第8話 溢れる想い

彼女に近付きたい一心で転職してあっという間に時間が過ぎていた。


最近では仕事において、社長が俺を信頼してきてくれているのが分かり嬉しい。


社長の挨拶も最近では”おはようございます”から”おはよう”に変わってきていて、少し距離が近づいてきているような気がして、これも嬉しい限りだ。


そんなことをぼんやり考えながらコーヒーを啜っていると、後ろから声を掛けられる。


「おはよう」


社長の耳馴染みの良い声が耳を擽る。


声の主の方を向くと、いつもより顔色が悪い気がする。


心配になったので、デスクの引き出しに常備してあるチョコレートを掴んで社長に近寄る。


「おはようございます。顔色が悪いですが、体調が悪いのですか。」


社長は不機嫌そうに俺を見上げる。


「少し寝不足なだけ。」


時々、社長は俺に対して不満があるのか、何が原因か分からないが、今みたいに不機嫌になる。


こんな時は用事をさっさと済ませた方が良いという事が分かったので、用件だけ伝えて、さっさと席に戻ろう。


「そうですか。体調が悪くなるようでしたら教えて下さい。あと、甘いものを食べると少し元気が出ますよ。」


チョコレートを社長のデスクに置くと、自分の席に戻る。


戻ってパソコンの画面を見るふりをして社長を見ると、今デスクの上に置いたチョコレートを美味しそうに食べている。


これで少し機嫌が治るといいなと思いながら、大量に届いているメールの処理を始める。


今日から、新作展示会のポップアップストアに向けて準備が始まる。


初日は関係者も多く来るので、抜かりなく準備をしなければいけない。


今日から忙しい日々が始まる。


呑気に過ごせていたのはこの瞬間だけで、こんなにも忙しいものかと現実を疑いたくなるほど忙しかった。


怒涛な毎日で、帰宅は午前様が当たり前。


とにかく準備に追われる毎日だった。


社長とは仕事の話はするものの、私的な話をするタイミングは一切ない。


仕事においては良いパートナーになりつつあるように思うが、プライベートについては全く相手にされていないのが分かる。


仕事が忙しいのも相まって、そんなに俺は魅力がないのかと自暴自棄になりそうになる。


忙しすぎて旬に会う時間すらなく時々連絡をとるものの、口を開けば合コンに来て自信を回復させろの一点張りで、最近は連絡をとることすら辞めてしまっている。


怒涛の毎日を送って準備をした甲斐あって、無事ポップアップストア当日を迎えることができた。


今回は大きなトラブルなく順調に進み、初日を迎えられた。


初日の今日は関係者を招待しており、ちょっとしたパーティーのような感じになっている。


開場準備もほぼ終わり、社長が社員に声を掛ける。


俺も社長の話を聞こうと、彼女の近くに寄る。


ポップアップ初日なだけあって、いつも着ないようなドレスっぽい服を着ており、美人が更に磨きかかっている。


ポップアップストアだから色んな人が来るし、変な奴に社長が声を掛けられないか心配になる。


「みなさん、今日まで準備お疲れ様でした。今日からポップアップが始まります。もちろん目標もありますが、来て頂いたお客様に満足してもらえるような接客を心がけて頑張りましょう。」


