第6話 トラブル

転職してからあっという間に時間は過ぎていき、我々の勝負の季節がもう目の前までやってきた。


夏に向けて、会社は大忙しだ。


俺も入社した時の仕事がなくて不安と焦りが懐かしく思えるほど忙しい。


秘書と言いながらも実際はマーケティングの仕事がメインになっており、毎日充実して楽しい。


社長への想いは募るばかりで、手の届かない存在と分かっているものの、一番近くで仕事をして頼りにされるようになって嬉しい。


一向に縮まらない距離にもやもやするときもあるが、俺が社長にとって距離を詰めたいと思われている存在でないことも理解している。


一緒に働き始めてから社長のことを見ているが、彼氏がいそうな雰囲気はない。


遅くまで仕事をしているので、そのまま家に帰っているんじゃないかと思う。


たまに早く帰るときは、市川さんと食事に行っているようだ。


社内で気になる人がいるような感じもなく、とにかく仕事の鬼だ。


全く俺なんて相手にされないと分かっているが、彼氏がいなさそうということだけで安心する。


もうすぐ新作の発表会があり、それに向けて準備を進めている。


残業があまりない会社だけど、流石にこの時期に残業しないということは難しく、毎日残業続きだった。


毎日会社と家の往復だったけど、社長に会えることが俺の活力の源だ。


タブレットを手に社長に予定を確認すると、この後取材の予定が入っている。


忙しそうにしているので、忘れないようにと社長に声を掛けに行く。


「社長この後、新作の取材がありますので持って行くサンプルはこれで良いでしょうか。」


なるべく不快な気分にさせないようにと淡々と社長に報告するようにしている。


「そのサンプルでお願いします。昨日は遅くまで付き合わせてごめんなさい。」


社長が一番疲れているはずなのに、俺に謝らないで欲しいと心が痛む。


「仕事ですから、気にしないで下さい。」


社長の方こそお疲れですよね、といった気の利いた言葉を言うべきか悩んでいると、社長のデスクの電話が鳴る。


直ぐ社長が電話に出たので、俺は取材に持って行くサンプルを準備しようと荷物をまとめる。


「えっ、、そんなはずはないんですが・・・・・」


後ろから社長の声が聞こえ、何かトラブルかと思い後ろを振り返る。



顔色を変えた社長がデスクにある書類の山を漁って、その中から一枚の紙を掴んで固まっている。


何かトラブルがあったようだ。


社長はそのまま電話を切ると、直ぐにどこかに電話をかけ始める。


俺は取材の時間が近づいてきているから、荷物をまとめながらも社長の方を気にする。


社長が一人で何とかしようとしているようだが、あまりにも顔色が悪い。


俺に声を掛けないということだから、関わるなということなんだろうと思いながらも気になるので声を掛ける。


「社長、顔色悪いですが、体調悪いんですか。この後取材ですが。」


社長の気分を害さないようにと言葉を選びながら社長に話しかける。


「ごめんなさい。取材リスケの連絡してもらっていいですか。ちょっと用事ができて。」


いつもより余裕のない声だ。


そんなに余裕がないなら、俺を頼ってくれればいいのにとイライラする。


何でも一人でやろうとするところが癪に障る。


一人でやりきれなくて秘書を付けようと思ったはずなのに、大事なところで頼ってくれない社長にイライラが増す。


「リスケですか?直前過ぎて印象が悪くなるかと。私が急ぎの仕事に対応するので社長が取材に行って下さい。」


イライラしたまま言葉を口にして、言った後に後悔する。


「もういいわ。私が自分でリスケの調整するから。」


俺の個t場が気に障ったのか、聞いたこともないような声で社長が怒っている。


そんなに余裕がないなら、何で俺を頼らないんだよ、一人でやるより二人でやった方がいいだろという気持ちが沸々と湧いてくる。


