第2話 応募
最後に彼女を見かけてから、早くも2ヵ月が過ぎていた。
諦めきれず海には行くものの、やっぱり彼女と会うことはない。
他に出来ることと言えば、彼女のブランドのホームページを見ることぐらいだ。
今日も昼休みはコンビニで買ってきたお昼ご飯を食べる。
急いで食べるとパソコンの検索欄に彼女のブランド名を入れて検索をかける。
見飽きた画面をスクロールさせていく。
「洋平、またそれ見てんのかよ。展示会で聞いてきたお店のホームページだろ。いつ見ても、そのページ見てるな。よく飽きないな。」
煩い奴に声をかけられる。
「ほっとけ。俺の唯一の趣味を邪魔するな。」
パソコンから目線を外さずに、旬に声をかける。
「お前、ストーカーみたいだから辞めろよ。それよりいい女紹介してやるよ。合コン行こうぜ。」
「興味のない女と飲み食いして何が楽しいんだよ。」
「洋平、お前には神からプレゼントされたその容姿を、存分に使わないともったいないぞ。明日夜いいよな?」
「無理無理。明日予定ある。」
旬の言葉を聞き流しながら画面を見る。
お知らせに今日の日付で更新されている。
内容を見て、心臓がどくどくし始める。
旬が後ろで何か言っているが、まったく耳に入ってこない。
お知らせのバナーをクリックする。
『業務拡大により秘書募集。募集要件問わず。下の応募フォームよ履歴書の送付をお願いします。』
「旬、ちょっとこれ見ろよ。」
興奮気味に旬に声をかける。
「おい、洋平。俺のはなし聞いてんのか。」
「旬、俺これに応募してみるわ。」
「ん?なになに?秘書?ちょっとお前何考えてんの。待遇とか見たのか?女のために早まるな。」
旬が慌てた様子で俺を諭してくる。
「待遇なんてどうでもいい。俺はチャンスを生かせない男だったから、この機会を逃したら一生後悔する。1名しか採用しないし、ダメ元で応募してみる。」
「洋平、正気か?採用されたら、この会社辞めなきゃいけないの分かってる?」
小学生でも分かることを聞いてくる旬に呆れる。
採用されたわけでもないのに、俺の気持ちは高揚している。
「旬、俺が採用されたら盛大に祝ってくれ。」
「おいおい、マジかよ。こいつ正気じゃないわ。いいか、今は正常な判断ができていないから、今すぐ応募するのは止めろよ。」
旬の言葉を無視して応募フォームに入力をし始める。
後ろから手が伸びてきて、Deleteボタンが押される。
「旬、邪魔するなよ。」
「お前本気で応募しようとしてるのか。目を覚ませよ。入社しなくたって女に声ぐらいかけられるだろ。」
「ほっとけよ。俺の人生なんだから俺の好きにさせてくれ。」
再び入力フォームに入力をするも、すぐ消される。
「唯一の同期の人生を棒に振る訳にはいかない。こんな待遇いい会社ないぞ。この会社に留まるのが、お前の人生だ。」
「いい加減にしろよ。今度邪魔したら、本気で怒るからな。」
俺の言葉を無視するかのように、旬はDeleteボタンを押し続ける。
本気でイライラしてきて俺は、後ろを振り返り旬を睨む。
「本気で怒るって言ったよな。」
「本気で怒られたとしても、お前の目を覚まさせる。」
喧嘩になりかけたところで、昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴る。
「洋平、変な気を起こすなよ。」
俺に指を指しながら、自分の席に戻っていく旬を睨みつける。
「指さすな。ほっとけ。」
折角のチャンスを旬に邪魔されてイライラする。
就業中に転職活動をするのは流石に気が引けたので、作業を中断する。
仕事中も気がそぞろで中々集中できない。
終業時刻が迫ってくる。
仕事が終われば、どうせすぐ旬からめんどくさいこと言われるのは目に見えていた。
今月は残業をかなりしているので定時で帰ろう。
旬に捕まる前に会社を出たかったので、課長に先に声をかけておく。
「今月残業やばいので、今日は定時で失礼します。」
「いちいち、そんな報告しなくてもいいのに。お前は相変わらず律儀だな。今月も頑張ってるし、定時と言わず今すぐ帰ってもいいぞ。」
課長にお礼を言って席に戻る。
流石に定時前に会社を出るのはまずい。