社長の挨拶で初めてポップアップに気合が入る。


売上目標数字はかなり高いものだったから、少しでも達成できるようにとノベルティの準備に向かう。


準備が完了したところでお店が回転する。


次々に関係者が来場してくる。


午前中は挨拶追われあっという間に時間が過ぎていく。


お昼になり、来場者が少し落ち着いてきて一息つく暇ができる。


社長の事を気にする暇もなく、接客対応に追われて喉がカラカラだ。


近くにいる人に声を掛けて自販機に向かう。


ほっと一息付けたので、急いでフロアに戻る。


フロアに戻るとさっきよりも更に客が引いている。


時計を見ると正午だった。


客が引いたフロアに一人の男性が立っている。


客が引いているので従業員も休憩に行っているようで、フロアにいるのは俺と市川さんと社長だけだった。


誰もその男性に接客をしていないので、不思議に思いながら声を掛ける。


「本日はご来場ありがとうございます。お気に召す商品はありましたでしょうか。」


男性が一人で来ているということは、彼女へのプレゼントを買いに来ているのだろうか。


背が高くて明るめに染めている髪が揺れている。


イケメンだけど、遊んでそうな人だなと思っていると、予想外の言葉が耳に入って来る。


「凛と話したいんだけど、呼んでくれる。」


こいつ今、凛って言ったよな。


耳を疑いたくなるも、間違いなく目の前の男は”凛”と言った。


社長のことだろう。


「失礼ですが、どちら様でしょうか。」


どんな関係か気になりイライラするも、お客様だと自分に言い聞かせて接客する。


「凛とは昔からの付き合いだから。ちょうど良かった、久しぶり。」


その男性が手を上げながら、歩き始める。


その行き先を見ると、社長が立っている。


社長の顔が困っているような表情をしていたし、この男を社長の元に行かせたくなくて、気付いたら男の手を掴んでいた。


「今社長はお忙しそうなので、私が新作のご説明をさせて頂きます。」


イライラした気持ちを外に出さないように、冷静に冷静にと自分に言い聞かせる。


「そうじゃないんだよ。凛と折り入って話があるから、そこどいて。」


俺の手を振りほどいて社長の元に行こうとしている。


女性用の水着の販売会場で男が2人小競り合いをしていたら、そりゃ目立つわけで周りがざわざわしてきたのを感じる。


俺は慌てて男から身を離す。


直ぐに社長が寄って来る。


「春、久しぶり。ちょっと迷惑かけないでよね。」


社長がその男を”春”と下の名前を親しそうに呼んだ事に、ガツンと衝撃を受ける。


「折角来たのに、無視すんなよな。まずは新作おめでとう。」


男は小さな花束を社長に渡している。


社長も嬉しそうに受け取っている。


社長に彼氏がいる感じはなかったから、彼氏はいないと思っていたが、この男が彼氏なんだろうか。


社長に彼氏がいると思うと、想像以上にショックを受けている自分に驚く。


このまま、この会社で働き続けれらるか不安になってくる。


「何しに来たのよ。彼女に水着でもプレゼントするの。私が選んであげようか。」


社長の言葉を聞く限り、社長が彼女ではなさそうだ。


ただ、ただならぬ関係なのは間違いないだろう。


急に社長がその男の手を掴んで、どこかに行こうと引っ張り始める。


俺も掴まれたことないのに、社長がその男の手を掴んでいることに嫉妬心が湧き出て来る。


そんな俺の感情を感じたのか、男は俺の顔を見ながら、


「この間、取引先と一緒に行ったレストランのケーキが絶品すぎたんだけど、今日終わったら一緒に行かない。これを言いに来た。」


その男は俺を挑発するような目つきで話終えると、視線を社長に移す。


二人の会話に割って入ることができないから、心の中で社長に断れと念を送る。


「店の名前教えてよ。一人で行くから。私忙しいんだから。」


行くのかよ、と心の中で突っ込んでしまう。


まだ、2人で行こうと言わなかっただけ、俺の心が救われる。


「店の名前は教えない。気になるなら俺と一緒に行って。信じられないくらい美味しくて、聞いてみたら海外で結構な賞を取ってるシェフだったんだよ。凛好みのケーキだったぞ。この機会を逃すと絶対後悔するぞ。」


