鬼狩り神三郎

千の風

プロローグ 変貌

変貌

 昭和四十八年。夏の終わり。


 その日のことを、涼子はほんの些細な部分まではっきりと覚えている。

 生ぬるい風がうなじを撫でた。でも、奥までは届かない。セーラー服の襟を指で拡げるようにして手を当てると、首筋が滲んだ汗でじっとりと湿っていた。

 首を曲げた拍子に視線が下を向く。


 ゆらり。


 その時、道に落ちている影が揺れたような気がした。


 夜道の暗さに怯えていたからだろうか。一瞬、涼子にはまるで、それが獣か鬼のように見えた。

 びくりとして思わず足が止まった。靴底が砂利道の上を滑って、ずずっという音を立てる。


 トクンと心臓が鳴る。


 勇気を出して横を見ると、一緒に歩いていた志穂が驚いたような顔をした。

「どうしたの。変な顔して」


「今、影が……」


 涼子は思い直して首を振った。

「ごめん。勘違いかも」


 街灯の蛍光管が一瞬消え、そしてパサパサっという音と共にまた点灯した。集まった小虫の群れがちらちらと舞っている。

 よく見ると蛍光管は根元の部分が黒ずんでいた。ああそうか。そのせいで見間違えたんだ。本当に今日はどうかしている。


「昨日、あんなことがあったからかな。ごめん。神経質になってるみたい。変わらない、いつもの道なのにね」


 言い訳をしながら、涼子はまた、暗い道を歩き始めた。繁華街と違って、住宅街には街灯も少ない。照らすというよりは、ぽつんとある道しるべのような感じだ。せめて月でも出ていればいいのにと思う。


 それにしても、こんな日くらいは早く切り上げてくれてもいいのに。涼子は心の中で悪態をついた。

 涼子は高校の書道部に所属していた。火曜日と木曜日。週に二回だけの活動だけれど、活動のある日は帰りがいつも遅くなる。顧問の菊池先生は有名な書道会の会員だった。完璧主義者だから手を抜こうとしても無駄だ。先生が納得するまで、何度でも書き直しをさせられる。


 涼子は無理に明るい声を出そうとした。

「なにか話していようか。気が紛れるかも」


「うん」


「そうだ。夏休みはどこか行った? 私は家族で毎年行く伊豆の民宿。二泊したんだ。でも、お父さんのイビキがひどくて、もう最悪。弟の面倒は見なきゃならないし、水着は去年のだし。ビーチも家族連ればっかり。でも、大きい伊勢エビを食べたよ。生きてるやつをそのまま刺身で。触るとヒゲみたいのが動くんだ」


「ふうん」


「あれで、お風呂が温泉だったらなあ。民宿なんて家のお風呂と同じだよ。でもまあ、食事が美味しかったからいいか。金目鯛の刺身とか、生まれて初めて食べた。白身だけど、すごく脂がのってる感じ」


「へえ、美味しそうだね」


「後は田舎かな。お母さんの実家の群馬。もっと遠ければいいのにって思うけど、こればっかりはね。そうだ、確か志穂のお母さん、福岡の出身だったよね。向こうへは行ったの」


「うん。お盆にね」


「いいなあ、飛行機でしょう。私はまだ、乗ったことないんだ」


 涼子は熱っぽく話し続けた。話してさえいれば、自然に自宅に近づく。

 住宅街と言っても、まだ開発中だ。人口が増えている最中だから空き地も多い。夜ともなれば、住人とすれ違うこともそう多くはない。


 ふと、気がつくと、電柱の陰に隠れるように郵便ポストが立っていた。あと五分くらいで志穂の家だ。それから更に二、三分も歩けば自分の家に着く。

 志穂がいてくれて良かった。ありがとう。そう言おうとして横を見たとき……。

 ぞくりとして、涼子は声を呑み込んだ。


 違う。志穂じゃない。


 それは人というより爬虫類の目に似ていた。白眼も含めた全体が充血したように赤くなっている。だが、それよりも異様なのは瞳だった。

 縦に黒い筋がある。

 それが刻々と脈打つように太くなり、細くなっていく。まるで、それがひとつの別の生き物のように。その生き物を、涼子は本能的に知っていた。


 鬼だ。


 涼子はそう思った。人を喰う鬼だ。小さい子どもの頃に聞いた、恐ろしい物語が蘇ってくる。

 握力の無くなった手から、握っていた学生鞄がするりと落ちて大きな音をたてた。逃げたくても足がすくんで動かない。体が小刻みに震えている。


 赤い目玉が、ぎろりと動いて涼子をとらえた。


「どうしたの?」

 それはまだ、志穂の声だった。

「変だよ、涼子。どうして私を、化け物を見るみたいな目で見るの」


「志穂、その目……」

 涼子は震える指を向けながら、ようやくそれだけいった。


 時間が止まった。


 呼吸も表情も、志穂から全ての動きがなくなった。

 永遠とも思われる数秒の後。突然、志穂の目玉が壊れた人形のようにぐるっと回った。恐怖に声を上げることもできない。ただ、そこにそれがある。

 やがてその動きがぴたりと止まり、再び視線が涼子に固定された。


「ああ、そうか。このことに驚いていたのね。目が戻ってたんだ」

 抑揚に乏しい声が涼子の心臓を刺すように響いた。志穂の口から出た、志穂の声だ。でもそれは素人が台本を読んでいるように感情が薄かった。


 志穂は左の手で目頭を押さえてから、ゆっくりと離した。そこにはまた、いつもの志穂の目があった。

「バレちゃったか。残念だな。うまく化けたと思ってたのに。もう少し、ごまかせると思ったんだけどな」


 志穂はぞっとするような笑みを浮かべた。

「そんなに美味しそうな顔をしないで。我慢して、ずっと楽しみに待ってたんだよ。この先に空き地があるでしょう。そこで涼子を食べるつもりだったのよ。でももう、大人しくついて来てもらえそうにないし。予定を変えなきゃね」


「私を食べる……」

 涼子は背筋が凍るような気がした。そんなことあるわけない。冗談だと言って欲しい。でも志穂は、否定する代わりに静かにうなずいた。


「そうだよ。あの場所なら、人目を気にせず涼子をゆっくり食べられるものね。本当はさっきからずっと、よだれが止まらなかったんだよ。涼子が食べ物の話ばかりするんだもの。おあずけをされた犬みたいな気持ち。そういうの、生殺しって言うんだよね」

 志穂は蛇のように長く赤い舌で、自分の口の周りを念入りに舐めた。


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