だけど、チャイムが鳴った瞬間に会社から出れるようコソコソと身支度を始める。
終業を告げるチャイムが鳴るのと同時に席を立って会社を出る。
ちらっと旬を見ると、まだパソコンと睨めっこをしている。
まずは第一関門突破だ。
車に乗って急いで家に向かう。
途中、コンビニによって缶ビールを買う。
家に着くと、まずパソコンの電源を入れる。
お気に入りに入れてある彼女のブランドのホームページを開く。
お知らせのバナーに秘書募集の言葉があるのを見つけるとほっと一安心する。
まさか半日で募集停止ということはないとは思っていたが、まだ募集していることを確認できると体の力が抜ける。
買ってきた缶ビールとチキンを温めてから、パソコンに戻る。
応募フォームを開いて入力を始める。
入力をしている時に携帯が煩くなっていて、ちらっと見ると旬からの電話だったのでほっておく。
自己アピールと志望動機で使える人間だという事をアピールしなくてはいけない。
何度も入力しては消してを繰り返し、ようやく納得いく文章が出来る。
入力し始めてから1時間半も経っていた。
最後にもう一度見直してから、震える手で応募するのボタンを押す。
『受付完了しまた。面接に進む方には後日お電話で連絡します。』
というメッセージ画面が出て本当に応募したんだと、気分が高揚する。
旬から何度も電話がかかってきていたことを思い出し、スマホを手にとり掛け直す。
1コール目で旬が電話に出る。
「洋平、お前応募してないよな。」
一言目の言葉に笑いが込み上げる。
「もう遅い。今応募した。」
「お前どうしたんだよ。そんな男じゃないよな。俺を置いて会社辞めるなんて認めないぞ。」
「おいおい、採用されたわけでもないのに何言ってるんだよ。女性社長につく秘書だから女性が採用されるだろ。」
自分で言っておきながら、気分が落ち込む。
「今の待遇を捨てて、他の会社に行くなんて捨て身もいいところだぞ。連絡きても面接に行くなよ。」
「どうせ連絡なんて来ないよ。そういえば、待遇確認してなかったな。」
応募するのに必死で待遇とかを確認していないことを、今更ながら気付く。
「待遇を確認するのが一番先だろ。ほんとどうかしてるわ。俺の方が頭がおかしくなりそうだわ。」
「心配してくれてサンキュー。どうせダメだから慰めの会してくれよな。」
あんまりにも俺のことを心配してくれる旬に申し訳なくなってくる。
その後は他愛も無い話をして、適当なところで電話をきった。
直ぐに面接の返事がくるわけもないのに、メールの更新ボタンを押す。
新着メール1件と表示され、どくんと心臓が揺れる。
慌てて受信ボックスを開く。
迷惑メールだと分かると、がっかりしている自分がいる。
この日から、メールボックスとの格闘が始まった。
彼女の会社に応募して、早くも4日が経っていた。
気付くとメールの更新ボタンを押してしまっている自分は最早病気だろう。
「洋平、そんなに更新ボタン押してもメールが届くわけないだろ。そんなに彼女が気になるなら、諦めて他の方法探したら。俺が伝手を探そうか。」
昼休み、パンを片手にメールボックスを開いている俺を心配して旬が声をかけてくれる。
「もう4日も経つからダメだったんだよな。やっぱり縁がないのかな。」
「もうしゃべったこともない女のことなんて忘れろよ。俺がとびきりの美女との合コンセッティングしてやるから。」
「そう簡単に忘れられたら、こんな目にあってないの分かるだろ。どうしても彼女が気になるんだよな。」
そう言いながら、メールの更新ボタンを押す。
『新着メール1件』
どうせ迷惑メールだろと思いながら、受信ボックスを開く。
何度も見て刷り込まれている彼女のブランド名が入ったメールアドレスが目に入る。
「おい、旬。これ見ろよ。」
「ん?面接のご連絡?しかも、このアドレスって。ほんとに連絡きたのかよ。開けて内容確認してみろ。」
興奮気味な旬を目の前にして、俺は震える指でメールをクリックして開封する。
『弊社へのご連絡ありがとうございます。明日の10時に弊社にて面接をお願いしたいのですが、ご都合如何でしょうか』
まさかの面接連絡だった。
