第4話 不愛想な女
いつも通りのスマホのアラームの音で目が覚める。
旬のおかげで余計なことを考えずにぐっすり眠ることができた。
待ちに待った日がようやくやってきた。
いよいよ今日から彼女の会社で働く。
昨日までは引継ぎに追われて色々考える暇もなかったが、今日という日を迎えた途端急に自信がなくなってくる。
昨日までは会社の即戦力として力を発揮してきたが、今日からはどうなるのだろうか。
仕事のできない男だと落胆されるのだけは避けたい。
彼女の仕事で働くにあたって、正直なところ下準備ができていない。
とにかく現地現物で分からないことは素直に聞いて、早く新しい環境に慣れよう。
まずは社会人としての常識であろう遅刻をしないことを第一目標にして、俺は急いでベッドから出る。
昨日疲れ切っていてスーツを選ぶ時間がなかったので、面接の時に着ていったスーツを手にとる。
前の会社でもそうだったが、何か気合を入れる必要があるときにはゲン担ぎで着ていたスーツだ。
これに紺色のネクタイを合わせて、シャツは明るめの水色を合わせる。
鏡に向かって髪の毛を遊ばせるようにセットしたものの、何だか軽い男に見える。
再度、きちっとまとめてセットしてみる。
初日だからこれぐらいの方が良いだろう。
何も食べずに集中力が切れてはいけないと思い、バナナとプロテインを流し込む。
時計を見ると、そろそろ出た方が良い時間だ。
慌てて歯磨きをして、最後にもう一度身なりを整えて家を出る。
車通勤の申し出をしていたので、車に乗り込んで会社に向かう。
いよいよ彼女の秘書として働くと思うと、期待半分不安半分だ。
ポケットに入っているスマホが揺れるのを感じたので、信号待ちに確認する。
旬からだ。
『昨日はありがとう。彼女について感想送れ。』
旬らしい激励に少し不安な気持ちが薄れたような気がした。
段々と彼女の会社に近付いてくるにつれ、柄にもなく緊張してくる。
会社に着くと緊張はピークに達していた。
深呼吸をしてから車から降りる。
見覚えのある受付の女性に声をかける。
「本日からこちらでお世話になります、相馬と申します。」
「相馬様ですね。少々お待ち下さい。」
面接の時同様、来客モニターを確認している。
「相馬様、こちらが社員証となります。フロアまでご案内します。」
受付の女性から社員証が手渡される。
「働くフロアにご案内します。受付ゲートで社員証をかざして下さい。」
受付の女性の後について、受付ゲートで社員証をかざすとゲートが開く。
いよいよこの会社で働くと思うと気持ちが引き締まる。
エレベーターを待つ間、受付の女性がしゃべりかけてきた。
「受付の石川です。これからよろしくお願いします。」
ぺこりと挨拶をして、リスのようなくりくりな黒目でこちらを見ている。
「今日からお世話になる相馬です。面接の時も案内してくれましたよね。これからよろしくお願いします。」
「覚えてくれていたんですね。ありがとうございます。何か分からないことがあったら、気軽に声かけて下さいね。」
「ありがとうございます。」
俺がお礼を言うと目的のフロアにエレベーターが着いた。
石川さんの後について行く。
「こちらが相馬さんのデスクになります。こっちの席が高梨さんのデスクです。」
高梨さんって社長のことか?
