第3話 隣の男
旬と呑んだ日は退職願を書くどころではなく、それどころかスーツのまま床で寝てしまっていた。
辛うじて毎日セットされている目覚ましの音で目覚めることができた。
慌ててシャワーを浴びて身なりを整える。
それからパソコンを取り出し、退職願を作成する。
印刷する時間はなかったから会社で印刷しようと保存して、冷蔵庫の中の水を掴んで家を飛び出す。
会社に向かう途中、昨日あんなに飲むんじゃなかったと後悔する。
飲み過ぎて重い頭をさますかのように持ってきた水を一気に飲む。
「課長、これよろしくお願いします。」
朝一番で印刷した退職願を課長に提出する。
「そうか。本当に残念だけど、しょうがないな。引継ぎは隣の席の水谷にしてくれ。本人には今から説明するから、戻ってきたら早速進めてくれ。一か月しかないから、それを念頭に入れてやってくれ。」
課長の言葉に安堵して、感謝の気持ちを込めてお辞儀して自分の席に戻る。
俺と入れ替わりで、隣の席の水谷が課長に呼ばれる。
しばらくすると水谷が戻って来る。
「そういうわけだから、引継ぎするな。期間が短いだけに申し訳ないけど、困らないようにしっかり引継ぎするから。」
この日から退職するその日まで想像以上の怒涛の毎日になるとは、この時は知る由もなかった。
来る日も来る日も引継ぎと日常業務に追われ、会社にいるときは彼女のことを思い出す暇すらなかった。
毎日会社と家を往復する毎日が続く。
そんな毎日のせいで有給消化することもままならず、気付いたら退職する日を迎えていた。
「先輩、本当に辞めちゃうんですか。俺一人ではとても抱えきれないです。」
終業間近になり、ようやくデスクの整理を始めた俺に水谷が声をかけてくる。
「心配するな。お前は俺よりよっぽど優秀だ。引継ぎ駆け足ですまんな。何かあったらいつでも連絡してこい。」
「そんなお別れみたいなこと言わないで下さいよ。」
水谷が泣きそうな顔でこちらを見ている。
慕われている後輩がいて俺は幸せ者だと思いながら
「お別れみたいなことじゃなくて、お別れなんだよ。休み明けの月曜日から俺はいないんだからしっかりしろよ。」
「俺が泣きついても行ってしまうんですね。ほんと寂しいです。」
「俺も水谷と同様寂しいよ。週明けから相馬が来ないのは想像できんな。」
花束を抱えた課長が近寄ってくる。
「課長、色々お世話になりました。新入社員の頃から面倒を見て頂いた恩は忘れません。お体に気を付けて、今後の飛躍をお祈りしております。」
俺は今までの感謝を込めて深くお辞儀をする。
「本当はもっと一緒に働いて、もっともっと成長していくお前の姿を楽しみにしていただけに残念だ。新天地でも頑張れよ。お前ならどこにっても通用する。俺が育てたからな。」
課長の言葉に目頭が熱くなる。
「ありがとうございます。同じ業界ですので、またどこかでお会いするかもしれないので、その時には成長した姿を見て頂けるように頑張ります。」
課長から花束を渡され、固い握手をする。
その後、同僚達に最後の挨拶をして回る。
一通り挨拶が済んだと思ったものの、旬の姿が見えない。
外出先が記載されているホワイトボードを見ると取引先に外出しているようだ。
最後に挨拶ぐらいさせろよと思いながらも、一生の別れでもないわけだしと思いながら、整理したデスクの荷物をまとめる。
会社から借りていた備品はデスクの引き出しの中にしまって社員証を机の上に置く。
いよいよ退職するんだと、今更ながら実感が湧いてくる。
最後に課長に挨拶をして、水谷に一声かけて荷物を抱える。
フロアを後にしようとエレベーターに向かう途中にもたくさんの人が激励の声を掛けてくれる。
一人ひとりと挨拶しながらエレベーターに乗ると、急に寂しさが込み上げてきた。
これでこのエレベーターに乗るのも最後かと思いながら、エレベーターを降り車に向かおうと歩き始める。
「おいおい、俺を待たずに帰るなんて、血も涙もない奴だな。」
旬が息を切らしながら階段から降りてきた。
どうやら行き違いしていたようだ。
「これでも待ったんだぞ。一生の別れでもあるまいし、今日会えなくたって何時でも会えるだろ。」
旬が急いで来てくれたことが嬉しかったが、照れ隠しで強がってしまう。
「ほんと冷たい奴だな。俺も帰るから飯行こうぜ。」
「分かった。荷物が多くて今日は車だから、乗ってけ。車で待ってるわ。」
「了解。直ぐに荷物持ってくるから、車で待ってて。」
宣言通り、旬は直ぐに荷物を持って現れた。
「今日はお前の門出を祝って俺がおごってやる。いつもの定食屋でな。」
「いつもの定食屋かよ。」
と言いながらも、旬とこんな風に会社帰りにご飯に行く機会も減っていくかと思うと、いつもの定食屋でも貴重な時間に思えてくるから不思議だ。
定食屋に着いて、いつもと変わり映えしないメニューを注文する。
「まさか、ほんとに会社を辞めるとは思わなかったな。」
「いや、俺もこの一か月の出来事が自分に起きていることとは信じられないんだよな。会社まで辞めちゃったし。」
「ほんとにお前彼女の会社に採用されたんだよな。お前の妄想じゃないんだよな。会社辞めてから、やっぱり採用されてなかったなんてことが起きたら最悪だぞ。」
「俺も同じ考えだったけど、先週内定通知書と合意書が届いた。合意書にサインして返したら、来週から彼女の会社行くことは俺の妄想の世界じゃなくて現実の世界だ。」
「それなら良かった。お前が嫌がるからあまり聞かなかったけど、本当に彼女とどうこうなろうとは思ってないわけ?」
「そうだな。彼女に興味はあるけど、どうこうなろうという気はないな。そもそも、俺と彼女じゃ釣り合わないだろうし、相手にされないよ。きっと彼氏だっているだろうし。」
「外見だけだったら、お前も十分彼女と釣り合うと思うけどな。だけど、あの美貌だから彼氏はいるだろうな。」
「そうだよな。彼氏いるだろうな。彼女だけが理由で転職した訳じゃないし、俺の実力がどこまで通用するか試したかったのもあるから、新天地で頑張るわ。」
第三者から彼女に彼氏がいるだろうと言われると、どうこうなろうと思っているわかけではないが、がっくりしてしまう。
誰がみても彼女は美人で仕事もできる訳だから、俺なんか相手にされないことぐらい分かっているつもりでいるのに、なんだか複雑な気持ちになる。
他愛もない話をしながら食事をして、旬と別れる。
「お前が会社辞めたからって、友達は止める気ないから。また飯食いに行こうな。連絡するわ。」
旬と友達になれたことも含めて、辞めた会社に入社して良かったと改めて感じる。
「おう、落ち着いたら連絡する。また飯食いに行こう。家まで送っていく?」
「ちょっと本屋に寄って買いたい本があるから、ここでいいわ。またな。」
そう言った旬の後ろ姿を見送りながら、車に乗って家に帰る。
家に帰って会社から持って帰ってきた荷物を運ぶと、会社を辞めた実感が湧く。
この一か月会社と家の往復しかしていなかったから、どっと疲れを感じる。
持って帰ってきた荷物の整理は週末にすればいいと思い、急いでシャワーを浴びてベッドに潜り込む。
ベッドに入った瞬間、意識が遠のいていった。
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