ここが会社だということも忘れて、旬に抱き付き背を叩いて喜ぶ。
「おい、洋平。ここは会社だぞ。ちょっと放せよ。よからぬ誤解を受けるだろ。」
旬の慌てた声と引きはがされる体に、はっと我に返る。
周りを見ると、フロアに残っていた人が何事かと興味深々でこちらを見ている。
確かに旬の言う通り、このまま抱き合っていたら後で何を言われるか分からない。
慌てて旬を突き放す。
「おい、放せといったけどいきなり押すなよ、びっくりするだろ。」
「すまん。喜びの余り、我を見失ってた。」
「面接のメールきたな。最初は転職なんて絶対反対だったけど、お前の彼女に対する情熱は本物だな。面接頑張れよ。応援するわ。」
我を見失っているせいか、旬の言葉に胸が熱くなる。
急いでメールに返信をする。
気が焦っているせいか、何度もタイピングミスをする。
「洋平相当動揺してるな。タイピングミスが凄いな。」
笑いながら旬が後ろから声を掛けて来る。
何度もDeleteキーを押しながら、やっとのことで送信ボタンを押す。
「動揺しているようだから、念の為アドバイス。明日10時から面接なら、半休届か有給届出さないとな。」
「すっかり抜けてたわ。あやうく無断欠勤するところだった。サンキュー。」
「幸運を祈ってるわ。」
と言うと旬は俺の方をぽんと叩くと自分の席に戻っていく。
俺は忘れないうちにと会社のシステムから半休届に記入して課長にメールで送る。
午後は仕事どころじゃなかった。
今度こそチャンスをものにするために、面接のシミュレーションで頭がいっぱいだ。
こんなに面接のシミュレーションをしたのは就活の時以来だ。
どうアピールすれば彼女に必要な人材と思ってもらえるか、家に帰ってから企業分析をきちんとしようと心に決める。
気もそぞろに仕事をしていると、課長が声を掛けて来る。
「相場、明日は半休だな。さっき決済して回しといたから。お前が半休なんて珍しいな。」
有休を使うのは久々だ。
最後にいつ使ったのか思い出せないほど、有給を消化していなかった。
流石に転職活動ですとは言えず言葉を濁す。
「ちょっと外せない用があって。明日期日のものは全て今日片付けていくのでご心配なさらずに。」
「休むとしても、やることはやってくれるから安心だ。頼んだぞ。」
結局何が言いたかったのか分からなかったが、俺の方をぽんと叩いて課長は行ってしまった。
明日期日のものは今日片付けると言ってしまったから、とりかかろうとリストをチェックすると、想像以上に多くぐったりする。
今日期日のものから順番に手を付け始める。
途中電話やメールも入ってくるので、中々順調に進まない。
半日休むだけなのにこんなに大変な思いをしないといけなかったっけと思うほど、仕事が片付かない。
定時を過ぎてパラパラ人が帰り始めても、まだ書類が残っている。
「洋平、俺先に帰るわ。なんか手伝う?」
「大丈夫。サンキューな。だけど、半日休むのにこんなに大変な思いをしないといけなかったっけ?」
「俺らもそれだけ仕事を任せて貰えるようになったってことだよ。明日頑張れよ。結果はまた明日会社で。さて、俺は可愛い子がいるお店にご飯でも食べに行こうかな。」
最近気になる子がいると言っていた定食屋に寄って行くのだろう。
「お疲れ。気をつけてな。」
旬の後ろ姿を見送りながら、残りの書類を片付けていく。
終わりが見えないと思っていたがそんな訳はなく、ようやく全ての仕事が片付いた。
ずっとパソコンと睨めっこしていたので体がカチコチだ。
ぐーっと伸びをしながら時計を見ると21時を過ぎていた。
フロアにもほとんど人が残っていない。
片付けの準備をして外出ボードに半休と書いて、会社を後にする。
さっきまで仕事を片付けることで頭がいっぱいだったが会社を出ると、今度は明日のことで頭がいっぱいになる。
家に帰って明日の対策をしようと思い、急いで家に向かう。
途中コンビニでレモンサワーと軽く食事を買って帰る。
家に着くとまず先にシャワーを浴びて心も体もスッキリさせる。
着替えるついでに明日着ていくスーツを選ぶ。
姿見で黒のスーツ、ネイビーのスーツ、グレーのスーツを着比べてみる。