この会社は役職に関わらず名前で呼ぶのだろうか。
俺が怪訝な顔をしていたのだろう、石川さんが説明を付け加えてくれる。
「高梨さんって社長のことです。うちの会社は役職に関わらずみんな名前で呼んでるんですよ。」
俺が聞きたかったことを説明してくれた。
「ありがとう、石川さん。何か困ったことがあったら声をかけさせてもらいます。」
女性の好感度が上がると言われている、とびきりの笑顔で石川さんにお礼を言う。
「何でも聞いて下さい。それでは失礼します。」
石川さんの後ろ姿を見送ってから、持ってきたものを自分のデスクにしまおうと引き出しを引く。
文房具も持ってきたが、会社で支給してくれるようである程度のものは事前に引き出しにしまわれている。
なんて従業員に優しい会社なんだと感心してしまう。
いつ彼女が来るのかドキドキする。
心臓の音が耳に鳴り響いているから相当だ。
引き出しの中に入っていない足りないものを鞄から出して、しまっていると後ろから人が近寄ってくる気配がする。
彼女かと思い慌てて立ち上がり後ろを振り返る。
入り口で固まっている彼女が目に入る。
彼女を見た途端、一気に心拍数が上がる。
「おはようございます。相馬さんですよね。面接の時に挨拶させて頂きました市川真理です。」
彼女のことしか見ていなかったので、近寄ってきたことに気付かず急に声をかけられてびっくりした。
「相馬です。この度はお声がけ頂きありがとうございました。ご迷惑をおかけしないよう頑張りますので、ご指導よろしくお願いします。」
俺は深々と頭を下げる。
「そんな改まって挨拶しなくてもいいわよ。みんなから真理さんって呼ばれてるから気軽に呼んで。」
「分かりました。今日からよろしくお願いします。」
俺の言葉を聞くなり、真理さんはくるりと後ろを振り返る。
「ちょっと、凛何してるのよ。」
入口で立っていた彼女は無表情でこっち来ると
「おはようございます。今日からよろしくお願いします。」
とだけ言って自分のデスクに荷物を置いている。
遠目から見ていた時はよく笑っている人だったので、その通りの明るい人かと思ったけど見当違いのようだった。
むしろ俺に対して不快感を抱いているような態度のような気がして一気に不安になってくる。
慌てて俺の隣に立っていた真理さんが声をかけてくれた。
「ちょっと凛、相場さんにデスクを案内しなくていいの?私が案内するわよ。引継ぎもどうするのよ。」
真理さんの声に反応するものの、彼女は何故か鞄の中からスマホを取り出している。
「真理、ごめん。急ぎの電話があるから、相馬さんを席に案内しておいてくれる。電話が終わったら、引継ぎするから。相馬さん、少しお待ち下さい。」
いきなり避けられているような態度を取られて、面接の時に何かしてしまったのだろうかと頭を巡らせているうちに、彼女はさっさとフロアから出て行ってしまった。
残された真理さんに声を掛ける。
「真理さん、俺のデスクはここです。さっき石川さんに案内してもらいました。」
「そりゃそうよね。だから、ここにいるのよね。私ったら何言ってるんだろう。秘書といっても通常の秘書のような仕事じゃないことも手伝ってもらうおうとしていたから、凛が戻ってきたら詳細を確認して下さい。」
真理さんがこの場から離れようとしているので不安になってくる。
「ありがとうございます。社長が戻ってきたら詳細確認します。本日よりよろしくお願いします。」
「凛のこと社長って呼んでる従業員はいないわよ。相馬さんもみんなと同様、凛さんって呼べばいいですよ。」
そう言って、真理さんは自分の席に行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、いきなり彼女のことを凛さん、なんて呼べやしないと心の中で思った。
それより、さっきの社長の態度が気になる。
何かやらかしてしまっていないか面接の時のことを思い出してみるも、心当たりはない。
戻ってきた社長にどのように接すれば良いか頭を悩ませていると、社長が戻ってくる姿が目に入る。
どうしたら良いものかと思いながらも、とりあえず席から立ってみる。
社長が近寄ってくる。
さっきは気付かなかった、良い香りがふわっと鼻を掠める。
「さっきはすみませんでした。急ぎの用事を思い出してしまって。これ珈琲です。みんな自分のマグカップを持ってきて、休憩室にある珈琲飲んでるんで、相馬さんも良ければ持ってきてください。」
社長の白くて細い手からカップを受け取る。
さっき感じた俺に対する不快感や避けられているような気配が全く無いので安心する。
「ありがとうございます。本日より、よろしくお願いします。」
