第7話 勘違い

社長には今日午後出勤で良いと言われたが、社長は朝からビーズを持って行くために出勤するはずだから、俺もいつも通り出勤するつもりだ。


家に着いたのは3時過ぎでシャワーを浴びて、直ぐベッドに入ったものの、中々寝付けず今に至る。


気怠い体を起こして、目を覚まそうととシャワーを浴びる。


少しさっぱりした気がするが、食欲はないので何も食べずに家をでる。


いつも通り会社に着くと、いつも通り社長はまだ出勤してきていない。


ルーティンを崩すとその日の調子が出ないので、いつも通り休憩室に向かう。


「相馬さん、おはようございます。お疲れな感じですね。」


「石川さん、おはようございます。疲れて見えますかね。歳とったせいかな


笑って誤魔化すも、今日の石川さんは引いてくれない。


「歳なんてとんでもない。相馬さん、社内外含めて人気があるんですよ。」


「人気があるなんてめっそうもない。こんなおじさん。」


早く会話を終わらせたくて、カップを手に取りコーヒーを淹れる。


「おじさんな訳ないじゃないですか。相馬さん結婚されてないですよね。彼女さんいるんですか。」


この手の質問が始まるとめんどくさくなることは重々承知なので、適当なところで会話を終わらせるべく、簡単に答える。


「彼女はいませんよ。今は仕事に慣れるのに必死なんで。ちょっと仕事が溢れてて、先に失礼しますね。」


「彼女いないんですね。。。。。相馬さん、これどうぞ。疲れている時には、これに限りますよ。」


そう言って石川さんが渡してくれたのは、昨日俺が社長に渡したのと同じチョコレートだった。


「ありがとう。それではお先に。」


チョコレートを受け取って席に戻る。


席に戻ってチョコレートを見ると、昨日の出来事が走馬灯のように思い出される。


急に社長にどんな顔して会えば良いのか分からなくなり、混乱した頭から抜け出す為に、パソコンに目を向ける。


メールボックスを開くと未読メールがたくさん溜まっている。


溜まったメールボックスを見て安心するなんて、俺も仕事人間になったものだなと思い、苦笑いが込み上げる。


ふと、後ろの方で気配がして振り向くと社長がいる。


外出先を記入するホワイトボードの方へ向かっている。


まだ心の準備ができていないので、パソコンに目線を戻す。


小さく深呼吸をしてから、もう一度社長の方に目を向ける。


社長もこちらを見ており、ばちっと目が合う。


習慣とは恐ろしいもので、社長の姿を見た途端、いつも通り挨拶をしていた。


「おはようございます。」


ただ、いつもと違ったのは緊張のせいか、声が上ずっていた。


上ずった自分の声が恥ずかしく、急いでパソコンに目線を戻す。


緊張しているのが社長にバレていないか、内心ドキドキしている。


このまま、俺に話しかけずに仕入れ先に行ってくれと心の中で祈る。


祈りも空しく、祈った数十秒後に社長に声をかけられる。


「昨日は遅くまでお疲れ様でした。午後出社で良いと言ったかと思うのですが、何故出社しているんですか?」


何故か口調がとげとげしている。


やはり、昨日勝手に髪に触れたことを怒っているのだろうか。


またしても昨日のことが思い出され、まともに社長と話すことができなさそうだ。


「仕事ですから」


社長の方を見ることもできず、一言で返事をする。


俺の返答に対し、社長は何も言わない。


俺のことは無視して、出かける準備をしているようだ。


このまま存在を無視されるのも辛いと思い、社長が俺の横を通り過ぎる際に思い切って声をかけてみる。


「今日は一人で大丈夫ですか。」


緊張のせいで語尾は声が小さくなってしまう。


「近いから大丈夫です。」


まだ声がとげとげしている。