俺の事なんて気にすることも無く、パソコンの画面を見ている社長が益々憎らしく思える。


咄嗟にマウスで画面をスクロールしている社長の手を掴んでしまった。


驚いた社長が顔を上げる。


社長は俺の方を一瞬見たが、直ぐにパソコンに目線を戻す。


その態度が益々俺のイライラを助長させる。


社長の手を掴んでいる手に力が入る。


「さっきの言い方はごめんなさい。でも本当に時間がないから、取材は後回しにせざるを得ないの。」


パソコンから目を離さずに社長が話す。


俺が手を掴んでいるのに何ともないようにしている社長にイライラが爆発する。


「俺は社長の何?」


ここが会社なことも忘れてしまい、言葉が口から出て来る。


「俺は社長の秘書でしょ。一人で抱えこまないで下さい。何かトラブルがあったですよね。」


ここは会社だ、落ち着け、と自分に言い聞かせているつもりなのに言葉が止まらない。


社長はパソコンの画面を見たまま固まっている。


固まった社長を見て、今自分のしでかした事に血の気が引く。


掴んでいた社長の手を離す。


慌てて謝罪しようと口を開こうとすると、社長の声が耳に入ってきた。


「仕入れ先さんに生地はさっき届いたんですが、飾りのビーズが入ってなかったんです。ビーズは私のミスで発注決済をせずに、ここに注文書があるんです。」


社長がトラブルを話始めた。


さっきの自分の失言に心臓がどくんどくんと音を立てていて、何を言ったらいいか頭が回らず何も言えないでいる。


社長はパソコンの画面を見たまま、話を続ける。


「ビーズのデザインが近いものは在庫切れしていて、入荷を待つと発表会に間に合わない。急いで直ぐ手に入るビーズもあるけど、水着のデザインに合わないの。」


急に社長が動き始め、発注漏れしていたビーズのデザイン画をパソコンに映し出す。


画面をのぞき込むと、社長のふわっといい香りが鼻を擽る。


あまりに近い距離に慌てて顔を引く。


前職で付き合っていた仕入れ先が何社か頭を過ぎる。


「分かりました。このビーズですね。心あたりがあるので、俺に任せて下さい。申し訳ないのですが社長は雑誌編集者に連絡してもらってもいいですか。」


直ぐにでも何社か電話して聞かないとと、パソコンの画面をスクショする。


そんな俺を他所に社長が話しかける。


「ここでミスできないし、私が処理するわ。やっぱり相馬さんは取材の方の調整をお願いします。」


どうしよもないから顔色を変えて焦っているはずなのに、まだ俺を頼ろうとしてくれない社長に再びイライラする。


「心あたりがあるって言ってるでしょ。今回だけでいいから俺のこと信じて下さい。」


「でも・・・」


まだ社長が何か言いたげだったけど、これ以上断られたら俺の心が折れてしまうと思い、心当たりのある会社に電話をかけるために席を離れる。


思い当たる一番有力な会社に電話してみる。


『お久しぶりです。相馬です。社長、ちょっと困ったことがあって相談させてもらいたいんですが。その前に俺、会社辞めて新しい会社で働いてるんです。』


『相馬くんか久しぶり。そうか新しい会社で働いてるのか。新しい会社でもよろしくな。』


『また同じような業界なので、こちらこそよろしくお願いします。というわけで早速お仕事の話をさせてもらいたくて、社長のメールに写真を送ったので確認頂けますか』


『おう、ちょっと待っててよ。・・・・・・・おう、ビーズのデザイン画か?』


『そのデザインに似たビーズを大量に購入したいのですが、似たようなビーズありますか。あれば今日引き取りに行きたいのですが。』


『今メール送ったけど、写真のようなビーズはどうだ?俺の会社じゃないけど、知り合いの会社にこれなら沢山あるぞ。俺も先日仕入れたばっかりだから、今日行っても譲ってくれると思うぞ。』