改めて挨拶をして、頭を深く下げる。
頭上から社長の言葉が降って来る。
「早速だけど、仕事内容の確認をしたいので、こっちのデスクに来てください。」
俺は立ったまま、手帳を手に取り近寄ろうとすると、
「長くなるのでイスに座ったまま、こちらに来て頂いても良いですか。」
ちょっとの心遣いが嬉しくなる。
イスに座り直して社長のデスクに寄っていく。
距離がぐっと近くなり、再び心臓がドクドクと音を立て始める。
加えて良い香りが一層強く感じられる。
仕事に集中しろと自分に言い聞かせながら、仕事の内容を確認する。
事前に聞いていた通りの業務について、社長から軽く説明してもらう。
主に社長のスケジュール、水着販売のスケジュール管理、仕入れの管理、書類管理、各部署との連絡役等、広く浅く仕事を
加えて、マーケティングの仕事も一部お願いしようと口を開く。
「面接のときにはお願いしなかったのですが、来期のシリーズについてのマーケティングもお願いしようと思っているのですが、よろしいでしょうか。少し業務が多くなってしまうのですが。」
「構いません。お力になれるよう頑張りますので、何でもお申し付け下さい。」
履歴書を書くときに頭を悩ませながら書いた内容を読んでくれていたかと思うと嬉しくなる。
「ありがとうございます。助かります。総務から共有スケジュールの使い方とかは聞いてますよね?このパソコンで全て見れるようになっているので。」
「全て聞いております。まだ触っていないので、使えるかは分からないのですが、前の会社と似ているのでたぶん問題ないかと思います。」
「それでは、これが資料となりますので。何か分からないことがあったら声を掛けて下さい。」
そう言うと社長はさっさと自分のデスクに戻っていく。
全く無駄のない会話を無表情で淡々とする社長を見ていると、仕事に真剣なのが伝わってくる。
旬の言っていたような、どうこうする仲を考える隙もないな。
最初は社長のことに興味を持って入った会社ではあるが、今は新しい環境でどれだけ自分の力が発揮できるか楽しみでもある。
とにかく仕事に集中してミスなく進めなくてはと改めて気を引き締める。
鞄に残っていたものを引き出しにしまって、机の上に置いてあるパソコンを起動する。
開くまでに少し時間がかかりそうだったので、ちらっと社長を見てみる。
パソコンの画面を見ながら、相当なスピードでタイピングしている。
誰がどこから見ても仕事が出来る女性だ。
真剣にパソコンを見る姿にも目が惹かれる。
パソコンが起動したことを告げる音が耳に入り我に返る。
慌ててパソコンに視線を戻す。
総務の人から貰ったパソコンマニュアルを取り出しながら、まずは共有スケジュールを見てみる。
社長のスケジュールを見ると、思っていた通り予定がびっしり入っている。
俺のスケジュールは当然のことながら、真っ白だ。
この予定を真っ黒にするぐらい働かないとなと、改めて気持ちが引き締まる。
スケジュールの使い方も分かったので、次に社長から渡された資料に目を通す。
過去に水着を購入した年齢と性別のデータだった。
来期の販売モデルの参考にしたいんだなと思いながら、資料をまとめようとエクセルとパワーポイントを開く。
さてとりかかろうとキーボードに手を置いた瞬間、デスクの上の電話が鳴る。
慌てて受話器を取る。
「秘書室の相馬です。」
「川上商事様より社長へのアポイントの電話です。」
先程の案内してくれた受付の石川さんの声だ。
「分かりました。ありがとうございます。」
石川さんにお礼を言って、外線に切り替える。
「お待たせしました。いつもお世話になっております、秘書室の相馬と申します。」
そう言いながら共有スケジュールを開いて社長の予定を確認する。
「今期のビキニの購入数についてご相談させて頂きたく、社長と面会させて頂きたいのですが、今週の金曜日の午後予定は如何でしょうか。」
社長のスケジュールを見ると15時から1時間空いている。
社長に勝手に予定を入れていいか確認すべきだったと後悔する。
「社長に予定を確認しますので、少々お待ち下さい。」
保留のボタンを押して急いで社長の元に行く。
「お忙しいところ、申し訳ありません。川上商事の販売促進部部長の遠藤様より面会のお願いがきております。今週の金曜日15時から1時間程空いているのですが、予定を入れてもいいでしょうか。」
社長は一瞬俺の方を見たものの直ぐに視線をパソコンに戻しながら、
「予定が空いていれば入れて頂いて問題ないので。」
俺の方を見向きもせずに答えている。
「承知しました。今後も予定が空いていれば、スケジュールを入れさせて頂きます。」