今日は一緒に行動すると、社長の気を更に悪くしそうだ。


「承知しました。今日はやることが多いので、会社で待機してます。何かあれば連絡下さい。」


大して仕事はなかったが、会社に残る言い訳をする。


何も言わずに社長は出て行ってしまった。


昨日、プライベートな話も少しして距離が縮まったかと思っていただけに、帰り際の駐車場での一件が悔やまれる。


微妙な感じで社長と別れたので、なんだかもやもやする。


社長も寝不足な状態なはずだから、事故らずに仕入れ先に行っているのかも気になる。


わざわざ電話するわけにもいかず、悶々とした状態で午前中を過ごす。


午前中を終えて、何も連絡がないということは特に大きな問題がおきなかったのだろうと解釈して、空腹を満たす為に昼食を食べようと会社を出る。


昨日と今日の疲れがどっと出て来たのか、食欲があまりない。


チェーン店のサンドウィッチ屋に入り適当に注文して無心で食べる。


食べ終えると、急に糖分を摂取したからだろうか、眠気が襲ってくる。


会社に戻って軽く仮眠でもしようと会社に戻る。


途中、コンビニに寄って午後からの仕事中の眠気覚ましにブラックコーヒーを買う。


会社に着くころには眠気がピークになっていた。


自分のデスクに倒れ込むように座ると、一気に意識を手放した。


お昼の始業を告げるチャイムで目が覚める。


慌てて体を起こし、目覚ましに買っておいたブラックコーヒーを一気に飲む。


まだ頭が目覚めていないようで、ぼーっとする。


「午後の始業の前にちょっと集まってもらえますか。」


社長の声が耳に入ってきて、一気に目が覚める。


声が聞こえてきた方を見ると、社長が戻って来ていた。


「昨日は色々ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。相馬さんのおかげでなんとか新作発表会には間に合いそうです。今後、同じミスをしないように、決済待ちの書類はこのトレーに入れて下さい。」


社長に名前を呼ばれ心臓がどくりと音を立てる。


社長は手に持ったトレーをみんなに見えるように前に出している。


昨日の失敗に対して、直ぐに対策をするところは流石社長だと惚れ直す。


一通り説明が終わった社長はデスクに戻っていく。


俺も仕事をしようとデスクに座りメールの確認をしようとメールボックスを開ける。


「相馬さん。」


社長に呼ばれ、再び心臓がドクリと音を立てる。


「何でしょうか。」


ドキドキしている心臓に気付かないふりをして、社長のデスクに近寄る。


「今回、相馬さんのおかげで難を乗り越えられました。改めてありがとうございました。」


改めて御礼を言われると恐縮してしまう。


「自分の仕事をしたまでですから。」


こういう時なんと返事をすれば良いか分からず、当たり障りのない回答をする。


「新作発表会まで少し落ち着いたので、歓迎会と昨日も御礼も兼ねて食事でもと思うのですが。急な話ではありますが、今日の夜は都合どうでしょうか?」


急な話でドキドキしている心臓のスピードが速まる。


これは俺と二人で食事に行くと言っているのか、それともみんなで行くと言っているのか判断できない。


まさか仕事中に二人で食事に行くなんて誘いをするはずもない。


二人で行くと勘違いして、実はみんなで行く食事の約束だったら、これから恥ずかしくて社長に顔を合わすことができない。


これは間違いなく、みんなで食事に行こうという誘いでと結論付ける。


「お気遣いありがとうございます。今日は予定がありませんので、みんさんに声をかけてきます。お店はみなさんの意見を集約して、私が予約します。開始時間は19時でよろしいですか。社長はご希望のお店はありますか。」