その男は今度は俺を見下すかのような目つきで俺を見ながら、社長を畳みかけている。


社長の予定を思い出してみると、今日の夜予定は入っていない。


まさか一緒に行くわけないよな。


次の社長の言葉に俺は体の力が抜けていくのを感じることになる。


「そうね、忙しいけど付き合ってあげる。終わったら連絡する。」


男は満足そうな顔を俺に向ける。


「了解。連絡待ってるな。」


それだけ言って男は店の外へ出て行く。


一部始終を俺に聞かれて気まずいのか、社長がこの場から離れようとする。


俺は思わず社長の腕を掴んでいた。


驚いた社長の表情が目に入り、俺は慌てて掴んだ手を放す。


さっきの男が思い出され、思った以上の力で社長の腕を掴んでしまっていたのだろう。


社長は俺が掴んだ腕を擦っている。


「すみませんでした。痛かったですか。」


何をやっているんだと自分が情けなくなるのと、あの男と一緒に出掛けて欲しくないという気持ちが交差する。


「大丈夫です。何か用でもありましたか?」


社長が聞く機会を与えてくれたと理解して、思い切って聞いてみる。


心臓の音が耳の奥でドクドク鳴っている。


「いや、さっきの人はどんな知り合いかと思って。やけに仲良さそうだったので。」


彼氏と言わないでくれと心の中で祈る。


「ただの昔の知り合い。気にしなくていいですよ。ちょっと粗品が足りなくなってきてるので、車に取りに行ってきます。」


急に社長が話題を変えて、くるりと振り向いたかと思うと、あっという間に姿が見えなくなってしまった。


その後ろ姿をぼーっと見送りながらも、この機会を追わなかったら絶対に後悔すると思って、何の考えも無しに心のいくままに社長を追いかける。


確か車に粗品を取りに行くと言っていたな。


社長の言葉を思い出し、駐車場に向かう。


キョロキョロと探すと社長の車と社長が目に入る。


さっきの男が思い出され、頭に血が上るのを感じる。


ドアをあけようとした社長を俺の方に向かせ、そのまま車に押し付けられる。


頭に血が上って正常な判断ができないでいるが、目の前に驚いた顔をしている社長がいる。


社長の腕を掴んでいる手に力が入る。


「さっきの男とどういう関係なんですか。今日、食事に行くんですか。」


何であんなチャラ男と食事に行くのか理解できない。


今はあの男よりも俺の方が社長の近くにいて支えているはずだ。


「さっき言った通り、昔の知り合いです。食事には行く予定ですけど。」


社長の何でもないような口ぶりに、更に頭に血が上るのを感じる。


理性なんかどこかに忘れてきてしまったようだ。


「彼氏?」


「元カレです。今は何にも関係ないですけど。」


元カレと聞いて、胸がザワザワする。


変な嫉妬心も湧いてきて、自分を制御することができない。


「それなら何で2人で食事に行くんですか。」


「なんでって、美味しいケーキがあるって言うから。」


「ケーキなら俺と食べにいきましょう。わざわざ元彼と2人で食べにいくものでもないでしょ。」


俺の方を見て欲しくて、社長との距離をぐっと縮める。


何も答えない社長にイライラする。


ただ俺と食事に行くと言えばいいだけなのに。


「今日の食事断って。俺と行けばいいから。」


何を思ったのか車についていた手を社長の頭に乗せて、柔らかい髪を撫でる。


柔らかい髪の感触と驚いた顔している社長が目に入り、はっと我に返る。


自分でも何をしでかしたのか理解できずにいる。


間違いなく大変な失態をおかしたことは社長の表情を見て理解する。


とにかく冷静にならないとと思い大きく深呼吸してから、社長から体を放す。


「粗品持っていきますね。」


震える手で車のドアを開けて粗品を手に取る。


一刻も早くこの場から離れようと、その場を急いで後にする。


最早、社長の顔を見ることはできなかった。


階段に来て社長が後についてきていないことを確認すると、一気に体の力が抜けて座り込んでしまった。


今の自分の行動に頭を抱えてしまう。


いくらあの男に社長をとられたくなくても、今の行動はやり過ぎだ。


この後、社長と顔を合わせないといけないと思うと、フロアに足が向かない。


とりあえず、ノベルティだけでも届けないとと思い、社長が戻ってくる前にノベルティを置く。


まだ心の整理ができていないので、もう一度自販機に向かう。


このままフロアに戻らないわけにもいかないし、ここでサボり続けるのもダメだ。


社長に変な奴だと思われるだけは嫌だったが、社長がどんな態度をするか不安で仕方がない。


だけど、起こしてしまったことは巻き戻しができない。


とにかく自分の中では何事もなかったことにしよう。


普通に今まで通り、社長に接すればいいだけだ。


必要最低限の接触と、社長の目線から逃げればいいだけだ。


そう自分を勇気付け、フロアに戻る。


社長は戻ってきているが、市川さんと話していた、俺には気づいていない。


近くにいた女性客に声をかける。


「いらっしゃいませ。本日はご来店ありがとうございます。」


「あの、高梨さんはどこにいますか。昔からここのビキニのファンで、今日お店にいるってSNSに書いてあったので来てみたんです。」


自分の引きの悪さに嫌気がさす。


折角社長に会いに来たのに、紹介しないわけにもいかない。


市川さんと話している社長に意を決して声をかける。


「社長」


俺の声に驚いて、社長は変な声を出す。


やはり、さっきのことはなかったことにはできないようだ。


「ちょっと凛、なんて声出してるのよ。」


余りに変な声だったので、市川さんが声を押し殺して笑っている。


市川さんの存在に感謝しながら、社長に再び声を掛ける。


「お客様がお待ちです。」


「凛、早く行きなよ。」


市川さんの助け舟で、社長は待っているお客さんの方へ急ぐ。


社長から離れられてほっとする。


市川さんに変に思われないようにと、何事もなかったアピールで直ぐに近くにいたお客さんに声を掛ける。


このお客さんを皮切りに暇な時間も終わり、そこからは怒涛にお客さんが来て大忙しだった。


なるべく社長と顔を合わせないように気を遣いながら接客をする。


あっという間に閉店時間となる。


「初日お疲れ様でした。初日の売り上げですが、目標の110%で目標達成です。みなさん、お疲れ様でした。まだ始まったばっかりですので、明日以降も頑張りましょう。今日は早く帰って明日に備えて下さい。それでは解散。」