聞こえているのか、聞こえていないのか分からないが、この俺の返答には反応せず、パソコンと睨めっこをしている。
なんて不愛想な人なんだと思いながら、急いで電話口に戻る。
「お待たせして申し訳ありません。社長の予定が確認とれまして、金曜日の15時から如何でしょうか。」
「ご調整ありがとうございます。金曜日の15時に伺わせて頂きます。」
そう言って電話が切れた。
新入社員じゃあるまいし、電話を終えてほっとしている自分に笑えてくる。
社長のスケジュールを変更しながら、先程の様子が思い出される。
あまりにも不愛想な態度だったから、仕事中に話かけられるのは好まない人なのかもしれない。
なるべく仕事中は話しかけないようにしよう。
社長のスケジュールの変更を終えたので、とりかかったばかりの資料にパソコンの画面を戻す。
仕事中に話しかけないようにと思ったけれども、現実はそう上手くいくわけでもない。
アポイントの電話で社長のスケジュールが詰まっているので、どちらの予定を優先させるか、仕入れ先からの納期調整など、社長に確認をとらないといけないことが発生する。
その度に社長に話しかけるも、不愛想に最低限の返事をするだけだ。
段々仕事中に話しかけるのが怖くなってくるほどだ。
こんな調子で電話と資料作成をいったりきたりしているうちにあっという間に午前中が終わってしまった。
思っていた以上に緊張していたようで体がカチコチになっていたので、思いっきり伸びをする。
滞っていた血液が体中を駆け巡るような気がして気持ちが良い。
「お疲れ様です。お昼の時間はみんな外に食べに行ったり、持ってきたりしているので、お好きなようにして下さい。休憩時間も特に決まっていないので、好きなタイミングで休憩して下さいね。」
急に社長に話しかけられる。
慌てて伸びをしてた体勢から姿勢を基に戻し、社長の方に顔を向けると、不愛想な表情ではなく、柔らかい笑顔をした社長が目に入る。
急に話しかけられて驚いているからか、それともさっきまでの不愛想な表情ではないことに驚いているのか分からないが、心臓がけたたましく鳴り始める。
やっとの思いで口を開く。
「ありがとうございます。この辺のお店を開拓するのが楽しみだったので、色々お店に行ってみます。」
聞こえるはずはないが、心臓の音が社長に聞こえてしまうのではないかと心配になる。
とにかく早くこの場を離れようと、財布を手にして急いで席を立つ。
エレベーターを待っている間に社長と鉢合わせるのも気まずいと思い、急いで階段を下りる。
会社を出て、最初に目に入った定食屋に入る。
席に案内され座ったところで、一気に体の力が抜ける。
今日は初恋をした中学生じゃあるまいし、何かと行動がおかしくなる。
今も社長と顔を合わせったって、なんてことないのに、好きな人をわざと避ける中学生のような行動をとる自分に呆れてしまう。
そんな自分に呆れながら、手元にあったメニュー表を広げ適当なものを注文する。
朝から見ていなかったスマホを確認すると、案の定旬からメッセージが届いている。
『彼女とは順調か?』
仕事の心配を一切していないのが旬らしいと思いながら返信する。
『思っていた以上に不愛想。仕事以上の付き合いはないな。』
本音だった。
直ぐに旬から返信がくる。
『不愛想なわけないだろ。販売店でも明るく同僚としゃべってただろ。お前が不愛想にしてるんじゃないか?』
旬の返信を見て、俺が不愛想にしていたか思い返してみるも、出社してから好感度を上げるために、努めて明るくしていた。
『俺は好感度の為に朝からハイテンションで既に疲れた。彼女とのことより、仕事の心配をしてくれ。』
話題を変えるために、わざと別の話題をふる。
旬からの返信を待ちながら、社長の様子が思い出される。
ふわっと香るいい匂いと細い指、昼休みに話しかけられた時の柔らかい表情が思い出される。
「お待たせしました。サバの味噌煮定食です。」
定員さんが注文した食事を持ってきた声で我に返る。
お礼を言って食事を受け取る。
社長の事を思い返す変態的思考に、我ながら呆れてしまう。
昼休みの時間も限られているし、さっき借りたマグカップを洗わないといけないと思い、急いで食事に手を付ける。
適当に入った店で適当に注文した食事にしては大当たりだ。
かなり美味しい。
メニューを見ると他にも色々あるので、また来ようと思いながら食べ進める。
あっという間に食べ終わったものの、ゆっくりする暇もなく、会計を済ませて急いで会社に戻る。
会社に戻るとまだ昼食中の人が多いのか、社内は閑散としている。
社長の席に目を向けるも昼食中なのだろう空席だ。
今朝社長に淹れてもらったマグカップを持って、聞いていた休憩室に行ってみる。