俺の返事を聞いて、社長は一瞬不服そうな顔をする。


まさか、2人で食事に行くお誘いだったのかと思ったが、次の社長の言葉で勘違いしなくて良かったと、胸を撫でおろす。


「相馬さんへのお礼と歓迎会ですし、店は私が手配しますよ。」


社長の言葉を聞いて、俺の歓迎会という意味だったのかと理解する。


忙しい社長に俺の歓迎会ごときで、労をかけたくないと思い、自ら幹事をやることにする。


「いえ、社長は昨日できなかった仕事がたくさんあるかと思うので、そちらに専念して下さい。お気になさらずに。」


そうと決まれば、みんなの予定を抑えておこうと近くにいる人達に声を掛ける。


ちょうど受付の石川さんがこちらのフロアに来ていたので声を掛ける。


「石川さん、今日の夜予定あいてますか?」


「相馬さんから誘って頂けるなんて光栄です。予定は空いています。」


「俺の歓迎会を社長が開催してくれるそうなので、是非参加して下さい。」


「なんだ二人きりのお誘いかと思ったのに残念。」


ケラケラと笑う石川さん。


「ちょっと相談なんですが、歓迎会するに良いお店教えてもらえませんか。この辺の土地勘がまだなくて。」


「いいですよ。このお店がぴったりですよ。うちの会社の名前言えば予約すぐできますよ。よく使うので。今日は平日だし問題ないでしょ。」


そう言ってスマホでお店のページを見せてくれる。


そのままお店の電話に電話すると空いているようで予約ができた。


人数が確定したら、また連絡すると言って電話を切った。


「石川さん、ありがとうございます。無事お店も予約できました。今晩は楽しみにしていてくださいね。」


「お役に立ててうれしい限りです。それでは、また後程。」


お店が予約できたので、まずは社長に報告と思い声をかける。


「先程、今夜の手配が完了しました。駅前の焼き肉屋に19時集合でお願いします。総務の方にお店を聞いたので、間違いないかと思いますが、お店は問題なかったでしょうか。」


