親友

 死を覚悟してからのほんの数秒の間。

 涼子は、自分の人生の断片的な記憶をまとめて見たような気がしていた。


 まだ小さい頃。水玉模様の浴衣を着て、金魚すくいをしている自分。お爺ちゃんが買ってくれた新品の赤いランドセルを背負って、誇らしげに通学路を歩いていく姿。初恋の男の子の転校を知って悲しくなり、枕を濡らした夜。高校受験とその合格発表。志穂と一緒に入った書道部……。

 ああ、短いな。涼子は思った。十七年は、本当に短い。


 回想が追いつき、頭の中に浮かんでいた映像が消えた。終わりだ。これから先の未来はない。


 覚悟して歯を食いしばった。でも、それだけだった。その後に来るはずの痛みも、永遠に続く闇もない。

 涼子は恐る恐る目を開いた。まだ死んでいない。


 トクン。


 自分の心臓の動く音が聞こえる。

 鬼の動きが止まっていた。涼子の抱えこんだ鞄からほんの数ミリ。圧力を感じるほどの近くで、涼子を貫こうとしていた爪が石のように固まっている。

 その中で、ただ一か所。鬼の左目だけが志穂の色に戻っていた。涼子に向けた黒い瞳から、とめどもなく涙が流れ続けている。


「お願い、やめて。涼子だけはやめて」

 それは間違いなく志穂の声だった。


「どうして邪魔をする。憎い男を殺せば、後は何でも好きにして良いと言ったではないか。お前は人を殺したのだ。一緒に見ていただろう。どうせ、もう引き返せぬのだ。今更、一人だけを救ってどうする」

 もう一つ、別の声。これも疑いようがない。涼子を食べようとしていた鬼の声だ。


「それでも駄目。涼子だけは絶対に駄目。他のことは何でも言うとおりにするから……」


「おまえにはもう何も残ってはいない。あと三人殺せば契約は果たされる。 今更、何をもってあがなおうと言うのだ」


「復讐は終わりでいい。山田先輩だけで、もう十分。残りの男の人は放っておいてもいいわ。そうね、契約を変えましょう。涼子を助けて。そして、どこかずっと遠い場所に行って。そうしたら、私との契約は終わり。そこで残りの私を食べて、後は何でもあなたが好きなようにしていいわ」

 

「残りの身体を喰うても良い。いま、そう言ったか」

 少し、考えるような間があった。


「ふん、そうか。ならばよい。だが、こちらからも条件をつけさせてもらうぞ。この女の喉は潰しておく。わしらのことを喋られてはかなわんからな。良いな。譲るのはここまでだ。これより後はない。わかるな」


「お願い。涼子だけは傷つけないで」


「それならば、この話は無しだ。どうする。この女が喰われるのを共に見るか」


「涼子、ごめん。ごめん……」


 爪の狙いが、ゆっくりと喉元まで下がった。

 志穂のお蔭で命は助かった。でも、今度こそ避けられない。涼子は瞬きすることもできずに、乾いた瞳で爪の先を見つめていた。

 爪がぴくりと動いた。覚悟を決めた、その次の瞬間。


 パン。

 突如、乾いた音が響いた。


 銃声だ。涼子にはわかった。

 テレビドラマの効果音とは違う。でも、ハリウッド映画を見たことのある人間なら知っているはずだ。本物の銃はそういう音がする。


 この暗さで、どこから撃ったのか。

 その答えはすぐに出た。ずっと向こう。三十メートルは離れた路地から、飛び出すように一つの人影が現れた。そのまま、真っ直ぐに駆けてくる。


「ちい、なんだこれは」

 鬼は涼子を無視して振り返ると、近寄ってくる人影を睨んだ。茶色いスーツを着た男の影は、それでも怯まずに向かってくる。


「痛む、痛むぞ。こんなに小さな穴なのに血が止まらぬ」

 鬼の表情は痛みに歪んでいた。

 右肩からは間断なく血が流れ続けていた。弱い明かりに照らされた砂利道に、黒い点のような染みを作っていく。


「そうか、これは巫術だな。そういえば聞いたことがあるぞ。こちらの世界にも、人の身でありながら我らを狩る者がいるらしい」


 鬼は腕を押さえたまま、もう一度、忌々しげに涼子を見た。

「抜かったわ。忌々しいが、こうなっては仕方ない。おまえは見逃してやる。志穂に感謝するんだな」


 言い捨てると、鬼は消えた。

 正確には、涼子の目では追えないほどの速さで動いて、音もなく逃げ去った。


 後に残されたのはセーラー服の残骸と、置き捨てられた志穂の学生鞄だけ。あわてて鬼を目で追いかけようとしたが、どの方向に行ったのかさえわからない。


 だが、涼子が視線をさまよわせていたのは、ほんの少しの間だけだった。

 小石が涼子のむき出しのすねに当たった。道路に敷かれた砂利が跳ねたのだろう。痛みに我に返ると、もう、さっきの人影は涼子の目の前に達していた。


「おっと、悪い。うっかり帽子を落とすところだった。大丈夫だったかい」


 その人物は右手で茶色い中折れ帽子を押さえていた。顔が近い。走ってきたばかりの、弾むような息遣いまで感じられる。

 年齢はたぶん三十歳くらい。汗ばむ季節だというのに、背広の上着まで着ていた。ネクタイを自分で緩め、ふうと息をつく。ボタンを外した上着の隙間から、ホルスターに収まった銀色の拳銃がのぞいている。