フロアとは違って、休憩室は多くの社員で賑わっている。
給湯室に食器棚があるに違いないと思い、給湯室を探すためキョロキョロしていると、声を掛けられる。
「何かお探しですか?」
振り向いてみると、受付の石川さんが目の前に立っている。
「借りたカップを洗って返したいんですが、どこに置けばいいか教えてもらえますか?」
好感度を上げるために、努めて明るく返事をしてみる。
「給湯室がこっちにありますので。」
案内してくれる様子なので、石川さんの後に続く。
「初日の午前中どうでしたか?」
石川さんが振り返って話しかけてきた。
「思った以上に電話が多かったので、あっという間に終わってしまった感じです。」
「凛さんは本当に忙しい人だから、電話も多いですよね。あっ、ここが給湯室で洗剤とスポンジはここです。洗い終わったら、この食器棚にしまって下さい。自分のマグカップもここにしまっていいので。」
親切に説明してくれる。
「石川さん、ありがとう。」
お礼を言って、マグカップを洗い始めるも、石川さんは戻る様子がない。
黙ってマグカップを洗っていると、再び石川さんが話しかけてくる。
「相馬さんは前職なにをやっていたんですか?」
「同じような業界ですよ。アパレルにいました。ビキニや水着は扱ったことないので、初めてのことだらけで勉強になります。」
マグカップを洗い終えたので、拭こうと布巾をさがしていると石川さんから手渡される。
ありがとうとお礼を言ってマグカップを拭いていると、また石川さんが話しかけてくる。
「そうだったんですね。日焼けされているので、何か外で働くようなことでもしていたのかと思ってたんですが、検討違いでしたね。」
これは真剣に相手をすると長く引き留められそうだと思ったので、適当なところで切り上げよう。
「日焼けは趣味でサーフィンをしているからかな。マグカップはここに置けばいいんですよね。色々教えて頂きありがとうございました。また、分からないことがあったら教えて下さい。」
半ば強引に話を終えようと試みる。
「いえいえ、また分からないことがあったら聞いて下さい。」
石川さんも会話を終了することに合意してくれたようなので、再度お礼を言って給湯室を後にする。
フロアはお昼から戻ってきた社員で賑わいを取り戻している。
席に戻ってみるものの、社長はまだ戻ってきていないようだ。
メールを開いてみるものの、空のメールボックスに苦笑いが込み上げる。
今までは午前中だけでうんざりする程のメールが届いていたのに、空のメールボックスを見ると不安になる。
あんまり空のメールボックスを見ているとおかしくなりそうだったので、社長に頼まれた資料に画面を戻す。
この会社ではまだまだ新人だから、言われたことだけでも120%で対応したいと思い、再び資料の作成を進める。
キーボードをカタカタ鳴らしていると、背後に人気を感じる。
「市川さんの分と自分の分を淹れるついでに淹れたので、どうぞ飲んで下さい。」
先程洗ってしまったはずのマグカップを手にした社長が立っている。
驚きと共に心臓がドクドク音を立て始める。
慌てて立ち上がって御礼を言いながら、マグカップを受け取る。
「すみません、今朝に続きありがとうございます。」
「コップ洗ってくれたんですね。仕舞い方説明し忘れてて、すみません。」
そんなことで謝らないで欲しいと思いながら、さっきの石川さんとのやりとりが思い出される。
「ちょうど休憩室に社員の方がいて、仕舞い方を教えてくれまして。タイミングが良かったです。」
返答したものの、社長は急に表情を曇らせて黙り込んでしまった。
何かいけないことを言ってしまっただろうかと不安になるし、沈黙が気まずい。
この状況を打開したく、気になっていたことを聞いてみる。
「みなさん役職に関わらず、さん付けで呼び合う社風は風通しが良い感じがしていいですね。」
更に社長が困ったような表情になる。
言うんじゃなかったと後悔する。
ますます気まずい空気になってしまったので、他の話題がないかと頭を巡らせていると、
「そうね、みんな私のことは凛さんと呼んでいる人が多いかな。役職に関わらずさん付けで呼んでいますね。強制ではないのですが、社風としてそうなってますね。」
社長が先程の話題について返してくれる。
「強制ではないんですね。」
「強制ではないわね。みんな好きなように呼び合ってるわ。」
強制ではないと聞いてほっとする。
恐れ多いので社長の名前を呼ぶことなんてできないから、今まで通り社長と呼ぼう。
あんまり無駄話をしていると、また嫌な顔されたら俺の軟なハートがズタズタになると思い、すぐ仕事の話に切り替えようと口を開く。