メールを慌てて見るとデザイン画に似たビーズの写真が添付されている。


『社長、ほんとにありがとうございます。直ぐ社長に確認して折り返し連絡します。』


『その会社の住所をメールで送っておくから確認してくれ。』


もう一度社長にお礼を言って電話を切った。


急いで電話を切って社長の元へ急ぐ。


社長も色んなところに電話をかけていたようで、沢山の会社にバツが書かれたリストが目に入る。


まだ、代替のビーズは見つかっていないようだ。


「このビーズ、元々のデザインに似てますがどうですか?」


俺がタブレットの写真を見せると、社長の顔が明るくなる。


社長の答えを聞く前に、社長の表情でこのビーズで問題ないと分かり嬉しくなる。


「これなら全然問題ないわ。」


予想通りの回答で思わず顔が緩んでしまう。


「それでしたら、直ぐ入手できます。」


「直ぐって流石に今日の今日は無理ですよね。なるべく早く欲しいのですが。」


「今から行って引き取りに行く予定ですよ。知り合いの紹介先になりますが、恐らく問題ないと思うので。今日の引き取りでいいですか?今から社長に電話するので。」


久々に社長の笑った顔を見て、心臓がどくりと大きく音を立てる。


「本当にありがとうございます。今すぐ取りに行きますので、調整お願いできますか。」


その場で俺は社長に電話を掛ける。


この間に社長が調整してくれていたようで、紹介先の会社も今日引き取りに行くことも快く了承してくれたようだ。


「OKということなので、取りに行きましょう。場所はかなり遠いですが、大丈夫でしょうか。」


社長の顔が曇り何か考え込んでいるようだ。


そして顔を上げたかと思うと、信じられない言葉を口にする。


「そのお店の詳細住所教えて下さい。」


「まさか一人で車で行くんですか?」


この期に及んで、まだ一人で何とかしようとする社長に心底イライラする。


「そのつもりよ。これ以上迷惑をかけられないから。」


そう言うと社長はかばんに荷物をまとめ始めた。


俺も頭にきて、同じく鞄に荷物をまとめる。


「相馬さん何してるんですか?」


一人で行くつもりだったから、俺が荷物をまとめているのを見て驚いた社長が声をかけてくる。


あまりに強情な社長に相手にするのもめんどくさくなる。


「一緒に行くので住所は教えません。」


俺は黙々と荷物を鞄に詰め込む。


「いや、だって今から出たら夜通し走らないといけないから。私が起こした問題だから自分で処理します。十分助けてもらったので。」


あぁ言えばこう言う社長にうんざりしてくる。


くるりと社長の方を向いて遠慮せずに言うことにした。


こういうタイプにははっきり言わないと伝わらない。


「なんのための秘書なんですか。」


わざと社長の方に顔を寄せる。


驚きながら社長が身を引く。


「一人で行けるから大丈夫、今までも一人でやってきたから。」


ここまで言っても一人でやろうとする社長に、俺を頼って欲しくて細くて白い腕を掴む。


「なんでも一人でやろうとしないで、俺を頼って下さい。」


思わず掴んだ手に力が入ってしまう。


「痛い」


社長の声に、何をやっているんだと我に返る。


慌てて手を離し「すみません。」と小さい声で謝る。


だけど、荷物も多いし道のりは遠いし、連日の残業続きでの運転は危険すぎるので社長一人で行かせるわけにはいかない。


おまけにビーズの搬入が遅れたことで調整することは山積みのはずだ。


「私が運転していくので、取材のリスケ、デザインの変更や仕立て屋への連絡を行く道中でして下さい。」


この場にいると社長があぁでもないこうでもないと言ってきそうだったので、鞄を持ってエレベーターの方へ向かう。


後ろから「でも・・・・」という社長の声が耳に入る。


