家庭で育ってきた自分には想像もできないような深い孤独がある。

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