「調整ありがとうございました。19時お店で了解しました。」


なんだか不機嫌そうな社長の態度を見て、焼き肉は好みじゃなかったのかと後悔する。


後悔してもどうしよもないので次からは違うお店にしようと決めて、他の人にも声を掛ける。


全員参加できそうだったので、お店に人数確定の電話をして、俺の歓迎会のセッティング任務が完了する。


あとは終業までに残っている仕事を片付けないとと、急いでパソコンに向かう。


ここから終業まで怒涛で、休憩する間もなくあっという間に終業時間を迎える。


さて、俺の歓迎会に行くかと準備をする。


周りの人も続々と準備をして会社を出て行っているのに、発案者の社長が全く準備をする気配がない。


まさか、お店が気に入らないからこのまま行かないつもりなんだろうか。


俺は意を決して社長に話しかける。


「俺の歓迎会と御礼の会ですよね。今さら行かないとか言わないでくださいね。早く準備して下さい。」


緊張からか、一人称が俺になってしまい、内心焦る。


社長はぎろりと俺のことを睨みつけながら、相変わらず不機嫌そうに答える。


「自分から言い出したことなので、時間通りにお店に行きますよ。ちょうど今から支度しようと思ってたところです。」


そう言うとデスクの上を片付け始める。


昨日縮まったと思った距離は俺の勘違いのようで、いつも俺は社長のことを不機嫌にしてしまうようで辛くなる。


「遅れずに来てくださいね。」


いつまでも俺がいたら、また不機嫌にさせてしまうかと思い、本当は2人でお店に向かいたかったが、誘う勇気もなく先に会社を後にする。


こんな気持ちの時は飲むに限ると思って、車は会社に置いていこうと徒歩でお店に向かう。


本当は社長と近くに座って話をしたいと思っていたが、さっきの調子だと近くに座らない方が無難だろう。


お店に着くと、既に多くの人が集まっていた。


どこに座ろうかと見渡していると、石川さんが手を振っているのが目に入る。


軽く会釈すると、石川さんが前の席を指さしている。


ちょうど空席だから座れと言っているんだろう。


知り合いがいるわけでもないので、石川さんの誘い通りに前の席に座る。


「良いお店ですね。改めてありがとうございます。」


社長のお気には召さなかったようだが、みんな嬉しそうにしているので

、改めて石川さんに御礼を言う。


「従業員みんなこのお店が好きなんですよ。特に社長がここのお肉とデザートが好きで、何かあるとこのお店なんですよ。」


石川さんの言葉に唖然とする。


社長は店が気に入らなくて不機嫌になっていたわけではないようだ。


何で不機嫌そうな態度だったのか気になってくる。


俺が何かしでかしてしまったのだろうか。


もうすぐ開始の時間になるというのに社長はまだやってこない。


社長以外は全員集まっているのに、まさかトンズラするつもりなんじゃないかと不安になり何度も入り口を確認する。


石川さんが何か話かけてきているが、社長が来るかが気になって全く耳に入ってこない。


適当に相槌を打っていると、入り口に社長の姿が見えた。


社長と目が合ったので会釈するも、俺のことを睨みつけて空いている席に座ってしまった。


まさか睨みつけられるとは思ってもいなかったので動揺する。


社長に好きになってもらわなくてもいいから、嫌われたくはない。


「相馬さん、全員揃いましたよ。」


石川さんに声をかけられて、はっと我に返る。


慌てて周りを見渡して、開始の挨拶をする。


「今日は私のためにお集まり頂きありがとうございます。今日の会を主催してくださった社長にも感謝致します。まだまだ至らない点が多くあるかと思いますが、これからよろしくお願いします。」


自分の歓迎会を自分で仕切るのもおかしいなと思いながら、挨拶をしてもらおうと社長の方を見て会釈する。


社長と目が合うものの、目を逸らされてしまう。


社長の態度に俺のガラスのハートは粉々になるも、歓迎会を始めなきゃいけないという一心で社長に声を掛ける。


「乾杯の音頭を社長にお願いします。」


俺の言葉に無反応な社長に心臓がバクバク音を立てる。


社長に挨拶を振ったのは間違いだったのだろうか。


慌てて他に挨拶をお願い出来る人を思い浮かべる。


市川さんにお願いしようと市川さんの方を向くと、社長の隣に座っていた部長の声が耳に入る。


「社長、みんなお腹が空いているから早く挨拶して下さいよ。」


慌てて社長の方に目線を向けると、部長からグラスを受け取っていた。


グラスを受け取った社長は抑揚のない声で挨拶を始める。


「相馬さんようこそわが社へ。今日は日頃の疲れを吹っ飛ばすまで飲んで下さい。かんぱーい。」


社長は俺の方を一切見ずに、当たり障りのない挨拶をすると、直ぐに座って料理を食べ始める。


社長に挨拶を振ったことが改めて悔やまれる。


俺もがっくりした気分のまま、席に座り周りの人とグラスを合わせる。


「相馬さん、ここのお肉とろけますよ。本当に美味しいから食べて下さい。」


石川さんに声を掛けられて、適当なものをつまむものの、味なんてまったく分からない。


「相馬さん飲まないんですか?」


再び石川さんに声を掛けられる。


社長の態度が俺のガラスのハートを粉々にしたせいで全く飲む気になれない。


「今日どうしても車で帰りたくて、今日は吞めないんですよ。」


無理やり飲んでも美味しくないことは分かっていたので、近くにいた店員さんに声をかけてジンジャエールを注文する。


社長に目を向けると、市川さんと談笑している。


少しで良いから、その笑顔を俺にも向けて欲しいと思ってしまう。


きっといい肉なんだろうけど社長が気になって、味が分からずジンジャエールで流し込む。


適当に相槌を打つもの疲れてきた。


早く終われと心の中で呟きながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。


ようやくお開きの時間になる。


社長はというとお酒が美味しかったのか、ぐでんぐでんに酔っぱらっている。


あんな状態で帰れるのか心配になる。


きっと市川さんと一緒に帰るのだろうと様子を見ていると、石川さんに声をかけられる。


「この後、二次会あるんですけど、行きますよね?」


ただでさえくたくたになっていたし、あの状態で社長が二次会に行くとも思えず、遠慮したい。


「ちょっと昨日の疲れが出てきてしまって、今日は遠慮させてもらえたら。また次回は必ず行くので。お声掛けありがとうございます。」


「相馬さんの歓迎会なのに残念です。次は絶対参加ですよ。約束ですよ。」


「すみません。今日はゆっくり休みます。」


そう言って石川さんと別れると、さっきまで社長がいた場所に目を向けるも社長がいない。


市川さんと一緒に帰ったのだろうと思ったが、念の為、周りを見渡すと市川さんの姿がある。


慌てて市川さんの元に寄って話しかける。


「市川さん、今日はありがとうございました。社長相当寄ってましたけど、

大丈夫ですか?」


「相馬さん、お疲れ様。昨日はありがとうございました。凛なんだけど、珍しく飲んでノックアウトしてるわね。代行呼んでおいたから、家には着くだろうけど、問題は家の中までどうするかよね。」