どこまでも強情な社長に思わず笑いが込み上げてくる。


「早く出ないと間に合わなくなるよ。」


思わず砕けた口調で話してしまった。


驚いた顔をしながらも社長は鞄を手に持つ。


ようやく納得してくれたと分かったので、今度は口調に気を付けながら


「早く来て下さい。先に車で待ってます。」


と言うと、ちょうどエレベーターが来たので乗り込んで駐車場に向かう。


一人になるとたった今、目まぐるしく起こったことを、頭の中で整理する。


自分の感情が上手くコントロールできず、とんでもない失言や態度をしてしまったと思い返すとぞっとする。


これから車という密室で3時間近く社長と一緒と考えると、益々どう接すれば良いか頭が痛くなる。


そんな混乱した状態でも、社長が来る前に車の中が汚くないかと確認してる、どこか冷静な自分に笑いが込み上げてくる。


一通り確認が終わり社長に乗ってもらうには問題ないことが確認できたので、エンジンをかけて待っていようと運転席に座る。


エンジンをかけて、密室で沈黙なのも気まずいと思い、最近お気に入りの曲を流す。


準備ができたところでちょうど社長の姿が目に入る。


俺の車を探しているのだろう。


キョロキョロしている姿が、小動物のようで可愛い。


いつまでも見ているわけにもいかないので、運転席から降りる。


俺に気付いたようで、少しハニカミながらこちらにやって来る。


その姿が堪らなく可愛らしく、心臓がドクドク音をたてる。


そんな自分の気持ちを誤魔化す為に、後部席のドアを開けて社長を待つ。


社長は一瞬躊躇したものの、何も言わず俺が開けていたドアから後部座席に乗り込む。


社長がが乗り込むのを確認してからドアをゆっくり閉めて、再び運転席に戻る。


車内は社長の良い香りがふわっと漂っている。


憧れの人と車に車に乗っていることがまだ信じられず、心臓は大暴れしている。


大きく深呼吸をしてハンドルを握って出発しようとした瞬間、社長の声が耳に入る。


「ありがとうございます。」


耳障りの良い声が耳を擽る。


鼻と耳、五感を刺激されどうにかなりそうだったので、自分を落ち着けるためにも気持ちを仕事モードに切り替えようと頑張る。


「御礼はいいので、早く連絡すべき所に連絡して下さい。」


そう言って、車を出発させる。


この言葉を最後に社長は各所に連絡をし始める。


やはり調整することが多いようで、色んな所にで連絡してはパソコンのキーボードを叩いている。


社長を気にしながら仕事の邪魔にならないように、慎重に運転する。


社長は電話とパソコンばかりしているので、一切会話の無い状況でどんどん時間が過ぎていく。


社長が仕事をしてくれていて、逆に気を使わないで済んでほっとしている。


もうあと30分で到着しそうなところまで来た。


社長は調整がほぼ終わったのか、電話はせずにパソコンを触っているようだ。


連日の残業続きに加え、車の中での作業は疲れたはずだ。


「もう後少しで着くので、少し休憩して下さい。ほぼ調整は終わりましたよね。」


少しでも社長に休んで欲しくて声を掛ける。


「本当にありがとうございます。助かりました。」


バックミラーで社長の様子を確認するとパソコンを閉じて、目頭を押さえている。


バックミラー越しに社長を見ていると、急に目を開ける。


見ていたことがバレると気まずいと思い、すぐバックミラーから目線を外す。


「どうして似ているビーズをすぐ見つけられたんですか?」


急に社長がしゃべりかけてきてびくっりする。


「前職で知り合った会社で社長に良くしてもらってたんで、連絡してみたんですよ。その会社にはなかったんですが、社長の知り合いを紹介してもらって運良くっていう感じですかね。」