ネイビーのスーツが一番似合っている気がしたので、ネイビーのスーツを着ていくことにした。
会わせてネクタイとワイシャツも選ぶ。
こんなに真剣に来ていくスーツを選んだのは産まれて初めてだ。
あとは明日の面接に向けての準備だ。
コンビニで買ってきたレモンサワーと軽食を冷蔵庫から取り出し、パソコンを立ち上げる。
履歴に残っている彼女の会社のホームページを開く。
見飽きているはずなのに、面接の準備と思って見ると新鮮な感じがするから不思議だ。
代表挨拶のページに彼女の想いが綴られている。
モノ作りが好きなことが伝わってくる。
ネットショップ上で販売している水着の口コミも見てみる。
どれも高評価で若い女性に人気があるようだ。
色々なデザインのものがあり、彼女の創作意欲は凄いと改めて感じる。
面接対策で色々調べていたはずなのに、結局彼女のことばかりになってしまう。
キリがないので明日は素の俺で勝負しよう。
今の会社でやってきたことは無駄ではなかったと信じて精一杯アピールしようと心に決める。
何としても明日のチャンスをものにすると心に誓うと、明日寝坊してもいけないと思い目覚まし時計をセットして、早めにベットに潜り込んだ。
けたたましい目覚まし時計の音で目が覚める。
目覚めの良い朝だ。
少しでも血色のいい顔色にするために、柄にもなくやったこともないストレッチをしてみる。
体に溜まった老廃物が一気に流されているような感じがして気持ちがいい。
顔を洗い歯を磨き、念入りに髪をセットする。
昨日選んだスーツに袖を通す。
時計を見ると、面接の時間にはまだまだ余裕がある。
家にいてもソワソワするだけだと、彼女の会社の近くまで行っておこうと、かなり時間は早かったが家を後にする。
会社の近くについてもまだ時間があったので、近くにあったコーヒーショップに入る。
ブラックコーヒーとサンドイッチを頼み、窓際の席に座る。
続々と社員が出勤してくる。
彼女も出勤してくるかと見ているものの、姿は見えない。
まさか今日の面接は彼女じゃなくて違う人がするのだろうか。
実際に本人を目の前にしたら、舞い上がってしまって上手くいかないかもしれないから、それはそれでいいのかもしれない。
色々考えているうちに時間がどんどん過ぎて、気付いたら面接の時間に近付いていた。
もう一度身なりを整えて、深呼吸を一つしてから店を出て、彼女の会社に向かう。
会社に入ると心臓がどくんどくんと音を立て始める。
柄にもなく緊張しているようだ。
受付で声をかける。
「本日面接を受けさせて頂く相馬と申します。」
「相馬様ですね。少々お待ち下さい。」
来客予定が記載されているのか受付の子がタブレットを見る。
「相馬様、あちらにお掛けになって少々お待ち下さい。」
俺の名前がなかったようで、受付近くの椅子に座るよう言われる。
まさか今日じゃなかったのか、それともあの面接メールは俺の妄想だったのかと、色々心配になってきた。
心配でそわそわしていると受付の子が戻ってきた。
「相馬様、お待たせして申し訳ありませんでした。応接にご案内します。」
約束があったようで、ほっと一安心する。
通された応接室にはまだ誰もいない。
アパレル会社らしく洗練されたお洒落な応接室だ。
今期の新作水着も飾ってある。
遠目に見ているとドアがノックされる。
慌てて席を立ちあがる。
入ってきたのは彼女ではなく、他の女性だった。
「相馬さん、本日はご足労頂きありがとうございました。市川と申します。本日はよろしくお願いします。」
彼女が面接担当ではないと分かるとほっとしたような残念な気持ちのような複雑な気分になる。
「本日は貴重なお時間ありがとうございます。改めて相馬と申します。よろしくお願いします。」
「簡単に履歴書を見させて頂きましたが、同じような業界で働いてらっしゃるんですね。」
「そうですね。新卒で入社して今の会社にずっと育ててもらいました。」
「ずっと同じ会社で働いているんですね。経歴を見ても立派な方で、どうしてまた今回弊社に応募して下さったのでしょうか。」
「色々挑戦してみたくなった時に御社の募集要項が目に入り。お力になれればと思って応募させてもらいました。」
