第5話 避ける

結局よく眠れず朝を迎える。


旬のせいでとんだ目に合っている。


まだ頭が整理できていないが、眠れぬ夜を過ごして明確になったことがある。


とにかく彼女に仕事ができない男と思われないように隙を見せず仕事をする。


そして、変な態度をとってしまう可能性があるから仕事以外では接触しないようにする。


これが眠れぬ夜を過ごして分かったことだ。


とにかくこの2つを忠実に守れば、俺の体裁が保たれる。


結論を導き出したことで少し気持ちが軽くなり、今日来ていくスーツを選ぶ。


社長にはスーツで出勤しなくてもいいと言われたが、スーツを着ることで仕事モードになれるから俺の鎧ということで、今日もスーツに袖を通す。


とにかく社長より早く会社に着いて心の準備をしなければと、急いで会社に向かう。


会社についても案の定、社長はまだ来ていない。


席について大きく深呼吸をして、パソコンを立ち上げる。


昨日言われた通り、自分のマグカップを持ってきたので休憩室に向かう。


休憩室に入ると、受付の石川さんの姿があった。


休憩室でよく会うなと思いながら声を掛ける。


「おはようございます。」


「相馬さん、朝早いですね。おはようございます。マグカップ持って来たんですね。」


「昨日教えてもらったので、早速持ってきました。朝のコーヒーで頭を目覚めさせようと。」


「朝コーヒー飲むと頭がシャキッとしますよね。こちらでどうぞ。」


石川さんの案内でコーヒーを淹れる。


他愛もない立ち話をして石川さんと別れる。


席に向かおうと目を向けると社長がデスクにいる。


休憩室で油を売っていた間に出勤してきたようだ。


社長の姿が間に入ると、一気に心拍数が上がる。


淹れたばかりのコーヒーを一口すすり、深呼吸をして席に向かう。


なるべく自然に自然にと自分に言い聞かせながら、社長に挨拶をする。


「おはようございます。」


この一言を言うだけでどれだけ緊張したか。


「おはようございます。」


俺の緊張なんて知るはずもない社長は、一瞬目線を上げるもすぐパソコンに目線を戻す。


少しがっかりした気もするが、余計な心配をするようなことが起きずホッとする。


俺も席に座り、立ち上がっているパソコンの画面を見る。


まだまだメールが少ないメールボックスを見て不安になるも、とにかく目の前にある仕事だけでも完璧にこなそうと気合を入れ直す。


相変わらず社長のスケ―ジュール始め、各部署との予定の調整は次から次へとやってくる。


あっという間に午前中が終わり、午後からは社長からマーケティングの資料作りを頼まれる。


休憩する暇もなくあっという間に終業時間を迎える。


あれだけ社長に変な態度をしてしまうかもしれないと心配していたが、その心配をよそに、そんな暇は全くなかった。


この会社は残業するという文化がないようで、就業のチャイムと共に続々と従業員が退勤していく。


いつまでも会社に残っていると仕事ができない奴だと思われるのが嫌で、ある程度区切りがついたところで退勤する。


退勤前に邪魔をしないようにと小声で社長に挨拶をして会社を後にする。


こんな毎日が繰り返されてあっという間に一週間が終わる。


朝は挨拶をして、日中は必要最低限の仕事の話をする、帰りに退勤の挨拶をする。


これが俺と社長が言葉を交わすタイミングだ。


プライベートな会話は一切ない。


何を期待していたのか、この一週間で全く縮まらない距離にがっくりしてしまう。


この一週間で変わったことと言えば、空のメールボックスを見て不安になっていたのは最初だけで、今やあっという間にぱんぱんになるメールの処理に追われる毎日だ。


仕事の要領も掴めてきて、スケジュール管理は当たり前だがマーケティングの仕事も徐々に増えてきて楽しくなってきた。


秘書というからには、あまりクリエイティブな仕事はできないだろうと思っていたが、予想に反して色々やらせてもらえて仕事が楽しい。


そんなことをぼんやり考えながらも今日も会社に向かう。


相変わらず朝、社長を見ると心臓が煩いので心の準備をするためにも朝は早めに出勤している。


コーヒーを淹れるために休憩室に向かうと、石川さんがいる。


他愛もない会話をして席に戻る。


これもこの一週間でついた習慣だ。


「社長、おはようございます。」


コーヒーを淹れ終わり席に戻ると、すぐに社長が出勤してくるので挨拶をする。


準備時間があるため、最近はそこまで緊張せずに挨拶ができる。


「相場さん、おはようございます。今日、この資料目を通しておいてくれますか?」


社長が資料を俺に渡そうと差し出している。


「承知しました。」


と言いながら、資料に手を伸ばす。


「・・・・・っっ。」


資料に手を伸ばしたつもりが、社長の手を触ってしまった。


慌てて手を引っ込める社長に、思わず苦笑いが漏れる。


そのせいで資料が床に散らばる。


「すみません。私が拾いますので社長はデスクに戻って下さい。」