「市川さんと一緒に帰るんじゃないんですか?」


「私はこの後、彼氏が迎えに来るから。流石にそこまで凛の面倒みれなくて。代行がなんとかしてくれるでしょ。」


市川さんもだいぶお酒が回っているようで、随分無責任な感じだ。


「市川さん、私が運転して社長をお送りしますので、代行の番号教えてもらえますか。断っておくので。」


「相馬さん飲んでないんですか?」


市川さんが驚いた顔でこちらを見る。


「はい。ちょっと疲れが出て、飲んじゃうと駄目になりそうだったので自粛しました。なので安心して私に社長を任せて下さい。」


市川さんは俺の言葉を聞くとにやーっと不敵な笑みを浮かべたかと思うと、代行の番号を教えてくれた。


その場で電話をかけていると、市川さんの彼氏が迎えに来る。


電話をかけていたので、会釈して市川さんに挨拶をする。


市川さんは相変わらず不敵な笑みを浮かべながら、俺に手を振って車に乗って行ってしまった。


代行に繋がって断ったので、今度は社長の姿を探す。


どこにいるのか当たりを見渡すと社長が目に入る。


急いで社長の元に走り寄っていくと、あろうことか社長がふらついて倒れそうになる。


慌てて社長に近寄り、倒れそうになる体を支える。


思った以上に華奢な体と、お酒の匂いに社長の香りが混ざった匂いが鼻を擽る。


一瞬理性を失いそうになるも、ありきたりの理性を総動員して社長に話しかける。


「飲みすぎですよ。送って行きますので、キーを下さい。」


社長は驚いた顔して、俺が支えていた手からするりと抜ける。


社長は直ぐに不機嫌そうな顔になり、俺は社長に睨みつけられている。


「真理が代行呼んでくれたから、ほっといて。私に構わず、若くて可愛い女の子達と二次会に行って下さい。軍資金はちゃんと渡したので。」


「さっき真理さんに会って詳細は聞きました。代行は断ったので、待ってても来ないですよ。」


益々社長は不機嫌になり、俺をさらに鋭い目つきで睨んでくる。


「勝手に断らないでよ。飲んで運転できないから家に帰れないじゃないの。」


ただ送って行くって言ってるだけで、下心も何にもないのに、そこまで嫌がることないだろうと、俺もイライラしてきた。


「だから俺が送っていくって言ってるんですよ。早くキー出して。」


「だから、私のことはほっといて。若い子達とさっさと二次会に行って下さい。」


社長は何を怒っているのか全く分からないが、一人駐車場に向かおうと歩き始める。


流石にあの状態で運転することもできないだろうし、一人になるのも危険だと思い、直ぐに社長の腕を掴む。


「何を怒ってるんですか。若い社員達より、今のあなたと話している方がよっぽど楽しい。早くキー渡して。」


頑固になる社長にイライラしていたら、心の声が漏れてしまう。


しまった、また社長に嫌な思いをさせてしまったかと焦る。


一瞬社長が固まったものの、何を思ったのか大人しくキーを渡してくれた。


何とかキーを受け取れた達成感と安堵感で、無意識にネクタイを緩め、髪をかき上げていた。


セットされた髪は崩れているが、どうせ社長はこんなに酔っぱらってるから明日になったら記憶もないだろうと、気分が緩む。


「社長、駐車場の場所教えて。」


今の社長とのやりとりで疲れた俺は、敬語を使うのも忘れて社長に話しかけていた。


「ついてきて。」


俺の口調に突っ込むこともなく、車のところに連れて行ってくれるようだ。


ふらふらしている社長の後に着いていくと、見覚えのある社長の車が目に入る。

とりあえず駐車料金を払って、大人しく助手席の前に待っていた社長に近寄る。

鍵を開けて、助手席のドアを開ける。


大人しく助手席に乗った社長を確認してから、運転席に回ってドアを開けて座る。


車内に入ると社長の香りが充満している。


また理性を失いそうになるも、そんなわけにもいかない。


余裕もなくとにかく社長の家に向かわないとと、社長に住所を確認する。


「住所は?」


俺の口調は特に気にならないのか、社長は住所だけ言うと顔を窓の方に向けてしまった。