社長の言葉で怒涛のポップアップ初日が終わる。


続々と従業員は帰っていく。


それにしても、目標以上の売り上げを叩き出すのは流石社長だ。


SNS精力的に更新している社長なだけあって、ファンが多く訪れて売上に貢献していた。


そういう販売戦略もとれる社長は心から尊敬する。


尊敬の念を抱きながら社長を見ると、売上の締め作業をしている。


さっき駐車場で起こした一件を思い出す。


あの男と今日、食事に行くのだろうか。


俺と食事に行くと誘ったものの、その後気まずくて社長と話していないので、社長がどうするのか分からない。


とりあえず、あの男と食事に行かなければ、俺と食事に行かなくても良い。


社長に確認したいが、気まず過ぎて中々声をかけられない。


あの男と食事に行かない方に賭けて、俺はひとまず気持ちと心を落ち着けようと自販機へ向かう。


思った以上に疲れていたので、ミルクたっぷりのカフェオレを一気に流し込む。


糖分が体に染み渡り少し元気になった気がする俺は単純だ。


ネクタイを緩め、髪のセットも崩す。


スマホを取り出し、旬に連絡をしてみる。


『社長の元カレが現れた。今日食事に行くらしい。最悪。』


この気持ちを誰かに吐き出したくて、女々しいと思いながらも旬に送る。


ちょうど終業する時間だったので、旬からは直ぐ連絡がきた。


『まさか二股男じゃないよな。前に言った岩嶋って奴。覚えてる?』


社長と再開したポップアップで旬と会話したことが思い出される。


社長と付き合っていて二股をかけていた男が元カレだという話を。


慌てて俺は旬に返事を返す。


『下の名前、春?』


『岩嶋って苗字はよく覚えてるけど、下の名前がうる覚えだな。確かに季節の名前っぽい気がするから、春じゃね?そいつが来たのか?』


旬のメッセージを見て、旬に返信する余裕もなく、社長の姿を探しにフロアに戻る。


フロアには社長の姿おろか誰もおらず、がらんとしている。


まさかあの男と食事に行くつもりなのだろうか、もし行こうとしてるなら阻止しないとと慌てて荷物を持って社長を探す。


とりあえず駐車場に向かおうとお店を出ると、あの男の姿が目に入る。


男の視線の先を見ると、社長がいる。


社長があの男と食事行こうとしているかと思うと、一気に頭に血が上るのを感じる。


気付いたら足が勝手に動いて、社長の腕を掴んでいた。


「なんで」


こうなると自分で自分を制御できない。


「なんで、断ってって言ったでしょ。俺と行けばいいって言ったよね。」


社長は驚いているのか、何も言わず俺を見て固まっている。


そうしているとあの男が近づいて来て、社長の顔を覗き込んでいる。


「凛、どうした?この方はどちら様?」


あの男はさっき会ったのにわざとらしく、俺の方を見ながら社長に問いかける。


俺はその態度に益々頭に血が上るのを感じる。


「このあと、予定があるので食事には行けません。」


そう言って社長の肩を抱いていた。


制御できない俺の口から、畳みかけるように言葉が出て来る。


「凛、今日は予定ないって言ってたよな。それにこちらはどなた?」


抱いた社長の肩がごそごそするので、抱いた肩にさらに力が入る。


「こちらは秘書をしてもらってる相場さん。今日予定がなかったはずなんだけど。。」


おずおずとしゃべる社長の声が耳に入る。


最後の方は聞き取れるか分からない程、小さな声だ。


「なんだ、秘書か。さっ、食事に行くぞ。」


男は社長の言葉を聞いて、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


俺が抱いていない方の手を掴んで社長を自分の方へ引き寄せようとしている。


何でこんなにも思ってもいないような行動をするのか自分でも理解できないが、男の手を払いのけていた。


「今日は予定があって無理です。」


ここにいても埒が明かないと思い、社長の肩を抱いたまま車の方へ向かう。


「待てよ。」


今度は男に肩を掴まれる。


「凛が予定が無いって言ってるだろ。それに嫌がってるじゃないか。放せよ。」


そう言いながら男は俺を睨みつけながら、社長から俺を離そうとしているのか掴まれた肩に力が入る。


俺は男の方に向き直り、さらに社長をぎゅっと引き寄せる。


「ただの秘書かとお思いで?そんなわけないでしょ。俺達付き合ってるから、余計なことしないで、さっさと消えて。」


