母親

 修験者は失った左腕を押さえながら、鬼三郎に顔を向けた。腕から滴り落ちる血は思ったより少ないが、顔色はまるで紙のように白い。


「おまえの名は何という」


「鬼三郎、です」


「鬼三郎か。悪いが俺にはもう、何も残っていない。早く逃げろ。おまえは鬼の目撃者だ。外にいる警官に、見たことをそのまま話せ。それが役に立つ。俺のことはいい。放っておけ。これも運命だ」


「さあ、終わりだ。死ね。まずはこの男、次に房子だ。そして鬼三郎。おまえは俺のことが嫌いだったな。まだまだ先に取って置きたかったが、逃げぬのなら仕方ない。おまえも母親の後を追って死ね」


「小鬼よ……」

 その時、もうひとつの声がした。それも女性の声。不思議なくらいしっかりとした口調で。それはたしかにそう言った。


「小鬼よ、私を喰らいなさい。人を食べればそれだけ強くなれるのでしょう。あんなものは私の夫ではありません。私を喰らって、この鬼畜を殺しなさい。私の血と肉で鬼三郎が救えるのなら、私は喜んでおまえに喰われます」


「善き覚悟」

 小鬼が笑ったような気がした。


「良いな、我が主人よ。このまま一方的に殺されるのは、わしも本意ではない。この女の意気に応えようではないか。遠い昔。わしは誇り高い戦士であった。今は人に使役される卑しい奴隷といえども、最期は戦って死にたい」


 修験者は苦悶の表情を浮かべながら、鬼三郎を見た。そして何かを振り払うように首を振ると、視線を下に逸らす。

 声にはならない。


 ゆるす。ただ、口がそう動いた。


「何をする。やめろ、喰うなら俺を喰え。母さんに手出しをするな」


「足のすくんだ泣き虫など喰ろうても力にはならんわ。それにどうせ喰らうなら、女の方がいい。今からお主の母親を喰らう。小僧はそこで見ていろ」


 その後に起こった事を鬼三郎は覚えていない。

 見た事を、記憶した事を。心が拒絶して閉じこめてしまったのだろう。

 ただ、骨をかじるような、ゴリッゴリッという耳障りな音だけが鼓膜の奥に残っている。


 夜となく、昼となく。何百回も、何千回も。その音は常に頭の中に響いて、鬼三郎を苦しめた。

 後で聞いた話では、玄鬼という鬼神は鬼三郎の母親を喰らって、もう一匹の鬼と同じ大きさにまでなったらしい。

 その後、二匹の鬼は凄絶な殺し合いを始めた。爪で互いの肉を削ぎ、牙で食いちぎる。自分のはらわたを引きずり出し、腸を紐のようにして相手の首を絞める。


 鬼三郎の父だった鬼は、最期を迎える直前。息も絶え絶えにこう言ったという。

「馬鹿な。おまえなどに、どうして勝てぬのだ。千年も前の、老いて青くなった化石のような式神などに……」


「ククク。嬉しい、嬉しいぞ。貴様のような、百年も生きておらぬようなガキにはわからぬだろうな。わしは死ぬのが嬉しいのだ。知っておろう。式神は人に使役され、勝手に死ぬことさえできぬ。生きているなど、名ばかりのことよ。

 このわしにとっては死こそが至上の望みだ。だが、貴様は死をどこかで恐れている。どちらの覚悟が上か。言わずともわかるだろう」


 鬼三郎が我に返った時、そこには床を埋め尽くすような血痕と、散らばった大量の肉片だけがあった。鬼は二匹とも死んだ。それは間違いなかった。


 いつの間にか、警官たちが集まっていた。その一人が吐いている。胃と喉を潰すような音。汚物の臭い。だがそんなものは気にならないくらい、鬼三郎の心は潰れてしまっていた。少なくとも感情や思考の機能は停止していた。


「お兄ちゃん」

 真っ白な顔をした佑子が表情を失った目で鬼三郎を見ていた。何かを掌に載せている。涙がつうっと頰を流れている。


「これ、お母さんだよ」

 その上にあったのは、一本の女性の指だった。

 血にまみれた細い指。その薬指の第二関節のあたりに、プラチナ製の結婚指輪がしっかりと嵌っていた。

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