昨日頭の中でシミュレーションしていた回答を口にする。
時々笑いも交えながら和やかな雰囲気で面接は進んでいく。
今のところ良い印象が与えれられているのではないかと思っている。
突如ドアをノックする音が応接室に響き渡る。
何事だと思いドアの方を見ると、恋焦がれていた彼女が立っている。
席から立って挨拶すべきなのに、それすら忘れて彼女を見つめる。
彼女は入り口に立ちすくんでいる。
「社長、座りもせず、そんなところで突っ立ってないで座ったらどうですか。」
市川さんの声で俺ははっと我に返る。
慌てて席を立ち、お辞儀をする。
挨拶をしようと口を開こうとすると、先に彼女が話始める。
「失礼しました。相場さんですね。本日は急なお願いにも関わらずご来社頂いてありがとうございます。社長の高梨で本日はよろしくお願い致します。」
俺も慌てて挨拶をする。
「こちらこそ、ご連絡頂き光栄です。相場洋平と申します。本日はよろしくお願い致します。」
彼女の声は思っていたよりハスキーだった。
それも心地よい声だ。
「こちら専務の市川です。本日同席させて頂きますので、よろしくお願いします。」
さっき本人から聞いたけど、初めて聞いたようなふりをしてしまう。
彼女本人を目の前にして、しゃべっているのが信じられない。
心臓が再びどくんどくんと音を立て始める。
挨拶が済むと中断されていた面接が再開される。
彼女からは今の会社で何をやっているか等を質問された。
俺が即戦力で使えるか吟味しているようだ。
嘘をついてもしょうがないので、秘書の経験はないと正直に言った。
俺が得意としているマーケティングの経験についてアピールしたが、秘書の仕事ではないので、どう思われたかは分からない。
だいぶ時間が経ったところで待遇面についても説明がされる。
ホームページでは曖昧な表現だったので、気にはなっていた。
「前職でどれぐらい貰っていたかは分からないですが、基本給と職務給をこれぐらいで考えています。休日等はここに記載があります。残業は繁忙期になるとかなりありますので、その点はご承知下さい。」
彼女が一枚のレジュメをデスクに置く。
待遇面が記載されている紙だった。
給与面では今の会社より少し高い月給が記載されているのに驚きが隠せない。
不満に思う点は一切ない。
「待遇面は問題ないでしょうか。」
俺が何も言わないので確認をされる。
「十分すぎるぐらいの待遇です。」
正直な気持ちを答える。
俺の回答を聞いて、しばし沈黙の時間が流れる。
何か言った方がいいかと頭をフル回転させていると、唐突に彼女が
「市川さん、少しいいですか。相場さん、申し訳ないのですが、少し席を外させてもらいます。珈琲を持ってこさせますが、アイスとホットどちらが良いですか。」
何かマズイことでも言ってしまったかとドキドキする。
「お構いなくと言いたいところですが折角のお気遣いなので、ホットコーヒーでお願いします。」
平静を装いながら答えると、彼女と市川さんは部屋から出て行ってしまった。
ドアが閉まると緊張の糸が切れて、体の力がドット抜けるのを感じる。
大きく息を吸い込もうと座り直したところで、ドアがノックされる。
再び体に緊張が走る。
慌てて立ち上がると、今朝受付にいた人がコーヒーを持って入ってくる。
彼女じゃないと分かると、再び緊張が解ける。
お礼を言って、受付の人からホットコーヒーを受け取る。
手持無沙汰だったし折角淹れて貰ったコーヒーなので、ありがたく飲んでいると、もう一度ドアがノックされる。
ちょうど飲み終えそうなところだったがカップを置いて、慌てて席を立つ。
今度は市川さんだけが部屋に戻ってきた。
「離席して失礼しました。市川は別の業務があるので、退席させて頂きます。あっ、珈琲ゆっくり飲んで下さい。」
そう言われてもゆっくり飲むわけにもいかないし、中途半端に残すのも失礼かと思い、慌ててカップを手に取り飲み干す。
俺がカップを置いたのを見ると、市川さんが口を開く。
「本日はありがとうございました。採用ということでお願いしたいのですが、よろしいでしょうか。」
えっ?!?!