男への嫉妬心からかとんでもないことを口にしている自覚はあったが、ここで社長を男に渡したくない。


「凛、お前こいつと付き合ってるのか。前に聞いた時は仕事が忙しくて、そんな暇ないって言ってたよな。」


もうこうなったら意地でもこの男に社長を渡すまいと、俺も暴走を始める。


「俺の女に手出すな。何回も言わせるな、早く目の前から消えろ。」


二股男を追い張ろうと必死すぎて、社長の存在をすっかり忘れていた。


社長の声が耳に入り、俺は何を言ってしまったのだと我に返る。


社長の事になると、俺は自分を見失ってしまうようだ。


「春、今日はこの後仕事が入っちゃって。連絡し忘れてごめん。今日は帰って。」


社長は嘘でもいいから俺の言葉を肯定してくれるかと思ったが、そうではなかった。


「状況が良く分らないけど、とりあえず今日は帰るわ。凛、今日の埋め合わせは近いうちにしろよな。また連絡してな。」


そう言って急に態度を変えた男は俺を最後に睨みつけると去って行ってしまった。


急に社長と二人きりになって、頭に血が上っていたのが引いていく。


カオスな状況を作り出した自分が急に恥ずかしくなり、社長の肩を急いで離す。


「すみませんでした。余計なことでしたかね。でも、あいつは止めた方がいいですよ。」


二股男に戻るのだけは社長が不幸になると思い、遠回しに忠告してみる。


「春のこと知ってるんですか?確かにあいつはロクでもない奴だけど。」


相変わらずあの男のことを春と呼び捨てにするのが気にくわないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


社長が二股されていたという訳にもいかず、曖昧な表現で二股男と表現してみる。


「知り合いじゃないですが、前の職場であいつに泣かされた奴がいて。相当な浮気者ですよ。」


「春の本性、私も知ってます。浮気が原因で別れたので。友達として付き合う分には面白い奴だから、ちょくちょく連絡とってるんです。」


意外にも社長があの男の素性をあっけらかんと話すことに驚く。


そして、男の素性を知ってて食事に行こうとしていたのかと思うと、社長の思考回路がよく分からない。


「あいつと会うのは止めた方が良いですよ。社長がまた傷付きますよ。」


「折角美味しいケーキ屋を紹介してくれるって言うから、これだけは付き合わないと」


またしてもあっけらかんと話す社長に、男に気があるのかと思ってしまう。


もしかしたら、本当に未練があるのかもしれない。


だとしたら、あの男とひっついて欲しくないし、俺は社長が気になっているという気持ちが溢れてくる。


「そもそも、今日は俺と食事するから、断ってって言いましたよね。なんで断りの連絡してないんですか。」


自分勝手だとは思いながらも、社長が俺の誘いに乗らなかったことが悔しくなる。


「まさか本気で言っているとは思わず、からかわれてるだけかと思って。」


「俺が社長のことからかうわけないでしょ。何年社長のこと見てきてるかと思ってるんですか。」


「何年って、まだ会って間もないかと思うんですけど。」


社長の言葉を聞いて、怒りに任せてとんでもないことを口走ったと後悔する。


まさか、自分で何年も社長のストーカーをしていたと暴露してしまうとは思ってもいなかったので、頭の中はパニックだ。


「すみません。初めてのポップアップで疲れてるみたいで。食事はまたの機会に。」


この場を離れたくなって、話題を逸らす。


「そうですね、ポップアップが無事終わったら、打ち上げで行きましょ。」


「何度も言いますが、あいつだけは止めた方がいいです。今日はすみませんでした。また明日よろしくお願いします。」


これ以上この場にいると、さらに変なことを口走りそうだったので、急いで自分の車に向かう。


車に乗り込んで、急いで車を発進させる。


出口に向かいながら、社長も自分の車に向かっている後ろ姿を見る。


あの男と復縁するつもりかと思うと胸がズキズキする。


今直ぐにでも自分の気持ちを社長に打ち明けて、あの男と復縁するのを阻止したい。


だけど断られた時の喪失感を思うと、そう簡単には一歩を踏み出せない自分もいる。


葛藤する気持ちを抱えながら、俺は悶々としながら家まで運転していった。


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