1 探偵事務所
探偵事務所
鬼奉町という名前の駅がある。きほうちょうと読むのだが、地元の高校生は勝手に
涼子はその駅に久し振りに降りた。そうは言っても前にいつ降りたのか、はっきりとした記憶はない。観光名所があるわけでも、大きな公共施設があるわけでもない。駅前にちょっとした商店街があるだけの、いたって普通の町だ。
高校のある駅と四つしか離れていないから、そこが最寄り駅だというクラスメートも多い。その中の一人に例の名刺を見せると、すぐに身を乗り出して話し始めた。
「ああ、あれね。地元じゃ有名だよ。探偵事務所なんて、ちょっと珍しいもんね。商店街の奥にあるケーキ屋の先を折れて、路地に入って三軒目のビルの二階。一階は黒猫っていうスナックだからすぐわかるよ」
「ふうん」
「でもね。気をつけた方がいいよ。あの道、ちょっと怖いんだ。夜になると化粧の濃いお姉さんとかが立っていたりするらしいし。あれ、きっと売春婦だよ。男の人に自分で声をかけて誘うみたい。最近は聞かないから、警察に捕まったのかな」
それが、今朝のことだ。
ホームルームの後、昨日に続いて緊急の集会があって、午後から休校になることが伝えられた。もちろん志穂が行方不明になったのが、その理由だ。
テレビ局のレポーターは昨日よりも更に増え、校門の前には何台も車が停まっていた。
午前の授業が終わると、生徒たちは小さいイワシの群れのように、まとまって一斉に帰宅するように指示された。レポーターを振り払う作戦だったが、それでも運の悪い何人かの生徒が引き止められ、質問攻めにされていた。
幸い、家にまで押しかけているレポーターはいなかった。志穂と最後まで一緒にいたことは、テレビ局には知られていないらしい。
ケーキ屋の前で、涼子は深呼吸をした。
そこから見える路地には、小さな居酒屋やらスナックやらが五、六軒。軒を連ねていた。正直なところ、学校帰りに女子高校生が寄りたいような場所ではない。昼でも薄暗く、ちょっと煤けた感じがする。
路地の一番手前にある店には、汚れた赤提灯が下がっていた。仕事帰りのサラリーマンとかは、こういうお店で酒を飲むんだろうか。涼子には、わざわざこういう場所に行きたがる人の気持ちがわからなかった。外で食事をするなら、もっと清潔な場所がいい。
少し眺めては通り過ぎ、また商店街に戻る。涼子はそれを、何度か繰り返した。足を踏み入れるのがためらわれる。この場所が自分にふさわしくないことくらいは、考えなくてもわかる。
ふと、ケーキ屋の店員が、ガラス張りのカウンターの奥からこちらを見ているのに気づいた。
そうだ。手土産くらいはあった方がいい。幸いそれくらいの軍資金はある。
涼子はイチゴのショートケーキとモンブランを二つずつ買った。悪くない。ケーキの入った箱の重みが足を踏み出すための、ちょっとした勇気を与えてくれる。
まだ日があるせいか、路地にある店はどこも人の気配がなかった。
よし、今度こそ。
涼子は思い切って路地に入った。
学校の制服は、お気に入りの水色のブラウスと白のスカートに着替えた。ピンクのポーチには祖母に借りたお金が入っている。シャワーも浴びた。お母さんの香水を借りて少しかけてみた。それでもこの季節だ。汗臭くないか、少し心配になる。
クラスメートに教えてもらった通りに、端から数えて三軒目。黒猫というスナックはすぐに見つかった。だが、名刺に書いてあった二階を見上げてもそれらしい看板はない。
涼子は少し不安になった。
テレビドラマだと、ガラス窓に探偵事務所の文字が見えるように書いてあったりする。むしろ何もない方が普通なんだろうか。
そこは三階建ての古いビルだった。もちろんエレベーターなんてない。
建物の右端にある外から丸見えの階段を覗きこむと、ステンレス製の郵便受けがいくつか並んでいた。
あった。涼子は少しほっとした。黒猫と書かれた箱の横に九十九神三郎の文字がある。ここに間違いない。
階段は幅が狭くて段差が急だった。
二階まで上がるとすぐに灰色に塗られた鉄製の扉があった。看板はない。でもその代わりに、下手くそな字で九十九神三郎探偵事務所と書いた紙が貼ってあった。画用紙にマジックインキで書いて、四隅をセロテープで止めただけ。年月のせいで黄色く変色したテープが浅く浮いている。
涼子はたじろいだ。だが、ここまで来て引き返すわけにもいかない。