空耳かと思うような言葉が耳に入る。
まさか、この場で採用されるとは思っておらず、心底驚く。
そしてこの現実が信じられなくも、嬉しくて思わず笑顔がこぼれてしまう。
何か言わないとと思い、嬉しさを噛み締めながら口を開く。
「ありがとうございます。まさかこの場で採用頂くとは思っていなくて。これからよろしくお願いします。」
「うちにはもったいないぐらいだと思ってますし、期待してます。新作のマーケティングでも力を貸して頂ければと思ってます。出勤ですが、いつから勤務できますか。」
秘書業務には関係ないが、マーケティング経験があると言って良かったと思った。
いつから勤務できるかと言われると、明日からでもと言いたいところだけど、引継ぎとかもあるから、来月ぐらいが現実的かと思い口にする。
「来月からお願い出来ればと思います。期待を裏切らないように頑張る所存です。」
「それでは来月から勤務をお願いします。このあと総務の子が来て、色々手続きをこのまましたいのですが、お時間大丈夫でしょうか。」
とんとん拍子に進んでいくので、本当に現実か疑いたくなる。
「時間はたっぷりあるので問題ありません。」
「ありがとうございます。このまま手続きをさせて頂きます。勤務条件等に付いても説明させて頂きますので、総務の子が来るまで少しお待ちください。」
と言うと、市川さんは電話をかけて部屋から出て行く。
再び部屋に一人になると、この現実に嬉しさが込み上げてくる。
チャンスを掴んだんだ。
さっきまで抑えていた嬉しさが爆発して、ガッツポーズをする。
すると、ドアがノックされる音がしたので、慌ててガッツポーズを辞めて席を立つ。
今日はドアのノック音に翻弄されっぱなしだ。
今度はさっきの説明通り、総務の人らしき女性が入ってくる。
この会社で働く女性は美人な人ばかりだと感心する。
総務の人から勤務条件や待遇面等細かい説明を受けて、何枚か書類にサインする。
最後に社員証の写真を撮ると言われたので、スマホに向かって顔を作る。
「ありがとうございました。これで全ての手続きが完了です。もう少しだけ、こちらの部屋でお待ち下さい。」
ここでようやく手続きが完了したようだ。
総務の人が内線で電話を掛けると部屋から出て行く。
脱力する暇もなくドアがノックされ、彼女と市川さんが再び部屋に入ってくる。
「長時間に渡りありがとうございました。何か不明な点はありますか。」
心地よい彼女の声が耳に入る。
「丁寧に説明頂き、ありがとうございました。」
「待遇面も問題なかったですか。」
「十分なぐらいで光栄です。働くのを楽しみにしております。」
まだ現実か信じられない気持ちで感謝を述べる。
「それでは来月お会いできるのを楽しみにしてます。本日はありがとうございました。」
「ありがとうございました。期待を裏切らないように働くつもりですので、今後ともよろしくお願いします。」
俺は席から立ちあがり一礼をする。
彼女と市川さんも立ち上がりお辞儀をすると、全てが終わったようで彼女が部屋のドアを開ける。
俺はそのドアから出るとエレベーターに向かう。
彼女達も着いてきて、俺がエレベーターにのるまで見送ってくれた。
エレベーターのドアが閉まり一人になると、今起きた現実に胸がどきどきする。
来月から彼女の秘書として働くなんて信じられない。
エレベーターが一階に着くと、無意識にエレベーターから降り地下鉄に向かう。
この午前中で人生が180度変わってしまった気分になる。
信じられない気持ちと高揚する気持ちで頭がいっぱいだ。
気付くと会社に着いていた。
無意識でもきちんと会社に来れる、刷り込まれたものに自分でも感心する。
目の前にある会社を見て、新入社員の時から色々あったことが走馬灯のように思い出される。