「分かりました。ありがとうございます。ところで午後からの仕事ですが午前中に依頼頂きました資料は本日中に作成する予定ですが、それ以外に何かありますでしょうか。」
「この資料の誤字脱字、趣旨に矛盾がないかを確認して頂けないでしょうか。こちらの資料の方が優先度が高いので、先にやってもらえますか。」
社長はデスクに向かって歩いて行き、資料の束を掴んでまた戻って来る。
あっという間に仕事モードに切り替えられるのは流石と感心する。
「承知致しました。確認が出来次第、お持ちします。珈琲ありがとうございました。」
資料の束を受け取りながら、もう一度コーヒーのお礼を言う。
手から資料がなくなると、社長はくるりと背を向けデスクに向かって行き、すぐさまキーボードを打ち始める。
全く相手にされていないようで少し空しくなるも、ここは会社だと自分に言い聞かせイスに座る。
資料を確認する前に気合を入れようと、社長に淹れてもらったコーヒーを口にする。
口いっぱいにコーヒーの香りが広がる。
社長に淹れてもらったというだけで、なんだか高級なコーヒーを飲んでいるような気分になる。
そんなことを思いながらも、いつまでもゆったりしているわけにもいかないと渡された資料を確認しようとページをめくる。
流石という内容の資料だ。
分かり易く、ターゲット層も明確で、この資料を見せられて、入荷しない販売店は無いだろうと思うほどの出来だ。
社長は容姿も完璧だが、仕事についても完璧なようだ。
俺なんか箸にも棒にも掛からぬ存在だと改めて思い知らされる。
ようやく資料の確認が終わり、時計を見ると既に1時間は経過していた。
お昼休みが終わって直ぐ取り掛かったものの、思った以上に時間がかかってしまっていたようだ。
仕事ができない奴と思われるのも嫌で、資料を手に社長のデスクに急いで向かう。
「社長、この資料ですが、ここに誤字がありますので修正をお願いします。」
俺の声で社長が顔を上げるも、何か不機嫌そうな顔をしている。
声を掛けるタイミングを間違えてしまったのだろうと、急いで声を掛けた自分のタイミングの悪さを呪いたくなる。
「ありがとうございます。修正したデータを送るので、印刷をお願いします。」
不機嫌そうな顔のまま、社長から次の仕事の指示が飛ぶ。
「承知しました。」
長居しても良さそうなことはないと判断して早々に席に戻る。
席に戻り、ちらっと社長を見てみるもいつも通りの表情でキーボードをカタカタいわせている。
やはり、俺の声を掛けるタイミング最悪だったんだと思い知る。
いつまでも引きずって仕事をしない訳にもいかないので、午前中の資料をまとめるために画面を開く。
社長から修正原稿がいつ飛んできてもいいようにこまめにメールもチェックする。
電話も掛かってきて、あっという間に2時間が経過していた。
15時に休憩する社員が多いようで、席を外している人が多い。
社長は相変わらずパソコンと睨めっこをしている。
俺のデスクに置いてある空のコーヒーカップが目に入る。
休憩がてらマグカップを洗おうと、カップを手に席を立ちあがる。
休憩室に入ると、偶然にもまた受付の石川さんがいる。
「お疲れ様です。」
俺が声を掛けると、石川さんも俺に気付いて話しかけてくる。
「お疲れ様です。またコーヒー飲んだんですね。午後は眠気と戦わなきゃいけないですもんね。」
ケラケラ笑う石川さんを見ると、緊張していた体から力が抜ける。
「ここのコーヒーは美味しいですね。明日から自分のカップを持ってきます。」
そう言って給湯室に入りカップを洗い、食器棚に戻す。
再び休憩室に戻ると、石川さんからまた声をかけられる。
「分からないことは無いですか。困ってることがあれば声掛けて下さいね。」
「ありがとうございます。今のところ何とかやってます。何かあったら頼りにしてますので。」
そう言って、石川さんに会釈をして休憩室を後にする。
戻ろうと自分の席に向かっていると、社長がこちらをじっと見ていることに気付く。
石川さんとしゃべり過ぎて休憩が長くなってしまったことを怒っているのだろうか。
「すみません。休憩が長すぎましたか?」
とりあえず謝っておこうと頭を下げる。
「ごめんなさい、そういうわけじゃなくていいアイデアが浮かばなくてぼーっとしてたみたい。休憩は全然とってもらっていいので。」
そう言うと社長は直ぐ、パソコンに目線を戻してしまった。
とりあえず怒っていないようで安心する。
就業時間内の休憩はなるべくとらないようにしようと心に決めた。
流石に15時以降にアポイントの電話をかけてくることはなく、午前中に指示されていた資料の作成に集中できた。