思い切って、ドアの横についたブザーのボタンを押した。だが、音が出ない。何度試しても同じだ。壊れているんだろうか。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
仕方なく、声をかけながらドアを叩いた。思いがけないほど大きな音がする。
そうだ。ケーキがあるんだ。紙袋を揺らさないようにしないと。
考え直して手を止めた時、中から声がした。
「ずいぶんと騒がしいのう。誰じゃ」
「えっと、すみません。こちらは探偵事務所さん、でしょうか……」
「文字が読めぬのか。ここがどこかは、そこに書いてあるはずじゃ。
奇妙な言葉遣いとは似合わない可愛らしい声。それは確かに少女のものだった。
「あ、ああ。そうですね。すみません」
「すみませんではわからぬ。ここに用があって来たのなら、先に名乗るがいい」
予想外の反応に驚いたが、考えれば確かに道理だ。間抜けな受け答えをした自分が情けない。
涼子は息を整えた。
「私は白藤涼子といいます。昨日の晩、危ない所をここの探偵さんに助けていただきました。名刺をいただいたので、そのお礼を……」
「
「えっ」
「わざわざ礼に来たのなら、手土産くらいは持参するのが人の世の常識だろう。声からするとどこぞの小娘のようだが、両親に礼儀を教えてもらう機会がなかったわけでもあるまい。
先に言っておくが、
「あっ、はい。それならここにあります。目の前の店で買ってくるのも失礼かと思いましたが、すごく美味しそうだったので。ショートケーキも買いました」
「それを早く言うがよい」
カチャリと鍵が外れ、キイという軋む音と共にドアが開いた。
涼子は目を疑った。
そこにはおよそ現実離れした美少女がいた。
黒髪に黒い瞳。でも、日本人に見えるかと聞かれれば、そうでないと答えるしかない。まるで外国の肖像画から抜け出してきたようだ。陶磁器のような白い肌と完璧に整った顔の造りが、そもそも普通の日本人とは違う。
年齢は十二歳前後。身長と顔立ちからの推測だが、表情はずっと大人びている。黒いスカートの裾から、白いレースがのぞいている。ゴシック調の服を着ている姿はまるで西洋人形のようだ。
大粒の宝石のような瞳の奥に、涼子の姿が映っていた。それだけで意志を奪われ、心が囚われたような気分になる。
「ふむ、あまりに美しくて声も出ぬか。さもあろう。
「はい。すみません」
涼子は素直に従った。自分より明らかに年下なのに、この少女には何か逆らえないような雰囲気がある。
「それにしても、おぬし。少々臭うな」
「えっ」
あわててブラウスを指先でつまみ、鼻を近づけて臭いを嗅ごうとした。
「体臭ではない。鬼神の臭いのことじゃ。下賤の輩の臭いはなかなか消えぬ。つい最近まで、おぬしのすぐ近くにおったようじゃな」
「鬼神?」
涼子はぴくりと反応した。
「昨日の晩に助けられたと、自分でも言ったではないか。関わったのなら、全く知らぬということはあるまい。鬼神とは異界からこの世に来た鬼のことじゃ。人をたぶらかし、しばしば人を喰らう。そういう奴らは関心のある相手をマーキングするのだ。喰うためか、喰わぬためか。どちらの理由かはわからんが、その鬼神はおぬしに特別の執着があったのだろう」
「志穂……」
涼子にはそれが、志穂のことだと信じることができた。そして、それこそがここに来た理由だった。
名刺をくれた探偵は、このことは忘れろといった。でも、知りたければ聞きに来いとも言ってくれた。
忘れるのが正しかったのかもしれない。
昨日の夜。あの場所であったことを、涼子は駆けつけてきた警官に正直に話した。警官は涼子を気遣ってくれたが、それには最初から意図があるようだった。
誰にも話さない方がいい。そんな事はなかった。いいね。家族を心配させたらいけない。精神病を疑われたら、普通の生活はできなくなる。
そう説得されて、涼子は家に帰った。
念の入ったことに、その警官は後で家まで来た。応対に出た両親の後ろで、涼子はその言葉を聞いていた。
近所で騒ぎがあったようだから、注意をするように。それと、最近の事件のせいで
警官は話している時、チラリと涼子を見た。釘を刺している。そう感じて怖くなった。それから鬼のことは、他の誰にも話していない。
だから涼子はここに来た。このままじゃいけない。みんなに嘘をついたまま志穂を見捨てることなんてできない。
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