「本当に助かりました。ここでミスしてたら、いろんなことを再調整しなくちゃいけなくなって、損金を考えただけでも大変なことになってたので。」


大したことをしたわけでもないのにお礼ばかり言われると恐縮してしまう。


「もうお礼はいいので着くまで休んで下さい。これ食べると脳みそが復活しますよ。」


運転しているので前を見たまま、左手だけを社長に差し出す。


甘党の俺は疲れた時によくチョコレートを食べるので、鞄にいつもチョコレートが入っている。


このトラブルで心身共につかれているだろうと思い、チョコレートを鞄から出して社長に渡す。


社長の手が俺の手の平を掠めて、チョコレートを受けっとってくれる。


かさかさと包み紙を開ける音がする。


そっとバックミラーで社長を確認すると、口にぽいっと入れる瞬間だった。


ちらちらとバックミラーで社長を見てみると、無言でもぐもぐとチョコレートを食べると目を閉じる。


やはりお疲れのようだ。


あと少しで着いてしまうが、このまま寝かせてあげよう。


少しでも長く寝てもらおうと、俺は気持ち運転する速度を緩める。


そんな努力も空しく、あっという間についてしまった。


お疲れの社長を起こすのは忍びなかったが、夜も遅くなってしまっているのでビーズを譲ってくれる会社にも悪い。


社長を起こそうと、そっと後ろを振り向くと、普段より幼い感じの社長が目に入る。


不本意にも心臓がドキドキする。


いつまでも見つめていて社長に気付かれた時気まずいと思い、ドキドキする心臓を気にしつつも、意を決して社長に声を掛ける。


「社長、お疲れのところすみません。着きました。」


俺の声で社長ははっと目を開ける。


社長と目が合って、心臓の鼓動が一層早くなる。


密室の中で音が聞こえてしまうんじゃないかと不安になり、慌てて前を向く。


直ぐに社長が車から降り、ドアを閉める。


俺も車から降りようと、煩い心臓を鎮めるために大きく深呼吸をする。


車を降りると社長が待っているので、もう一度小さく深呼吸してから社長に声をかける。


「それでは行きましょうか。」


さっきの幼い寝顔の社長が思い出され、まともに顔をみれなかったので先に玄関の方へ足を進める。


後ろから社長が着いてきている気配がする。


社長が連絡してくれていたようで、快くビーズを譲ってもらえた。


社長と何度もお礼を言って、その会社を後にする。


明日の朝一番に仕立て屋に持って行くことになっているので、急いで来た道を戻らないといけない。


会社に戻る頃には深夜になってしまうだろう。


さっきは社長を直ぐに起こしてしまったので、今度こそゆっくり休んでもらおうと運転席のドアをあけようとすると、社長が声をかけてきた。


「帰りは私が運転していくので、車の鍵を貸して下さい。」


振り向くと社長が俺の方へ手を差し出している。


鍵をくれという意味なんだろう。


こんな夜遅くに社長に長時間運転させる気もないので、


「社長はお疲れでしょうから、俺が帰りも運転します。全然疲れてないので心配しないで下さい。」


さっさと運転席に乗ろうをドアに手をかけるも、社長に再び声をかけられる。


「3時間も運転してたから疲れてないわけないですよ。早く鍵を貸して下さい。」


一緒に働き始めてから分かったが、社長は自分の考えを中々曲げない。


自分と意見が違うと、とことん追求してくる。


運転ぐらいでめんどくさいと心の中で呟きながらも、しつこい社長に笑いが込み上げてくる。


「居眠り運転されても困るので、俺に運転させて下さい。」


急に社長が黙り込んで下を向く。


直ぐ食い下がってくるとは思わなかったので、何か気に障ることを言ってしまったかと心配になる。


直ぐに社長が顔を上げて、


「ありがとうございます。お言葉に甘えて運転をお願いします。」


思ったより早く解決したことを意外に思いながらも、運転席のドアを開ける手を後部座席のドアに移動させる。


ドアを開けて社長に乗るよう促したものの、そのドアを社長が閉めて助手席に向かう。


何をしようとしているのか、驚きながら社長の後ろ姿を見ていると、くるっと後ろを振り向いた社長がおもがけない言葉を口にする。


「運転中眠くなってもいけないので、助手席でおしゃべり相手になります。」


俺はますます驚いたものの、確かに長時間運転で少し疲れていて夜も遅かったので、社長の言葉に従おうと運転席に座る。


とりあえず車を発車させるも隣の社長が気になって体が緊張で固くなる。


社長も気まずいのか、鞄をごそごそしている。


とにかく密室で無言な状態が気まずく、何かしゃべらないとと思い、思いついたままの言葉を口にする。


「なんでこの仕事始めたんですか?」


横を向くと戸惑った社長の顔が目に入る。


質問が悪かったかと後悔していると、社長の言葉が耳に入る。


「単純な話で学生の頃にサーフィンハマって、よく海に行くようになってから水着を選ぶのが楽しくなったんです。そのうち、周りの人がどんな水着を着ているか興味が出てきて、自分で自分の好きな水着を作ってみたいと思ったのがきっかけです。」


やっぱり海でよくみかけていたのは社長だったんだろうと、この時再度確信する。


「自分で起業してみたいって思ってから、実行に移せるのは本当に凄いことですよね。私にはマネできないので尊敬します。」


「たまたま運がよくて、偶然が重なって今に至るって感じなので全然すごくないですよ。」


プライベートな話はしたことなかったので、意外にも謙虚な社長に好感が増す。


「私の話はおいといて、相場さんは何故うちの会社にきてくれたんですか?あんな大手をやめてうちみたいなスタートアップ企業にきてくれるなんて。もちろんありがたいんですけどね。」