途中、確認した資料の修正原稿が社長から送られてきたので、指示されたた部数を印刷してホチキス止めをする。
作業している社長の手を止めたくなくて、全ての資料が完成した時点で社長に声をかける。
印刷した資料と完成した資料を渡す。
「午前中に指示頂きました資料と、修正原稿の資料になります。よろしくお願いします。」
ちらっと顔を上げた社長は俺から資料を受け取る。
少し焼けた肌の手が健康的でセンスの良い腕時計が目に入る。
「ありがとうございました。仕事ばっかりお願いして申し訳ないんですが、このサンプル確認を明日のお昼までにお願いします。時間も時間なので明日の確認で大丈夫です。」
社長のデスクはサンプルや書類で山のようになっている。
今まで一人で業務をこなしていたかと思うと、頭が下がる思いだ。
サンプルを受け取ってデスクに戻る。
時計を見ると終業まであと少しの時間だった。
いつもの癖でメールボックスを開いてみるものの、数通のメールが入っているだけだった。
数通しかないで確認するのもあっという間に終わってしまう。
早くこのメールボックスに山のようにメールが届くようになるよう、頑張ろうという気持ちが湧いてくる。
明日で良いと言われたものの、既にやることがないのでサンプルの確認をする。
終業時間まであと僅かだったこともあり、あっという間に終業を告げるチャイムが鳴る。
キリの良いところまでやってから帰ろうと、サンプルの確認をしていると
「相場さん、初日お疲れさまです。今日はもう時間なので切り上げてもらって大丈夫です。明日以降は自分の仕事のペースで帰って下さい。残業する人はあまりいないので、みんなほどほどで帰ってますので。」
社長から声をかけられる。
終業したからだろうか、表情が柔らかい。
終わって良いと言われて、いつまでもデスクにいるのも仕事ができない奴がすることのように思えて急いで帰る準備をしようと席を立つ。
「承知しました。明日以降もよろしくお願いします。なんとなく仕事の全容はつかめたので、もっと効率よく仕事を回して社長の負担を下げられたらと思ってますので。」
俺の言葉を聞いて、少し社長が笑ったような気がした。
その顔に見惚れていると、社長の声が耳に入る。
「それではまた明日よろしくお願いします。」
見惚れていた自分が恥ずかしくなり急いで荷物をまとめる。
社長は自分のデスクに戻るのかと思いきや、ずっと俺のデスクの側に立っている。
早く帰れという催促なのだろうか、社長の視線に耐え切れず、適当に鞄に荷物を詰め込み挨拶をして社長に背を向ける。
背中に視線を感じながら、フロアを後にする。
エレベーターを待つ気になれず階段で一気に下まで降りる。
外に出ると一気に緊張が解ける。
ずっと遠くから見ていた憧れの人と一緒に働いていたと思うと、ゾクゾクする。
高揚する気分のまま、車に乗って自宅に向かう。
信号待ちで社長の事が思い出される。
思った以上にテキパキとしていたし、それに不愛想だった。
もっと可愛げのある人かと思っていたけど、あれじゃぁモテないだろうな。
彼氏はいるんだろうか。
ハイスぺすぎて、ハイスぺ男子しか似合わないだろうな。
ぼーっと考え事をしすぎてしまったようで、いつの間にか信号が変わっていた。
後ろの車のクラクションの音で現実に戻って来る。
慌てて車を発進させる。
車を発進させたと同時にスマホが着信を告げる。
カーナビと連動してあるので、画面を見ると旬からだった。
そういえば昼休み以降スマホを見ていなかったと思いながら、電話に出る。
「おい、初日から俺のLINEを無視する程、忙しいのかよ。」
電話に出た途端、これだとうんざりする。
「初日だからこそ、忙しいんだよ。何か用か?」
「用があるから連絡してるんだろ。この音はもう車だな。今からいつもの居酒屋に来いよ。初日の感想聞いてやるよ。」
「誰も頼んでないし、俺は忙しいんだよ。」
「忙しい奴がもう帰宅してんのかよ。とにかく待ってるからな。」
旬は一方的にしゃべったかと思うと、いきなり電話を切ってしまった。
何て勝手な奴だと思いながらも、このまま帰ってもやることがないし、気持ちが高揚しすぎて眠れそうにもないので、旬の誘いに乗ることにした。
行き先を自宅から居酒屋に帰るために、信号を左折して目的地に向かう。
いつもの居酒屋に着くと旬に電話する。
「着いたけど、もう店?」
「待ちくたびれて先に飲んでしまった。入って直ぐ右の部屋にいる。」
「了解。」
先に飲んでるなんて、なんて奴だ。
俺なんて車だから飲めないのに、少しぐらい配慮してくれればと思いながら旬の元に向かう。
「お疲れ。俺忙しいんだけど。」
先に飲んでいた旬への腹いせのつもりで嫌味を言いながら部屋に入る。