聞いた住所をナビに入れて車を発車させるも、社内は静まりかえっている。


あまりに静かで気まずい。


微妙に社長が動いているので、寝ているわけではなさそうだ。


「ラジオつけていいですか?」


車内の雰囲気に慣れてきたので、いつも通りの口調で社長に確認する。


「いいですよ。」


直ぐに答えが返ってきたので、寝ている訳ではなかったようだ。


「やっぱり狸寝入りだったか。」


そんな社長が可愛くて、思わず笑い声が漏れてしまう。


社長を見ていると、急に社長がこちらを向いて、心臓がドキドキと音を立て始める。


また、髪の毛に枯葉がついているのを発見してしまう。


この人はどうしていつも髪にゴミをつけているのだろうと不思議になる。


昨日髪のゴミをとって後悔したはずなのに、また彼女に触れたいという欲望の方が上回る。


気付いたら社長の髪に触れ、枯葉をとっていた。


誤魔化すようにとった枯葉をひらひらさせながら、社長に話しかける。


「髪に枯葉がついてました。」


やはり気に障ったのだろうか、社長はまた窓の方を向いてしまう。


「着いたら起こして下さい。」


またやったしまったと思いながらも、社長は飲み過ぎて今日の記憶はないだろうと少し気持ちは楽だった。


直ぐに寝息が聞こえてきて、今度は本当に眠ってしまったようだ。


車内の香りとラジオの音、社長の家まで案内してくれるナビの音でリラックスして社長の家まで着くことができた。


社長の家に着いたものの、しばらく社長の寝ている姿から目が離せない。


やっぱり寝ている姿は幼く見えるし、無防備な姿が可愛らしい。


いつまでも見ていたいがそうもいかず、軽く社長を揺さぶる。


直ぐに社長は目を開けると、慌てた様子で髪の乱れを整え始める。


「今日は相馬さんの歓迎会だったのに、最後の最後まですみません。」


俺の顔見ることもなく急いで車を降りるので、俺も慌てて車から降りる。


社長は財布から2万円を出して俺に差し出してくる。


「タクシーで帰って下さい。」


そんなつもりでもなかったし、なんだか社長の態度がムカつく。


「女から金は貰わない主義だから。今日は俺が送りたくて送っただけだから、気にしないで下さい。おやすみなさい、社長。」


イライラした気持ちのまま、タクシーを捕まえて家に帰る。


なんで金なんて渡してくるのか、タクシーに乗る金ぐらいあるし、善意で送ったのに、その気持ちが踏みにじられたようで悔しい。


イライラした気持ちのまま、昨日の疲れもあって倒れ込むようにベッドに入ると、気を失うように眠ってしまった。


朝、目が覚めてスマホを見ると、とんでもない時間だった。


急いでシャワーを浴びて着替えを済ませ、車に向かう。


車のない駐車場を見て、昨日のことが思い出される。


車は会社に置いてきたんだった。


電車で行くと間にあわないので、慌てて道に出てタクシーを捕まえる。


運良くタクシーを捕まえられて会社に向かう。


会社に着いた時間は遅刻ではないものの、いつもより遅い時間だった。


お気てから何も胃に入れていないので、せめてコーヒーでも飲みたいと思い、少しでも早くフロアに行こう。


扉が閉まりかけたエレベーターに滑り込むものの、直ぐに急いで乗ったことを後悔する。


中にいたのは社長だった。


心の準備が出来ていないものの、昨日の記憶はないだろうと仮定して、いつも通り挨拶をする。


「おはようございます。」


「昨日、駐車場代も立て替えてくれましたよね。やっぱり悪いので、タクシー代も。」


やはり覚えているのか、どこまで覚えているのか気になるが追及する勇気はない。


ちょうど降りる階についたので、降りながら社長に返事をする。


「大した金額ではなかったので、お気になさらずに。」


この時を最後に社長とは仕事の会話しかしなかった。


少し社長に近付けたと思っていたのは俺の勘違いで、社長にとって俺は秘書でありそれ以下でもそれ以上でもなかった。


その一方で俺の社長への想いは大きくなる一方だった。

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