社長に近付きたくて転職しましたなんて口が裂けても言えないと思い、旬に言ったようなことを口にする。


「大きい会社で埋もれるより、自分の力を発揮できる環境で試してみたいと、ずっと思ってたんですよ。ちょうど求人を見ていたら働いてみたいと思って、今に至るわけです。」


俺の言葉を聞いて社長の顔が緩む。


「今回の事もそうですが、ほんとに来て頂いて助かってます。」


俺も社長の言葉を聞いて嬉しくなって、顔が緩んでしまう。


なんだか妙な雰囲気になってしまったので雰囲気を変えようと、わざと明るい声で話題を変える。


「社長、今日はお疲れですよね。会社まではまだまだかかりますので少し寝て下さい。」


無音な社内は気まずいと思い、ラジオをつける。


社長は黙り込んでいる。


社長のことだから俺に悪いと思っているんだろう。


このままだと気を使って寝ないだろうと思い、再度声をかける。


「運転に疲れたら交代して欲しいので、今のうちに休んでおいて頂けないでしょうか。」


社長が今度は俺の言葉を受け取ってくれたようで、ゆっくりと体を助手席に預ける気配を感じる。


「ごめんなさい。行きも運転してくれていたのに。30分だけ休んで交代しますね。」


「しっかり休んで運転に備えて下さい。」


ラジオのボリュームが少し大きく感じたので、音を小さくする。


社長は少し体勢が悪かったのかもぞもぞしたかと思うと、直ぐに寝息を立て始める。

あれだけ虚勢を張っていたが、やっぱりお疲れのようだ。


あっという間に眠りについた社長をちらっと見ると、さっきみた幼い顔の社長が助手席にいて、再び心臓がどくどく音を立てる。


この非現実な空間と社長の香りが充満した社内で俺はどうかなりそうだ。


運転に集中しようと前を向く。


しばらく社長の存在を消して運転に集中するも、社長が動いた気配を感じる。


起きたのだろうかとそっと横を見ると、腕で体を抱えている社長が目に入る。


もしかして寒いのだろうか。


自分の上着を手にとると、起こさないようにそっと社長にかける。


残りの道中、正常な気持ちで運転できるか不安になりながらも会社を目指す。


しばらく緊張した状態で運転するも、思った以上に社長はお疲れのようで全く起きる気配がない。


今度はそんな社長が愛おしく、可愛く思えてくる。


あんなに会社ではバシバシと仕事を裁いている社長の側面を見れたようで嬉しい。


そんな社長をちらちら見ていると、髪にゴミがついているのを発見する。


そのゴミを取りたかったが、起こしてしまってはいけないと見て見ぬふりをする。


隣で立てる寝息を聞きながら運転していたら、あっという間に会社に着いてしまった。


いつまでもこのまま助手席で寝ていて欲しかったが、ゆっくりベッドで疲れた体を休めた方が良いだろう。


社長の寝顔を目に焼き付けてから、社長の肩を軽く揺さぶる。


直ぐに社長は目を覚ますも、俺の顔を見ると気まずそうな表情をする。


「ごめんなさい。30分のつもりがしっかり寝てしまいました。運転お疲れですよね。本当にごめんなさい。」


社長は直ぐに目線を下げて、俺が掛けた上着を畳み始める。


この時お疲れの社長を見て、何で自宅に送っていかなっかたのだと後悔が込み上げてきた。


「お疲れだったんですね。ご自宅まで送っていきたかったのですが、住所が分からず。」


俺の言葉を聞きながら社長は時計に目をやると、慌てて帰る準備を始める。


「重ね重ねごめんなさい。遅くまで運転ありがとうございます。それからビーズの件も本当にありがとうございました。おかげでなんとかなりそうです。明日は午後出勤で良いので、ゆっくり休んで下さい。」


そう言いながら俺の上着をこちらに渡したかと思うと、助手席から降りてしまった。


名残り惜しくて慌てて俺も運転席から降りる。


「今日はありがとうございました。これで失礼します。」


社長は俺の顔を見ることもなく、早く帰りたかったの自分の車へ向かおうとしている。


運転中に気になっていた社長の髪についたゴミが再び目に入る。


どうしても気になって、社長の方へ近寄る。


社長の近くに寄ると、髪についたゴミに手を伸ばす。


社長の柔らかい髪が手に触れて、我に返る。


社長の驚いた顔が目に入り、俺は何をやっているんだと後悔が湧いてくる。


そんな気持ちとは裏腹に心臓はけたたましく鳴っている。


急に髪に触ってしまい、社長に不愉快な思いをさせてしまっていないか不安になり、慌てて説明する。


「ごみがついていましたので。ようやく顔をあげてくれましたね。さっきから頭ばっかり見てて、ゴミが付いているのが気になって。」


「ありがとうございます。今日はお疲れ様でした。」


社長は無表情のまま答える。


「お疲れ様です。ゆっくり休んで下さい。帰り道の運転はくれぐれも気を付けて下さい。」


社長の表情を見て、やはり不愉快な思いをさせてしまったと思い、社長にかける声が震えてしまう。


俺の言葉を聞くと、社長は何も言わず自分の車に行ってしまった。


いきなり髪を触られて不快に思わない人はいないだろう、余計なことをしてしまったと後悔しながら、車に乗り込む社長の姿を見る。


社長は車に乗るとすぐにエンジンをかけ発車させる。


俺の横を通り過ぎるとき小さく会釈されたので、俺も軽く会釈する。


さっきまで社長が助手席に座って寝ていたことが信じられない。


密室で6時間近くも一緒にいて、プライベートなことも少し話したことも、未だに信じられない。


そんな回想をしていると、やはり最後に髪に触れゴミをとった行動が悔やまれる。


社長はきっと嫌な思いをしたまま家に帰っただろう。


後味の悪い気持ちのまま、俺も家に帰って早く寝ようと車に乗り込み、帰路についた。

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