俺は慌てて床に散らばった資料を集める。


資料を集めていると気配を感じる。


横を見ると社長も資料を拾っているが、その距離の近さに心臓がバクバク音を立て始める。


心臓の音が社長に聞こえやしないかと心配になるほどだったので、急いで資料を集める。


「凛と相場さん、朝から床に這いつくばって何してるの?」


ふいに頭上から声がして見上げると、市川さんがこちらを見下ろしている。


「市川さん、床に這いつくばってるなんて失礼な言い方辞めて下さいよ。俺が社長から資料を貰おうとしたら、うっかりして落としてしまったんですよ。」


市川さんの登場で少し気が楽になる。


市川さんとは休憩室でちょくちょく会ったり、廊下ですれ違い際によく話すようになっていた。


「後はよろしく。」


急に社長が資料を拾うのを辞めて、デスクに戻ってしまった。


さっきまで距離の近さにどぎまぎしていたが、いざ距離が離れると寂しくなる自分も我儘だと思いながら、社長に謝罪する。


「すみませんでした。」


俺の謝罪を聞くとすぐに、わざと音を立てて椅子を引く社長。


そんなに気に障ったのかと不安になる。


「凛、朝からご機嫌斜めね。これ今日中に欲しい決済資料なの。目を通して戻してちょうだい。」


市川さんが割って入ってくる。


市川さんがこの場にいてくれて良かったと心底思う。


「決済するからここに置いといて。」


社長は珍しく機嫌の悪そうな感じで返事をしている。


「了解。いつまでも機嫌悪くしてないでね。」


市川さんもそれを感じたのか、一言だけ言って席に戻ってしまった。


そう言って、資料をデスクに置くと真理は席に戻っていく。


俺の対応がまずかったのか、なんで不機嫌になったのか全く分からない。


何で機嫌が悪くなったのか社長に聞くわけにもいかず、微妙な雰囲気のまま始業を迎える。


そんな雰囲気のまま午前中が終わり、午後になっても状況は変らない。


もしかしたら、俺だけが妙な雰囲気だと思っているだけで社長はいつも通りなつもりなのかもしれない。


だけど、この雰囲気に耐えられず俺は早めに休憩をとろうと休憩室に向かう。


休憩室に向かうと石川さんとその同僚の若菜さんがいる。


「お疲れ様です。」


2人に声をかけて、今日はコーヒーな気分じゃなかったので栄養ドリンクを買おうと自販機に向かう。


「お疲れ様です。相馬さん。栄養ドリンクなんて珍しいですね。お疲れですか。」


「疲れる程、仕事がまだないですよ。たまには気分転換にと思って。」


「洋平さん、この近くにできた海鮮丼のお店行ったことありますか?」


石川さんの同僚の若菜さんは、俺のこと下の名前で呼んでくるし、俺が苗字で呼ぶと怒ってくるから、俺も下の名前で呼んでいる。


「一昨日行きましたよ。結構美味しかったですよ。あのお店新しいお店なんですね。店長がお笑い芸人に似てるんですよ。誰に似てるか行ってみればわかりますよ。」


「洋平さん、面白いこといいますね。あの店の店長がお笑い芸人に似てるなんて、今度行ってみようかな。」


若菜さんが笑いながら俺の肩を叩いてくる。


ボディータッチの多い女性はあまり好きじゃない。


「若菜さんも今度行ってみて下さいよ。食事の味なんか分からなくて店長ばっかり気になるから。」


そう言いながら距離を取ろうと後退りしようとした時、休憩室の入り口でこちらをみている社長が目に入る。


こんなところでさぼっていると思われたくないと、若菜さんと石川さんに挨拶をして社長がいる休憩室の入り口を目指す。


実際はさぼっていたので、そこを見られて気まずい。


さぼっていると思われるのが嫌で社長が休憩室にいるときは中に入らないし、社長が入ってきたら、すぐ部屋を出るようにしていた。


社長の立っている横をすり抜けようと顔を上げずに通り過ぎようとすると、


「相馬さん。」


社長に声をかけられる。


相変わらず機嫌が悪そうな声なので、さぼっていたことを咎められると思い、慌てて謝罪する。


「社長すみません。少し長めに休憩してしまいました。急いで仕事を仕上げますので。」


とにかくこの場を早く離れようと、急いで自分のデスクに戻る。


俺が席に戻ってしばらくすると、珍しくジュースを手にした社長が戻ってくるのが目に入る。


俺はとにかくパソコンから目を離すまいと画面を睨みつける。


ふわっといい香りがして社長が近づいてきたのが分かる。


休憩室でのことを何か言われるんじゃないかと体が固くなる。


社長が横を通った気配がしたものの、何も言うことなく自分のデスクに戻っていく。


何も言われなかったことでほっとして体の力が抜ける。


ほっとしたはずなのに一方で俺に興味がないと言われているような気がして、複雑な気分もする。


もやもやした気持ちもあったが、さっきのサボりを挽回すべく、俺は目の前にある仕事をとにかく早く完璧に仕上げようと頭を切り替えて、パソコンに向かった。

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