 奇妙なのは、左手にだけ白い手袋をしていることだった。そう言えば、さっきから右手しか使っていない。左腕は重力に任せるようにだらんと下に垂らしている。


「ああ、これか」

 その男の人は、涼子の視線に気づいたようだった。体をねじって、左肩から上着を半分だけ脱ぐ。


 あ……。

 涼子は息を呑んだ。

 そこには黒いバンドで固定された造り物の腕があった。まるでデパートにあるマネキンのようだ。肌色の塗料が所々はげている。


「左腕は義手なんだ。驚かせたかな」


「い、いえ」


「気を遣わなくてもいい。ないものは、どうせないんだ。ついでだから先に教えておくよ。この左目もガラス玉だ。なかなか、よくできているだろう」


「は、はい」

 そう言われてみれば、左の瞳が動いていない。先に教えてくれてよかった。志穂のことがあったばかりだから。気づいた時に、パニックになっていたかもしれない。


 怖い人ではなさそうだ。そう思ったら、力が急に抜けた。涼子はその場にしゃがみこんだ。抱えていた黒い学生鞄が手から離れる。


 カタン。

 その時、突然気づいた。

 セーラー服はさっき切り裂かれたせいで前がはだけている。下を向いた視線の先に、自分の白い乳房がある。

 涼子は慌てて両手で隠し、両肩をつかんでぎゅっと体をすぼめた。でも、遅い。遅かったような気がする。


「見ました?」


「いや。どうしたんだ」

 言葉に反応するように、右目だけがゆっくりと動いた。涼子の姿が瞳に映る。


「ああ、なるほど。そういうことか。惜しいことをしたな」


「からかわないでください……」

 涼子は恥ずかしさで死にそうになった。語尾が小さくなって消えていく。


「今、僕の式神が鬼神を追っていった。大丈夫、奴は逃がさない。どこに逃げても追い詰めて、必ず退治する」


「鬼神。今、鬼神と言いましたか」


「ああ。昔から、奴らはそう呼ばれている。人とは別の世界に棲む魔物だ。でも、悪い夢だと思って忘れた方がいい。知って得になることじゃないし、誰かが信じてくれるわけでもない。関われば、常に命の危険にさらされる。僕の目とこの腕がその証拠だ」


 その人は上着のポケットから小さい紙の人形を取り出した。不思議な形だ。折り紙とも、少し違う。

「一応、お守りを渡しておくよ。これがあれば、鬼神は近づくのを嫌がるはずだ。次の新月までは効果がある。その後は、普通のお札みたいにどこかの神社に納めてしまえばいい」


「あの……」

 涼子は口を挟もうとしたが、その人は構わずに片方だけ脱いでいた上着を左肩に引っ掛けた。


 一人では、義手を袖に通すのは難しいらしい。手伝おうとして立ち上がりかけた涼子をさえぎるように、その人は首をゆっくりと振った。


「ありがとう。でも、もう行くからいい。すぐに銃声を聞いた近所の人が集まってくるはずだ。上着を貸してあげたい所だけど、今回は勘弁してくれ。住宅地で銃を撃つのは犯罪だ。僕のいた痕跡を残したくない。

 あと、ひとつだけ。君にアドバイスだ。鬼神のことは誰にも言わない方がいい。もちろん僕のこともだ。どうせ誰も信じてくれない。君だって、親しい人を心配させたくはないだろう。

 さようなら。勇敢なお嬢さん。熱いお風呂にでも入って、今夜のことはみんな忘れてしまうといい」


 その男の人は、そのまま立ち去ろうとした。

 悪い夢だ。その人はそういった。全部忘れたつもりになって生きればいい。そうすれば普通の生活を続けられる。

 でも……。涼子にはわかっていた。志穂は最後に自分を守ろうとしてくれた。文字通り命を懸けて。それだけは間違いない。


「待って」


「うん? どうしたんだ」


「鬼神のことを教えてください。志穂は……、あの鬼神は、私の親友なんです。命を懸けて、私を守ろうとしてくれたんです。忘れるなんてできません」


 一瞬、その人は考えこむような顔をした。見える方の目で涼子をじっと見つめる。それだけで涼子は、心を裸にされたような気がした。


「そうか。それなら、名刺を渡しておく。事務所の電場番号と住所が書いてあるから、聞きたいことがあったら訪ねてくるといい。ただし、仕事の依頼なら料金をもらうよ」


 その人は、そう言い残して立ち去った。


 ざわざわという声が道の両側から近づいてくる。銃声に驚いて、近所の住人たちが集まってきたのだろう。どう説明しよう。そう思って立ち上がりかけた時、膝の上から一枚の名刺が落ちた。


 探偵、九十九神三郎。


 それが、涼子の人生を変えることになる奇妙な人物との、最初の出会いだった。

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