「俺の方が忙しかったんだぞ。お前のせいで散々な目にあった。」
旬が珍しく疲れている表情を見せている。
「何?俺は今日からお前の会社とは無縁の男のはずだけど?」
「お前が引き継いだ水谷。とんだポンコツだな。」
そんなはずは無いと思い反論する。
「おいおい、水谷はまだマシな奴だと思ったけど。迷惑かけないようにしっかり引継ぎしたけど。」
「お前のフォローがあったからマシな奴に見えたんだよ。とんでも野郎だぞ、あいつ。お前のせいで俺は疲れてるから、今日はお前の奢りな。」
「おいおい、そのために俺を呼んだのかよ。」
旬の言葉に呆れらながらも、メニューに手を伸ばす。
「このためにお前を呼んだわけないだろ。で、彼女どうだった?詳しく教えろよ。」
ニヤニヤしながらビールを飲んでる旬にイライラする。
「どうもこうもないよ。完璧な女性だったよ。経営者って感じ。」
「そんな感想聞いてない。ものにできそうか?」
「そんな言い方するなよ。そんなことばっかり言うなら俺帰るわ。」
来たばかりだったが、この話にはうんざりしているので帰ろうと立ち上がる。
「ごめんごめん。怒るなよ。まずは座って。」
旬が焦った様子で立ち上がる俺を制止してくる。
「ほんと、ものにするとか止めて。俺は自分の力を試したくて転職したんだよ。」
俺は旬を睨みつけながら、立ち上がろうとしていた腰をまた席に戻す。
「そうだった。それにしても、転職する程、彼女に興味があったってのもきっかけだろ。」
全く懲りていない旬に、苦笑いが込み上げる。
こいつに何を言って誤魔化しても無駄と悟ったので、本心をぶちまけたくなった。
「そうだな。彼女に興味があり過ぎて転職までした俺はなんだろな。もちろん彼女とどうこうなるつもりも無いし、全く相手にされないのも分かってるけど、側で仕事をしてみたくなったんだろうな。」
他人事のように話している自分に笑えてくる。
「相手にされないなんて、そんなこと今の段階では分からないだろ。」
「いやいや、立場が違い過ぎる。あんな完璧な女性に相手にされないし、彼氏もいるだろう。」
「さっきからお前、相手にされないとかばっかり言ってるけど、そんなんでいいのか?一般的にお前も高スペックな男だからな。何にもしないで諦めるなんてお前らしくない。」
旬の言葉に心臓がドクリと音を立てる。
確かに何かする前に諦めるのは俺らしくない。
自分でも薄々気付いていたが、傷つくのが怖くて何もできないことを認めたくないだけだ。
「確かに俺らしくないよな。だけど、あまりにも完璧すぎる女性だから、そう簡単には声かけられない。」
「そう焦るなって。転職してようやくスタートラインに立てたんだから、これからじっくり攻めればいいだけだろ。」
「旬が珍しく応援してくれるなんて、何か裏があるのか?」
いつも以上に親身になってくる旬に疑惑が湧いてくる。
「俺が折角親切にアドバイスしてるのに失礼な奴だな。お前の独り身時代が長すぎるから心配になってるだけだ。」
「そうだよな。前の彼女と別れて随分経つもんな。」
「今お前は彼女に一番近くにいるはずだから、じっくり攻めていけいいんだよ。お前、戦略立てるの得意だろ。」
旬の言葉に再び苦笑いが込み上げる。
確かに、仕事で戦略を立てて進めていくのは得意だ。
仕事ではほぼ計画通りに進み受注するまでこぎつけられるが、過去の恋愛を振り返ってみても分かるが、恋愛についてはからっきしダメだ。
「おいおい、からかってんのか。恋愛と仕事はぜんぜん違うだろ。」
「そうだよな。その頭脳を恋愛で使えればお前無敵なのに。その容姿がもったいない。」
「とにかく俺を煽るなよ。まずは今の会社に慣れることが第一なんだから。彼女に無能の奴だと思われたくないし。そういうわけで、この話はこれで終わり。」
「おいおい、無理やり終わらせるのかよ。」
「これ以上話すことないし。それよりさっき言ってたポンコツ水谷の話聞かせろよ。」
旬は不満そうな顔をしているが俺の表情を見て、それ以上何も聞いてこなかった。
旬が色々話をしていたが、実際は上の空でほとんど話は聞いていなかった。
身内以外に彼女のことが気になると初めて言ったせいか、彼女のことが気になっていることを改めて実感する。
明日会社で彼女に会った時、変な態度をとってしまわないか不安になる。
そんなことをぐるぐる考えている間にあっという間に時間が経ち、気付いたら旬と別れて家に向かっていた。
一向に整理ができない頭のまま家に着いたので、眠れないままベッドでゴロゴロする長い夜を過ごした。
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