恐怖

「志穂、やめて」


「ほんと。ひどいよね、志穂は。私に無断で涼子を逃がそうとしたんだよ。わざと目の色を変えたのもそう。今も頭の隅っこで、涼子だけは守って欲しいって言ってる。

 でも、いくら頼んでもダメだよ。契約は変更しない。家族以外はみんな殺してもいいって約束したんだもの。人間でなくなった癖に、一人だけ救おうだなんて。身勝手で最低。涼子もそう思うでしょう」


 志穂が自分の学生鞄を道に投げ捨てた。

 スカーフを解いて引き抜き、左の脇にあるファスナーを引き上げる。それからそのまま無造作に、襟をつかんでセーラー服を脱ぎ捨てた。汗で濡れたアンダーシャツからピンク色の下着が透けている。


「ああ、暑い。人間はどうしてこんなに窮屈なものを着るのかな。涼子も脱いだらいいよ。楽だし、その方が食べやすいし」


「どういうことなの。お願いだから説明して」


「どうせすぐに死ぬんだから、必要ないと思うけど……」

 志穂だった物は、考えるように首をかしげた。ブツブツと何かをつぶやいてから首を元に戻す。


「仕方ないな。大声を出さないなら、いいよ。志穂の大切な友達だからね。でも約束を破ったら、すぐに殺す。本当だよ。それは志穂にも止められない」

 志穂は右手を、涼子の前にかざすように差し出した。


 その手が、すうっと伸びた。

 見る間に指が長くなり、爪も鋭く尖っていく。

 黒ずんだ色のそれは、まさしく鬼の手だった。志穂の顔が隠れるほどに大きい。その異常に長い腕を上げて、ゆっくりと下げていく。


 爪の先端が涼子の首筋に触れた。冷たい。そしてセーラー服の内側に突っ込み、前に引くように動かす。

 ぴぃっと布が裂けた。アンダーシャツと、ブラジャーまで。着ていたものが全部、縦に綺麗に二つに分かれる。


 はらりと、前が開いた。そして同時に細い血の筋が胸元を伝う。


「よく切れるでしょう。首を落とすのは、もっと簡単だよ。わかるよね。警告は何度もしないから覚えておいて」


 涼子は必死にうなずいた。喉がカラカラに乾いている。

 前が開いたセーラー服から自分の乳房がのぞいているのに気づいて、涼子は左手で襟をつかんで胸を隠した。恥じらいではない。肌をさらしているのが、まるで心臓をむき出しにしているようで怖い。


「お願い、志穂……」


「私は志穂じゃないよ。志穂の体と声を借りているだけ。そうだね。そこから説明しようか。志穂は私と契約したの。志穂は体を私にくれる。私は志穂の体を使って志穂の望みを果たす。だから、私は山田とかいう男を殺してあげた。できるだけ残酷に、できるだけ苦しめて。それが志穂の望みだったから」


「まさか、山田先輩を……」

 涼子は言葉を続けることができなかった。顎が細かく震えて、奥歯が鳴る。口が自由に動かない。


 今日の午前中に学校で緊急集会があった。

 三年生の山田先輩が通り魔に殺されたから通学の際は注意するように。校長先生の話はそれだけだったけれど、流れてきた噂はもっと具体的だった。

 いわく。身体中が挽肉みたいにグチャグチャになっていた。胴体と首とが、別々の離れた場所で見つかった。手と足の爪が全部、剥がされていた。口の中には歯も舌もなかった。


 校舎の外にはテレビ番組のレポーターがあふれていて、山田先輩のことを聞こうとしていた。たぶんその噂はそこから漏れたんだろう。そう考えると、必ずしも根も葉もないこととは思えなくなってくる。

 それでも、学校から部活を中止にする指示はなかった。

 テレビ局には余計なことを話さずに、節度を持って行動するように。何事もなかったように振る舞うようにと言われた。


 志穂はふっと笑った。

「危機感が足りないよね。下手に隠そうとするから、中途半端になるんだよ。せめて午後から休校にしていれば、今夜は誰も死なずに済んだのにね」


 聞かなくても涼子にはわかった。志穂が言う今夜の死者とは自分のことだ。

「どうやって殺したか、知りたい?」


 涼子は必死に首を振った。


「そうだね。その方がいいよ。涼子は臆病だから。でもね。それだけの理由はあったんだよ。山田っていう男は志穂を呼び出してオモチャにしたんだ。泣いてお願いしても許してくれなかった。裸にして写真を撮って、何度も呼び出したんだよ。一人だけじゃなくて、別の男たちにも次々に体をもて遊ばれて。志穂は手首を何度も切ったけど、死ねなかった。命と引き換えにしても復讐したい。その願いが……、ううん。呪いだね。その呪いが私をこっちの世界に引き寄せたんだ」


 そういえば、夏休みの間に何度も志穂に電話をしたけれど、一度も出てくれなかった。具合が悪いから寝ているの。ごめんね。志穂のお母さんはそう言ってすぐに電話を切ろうとした。


 そんなことがあったなんて。

 涼子は唇を噛みしめた。気づいてあげられなかったことを、心の底から悔やんだ。


 何か言わなければ。

 涼子はなけなしの勇気を振り絞って、相手を見返した。

 そうだ。このままじゃいけない。志穂をこんなにされて、それに自分まで。何も言えないまま殺されるなんて、あまりにも情けなさすぎる。


「おまえは……」

 涼子は声を絞り出した。


「志穂を利用したんだ。おまえは、志穂の願いを叶えたんじゃない。都合のいいことばかり言って、騙したんた。志穂は、本当は。そんな子じゃない」


「何を言う」

 突然、声が変わった。


「貴様に何がわかる。人間よ。それならどうしてその時、志穂を救わなかった。志保の心は救いを求めてずっと泣き叫んでいた。都合のいいのは貴様の方だ」

 怒りを含んだ声が、地響きのように涼子に叩きつけられた。


 それと同時に、その姿も急速に変貌していった。胸が、腕が、首が。盛り上がるように大きく膨らんでいった。シャツもスカートも弾けるように裂け、道に落ちた。剥き出しになった皮膚は、代わりに浅黒く分厚い筋肉で覆われていく。

 愛らしかった口は大きく裂け、鋭い牙がのぞいていた。目はあの、血のように赤い色。乱れた髪が腰まで伸びている。


 志穂らしい部分を探そうとしたが、そんなものはどこにも残ってはいなかった。もう性別もわからない。人の形をした巨大な獣。それ以外に表現のしようがない。

 

 その間。志穂だったものが変貌していくわずかな隙に、涼子は自分の鞄を拾った。身を守る盾のようにぴったりと胸につけて、じりじりと後ずさる。


「愚か者が。逃げられるとでも思っているのか」

 鬼が、ぐふっと息を吐いた。鼻をつく臭いに思わず口をふさぐ。臭い。まるで発酵した生ゴミのようだ。


「せっかく話をする時間をくれてやったのに、志穂の好意を無駄にしたな。もういい。おまえと付き合うのも終わりだ。ここでわしに喰われるがいい」


 鬼が腕を振り上げた。真っ赤な口が開く。


 走れ。


 涼子は自分に命令した。

 追いつかれてもいい。早く逃げろ。最後まであがけ。

 でも腰に力が入らない。どうしても足が動いてくれない。


 涼子は絶望し、目を閉じた。終わる。平凡な、それでも自分にとっては特別だった十七年間の人生が、もうすぐ終わる。

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