もう来月にはこの会社を辞めると思うと、急に感傷に浸ってしまう。
時計を見ると、昼休みが終わる時間が迫っている。
慌てて会社に入り自分のデスクを目指す。
席に座りパソコンを立ち上げたところで、午後の始業を告げるチャイムが鳴る。
チャイムが鳴り終えるのを聞いて、課長の席に向かう。
「課長、午前中はありがとうございました。折り入ってお話があるので、お手すきの際に時間を少し頂けないでしょうか。」
「おいおい、改まって怖いな。今からミーテイングがあるから、15時からでもいいか?」
「15時からでお願いします。手短に終わらせますので。」
そう言って席に戻り、メールをチェックする。
メールをチェックしながらも、気分は高揚したままだ。
ふいに後ろから背中をつつかれる。
誰かは分かっていたが、後ろを振り向く。
思っていた通りの人物が小声で聞いてくる。
「おい、どんな感じだった?いつ合否でるって?」
旬もまさか面接当日に合否を言われるとは思ってもいないようだ。
「今日夜空いてるか?」
俺は旬の質問に答えず質問する。
「空いてるよ。それよりどうだったんだよ。手ごたえあったか?」
「今日の夜話すわ。仕事戻れよ。」
旬も周りの視線が気になるのか、これ以上聞かずに席に戻っていく。
午前中に空けた穴を埋めるために無心で書類を裁いていく。
「相馬、遅くなってすまん。話って何だ?」
あまりに集中していたので課長と約束していた15時を過ぎているに気付かなかった。
「お忙しいのにすみません。ちょっとここじゃ話辛いことで、場所を変えてもいいですか?」
「おいおい、益々怖いな。俺が想像している話じゃないといいんだけど。」
恐らく課長が想像している話を今からしようとしているので、課長の問いかけには答えず、空いている会議室へ向かう。
「課長、私事にはなりますが、来月で退社したいと思ってます。退職願いは明日、お渡しさせて頂きます。」
「おいおい、嫌な想像が現実になったのかよ。何でだ?待遇面で不満があるのか?」
課長は頭を抱えている。
「待遇面も恵まれてますし同僚も良い人達ばっかりなんですが、他に挑戦してみたいと思って。新卒から大事に育ててもらった恩もあり申し訳ないですが。」
課長の様子を見て、最後の方は声が小さくなってしまう。
「挑戦ならうちの会社内でもできるだろ。部署異動の希望だせばいいじゃないか。何も辞めなくても。今やお前もうちの会社の戦力だから、そう簡単には手放せないぞ。」
課長の言葉に胸が熱くなるも、退社については譲る気はなかった。
「そう言って頂いて嬉しい限りですし、会社に迷惑をかけることも分かってます。申し訳ない気でいっぱいなんですが、どうしてもやってみたくて。」
「お前の話を聞いていると、どんな言葉で引き留めても無駄なようだな。本当に惜しい人材だから、最後にもう一度だけ考えてくれ。それでもって言うなら、退職願いを受理する。」
何度も引き留めてくれる課長に益々胸が熱くなる。
「ここまで育ててもらったのにすみません。この恩は絶対に忘れません。」
「おいおい、今もう一度考えてくれって言ったけど考える気ないな。」
課長は苦笑いしながら、俺の方をぽんと叩いて部屋から出て行った。
課長の後ろ姿を見送りながら、これでもう後戻りはできないと気持ちが引き締まるのを感じる。
面接に合格したことと、課長に報告したことで気分が軽くなり、仕事もさくさく進んでいく。
定時のチャイムが鳴って少し経つと、旬が声をかけてくる。
「洋平、気になって仕事が手につかない。今日は切り上げて行くぞ。」
旬に連れられて近くの居酒屋に入る。
「俺が適当に頼むからな。生でいいよな。」
旬は席につくなりメニューを掴み、呼び出しボタンを押す。
直ぐに定員さんがくるので、メニューを開きながら旬が適当に注文を済ます。
「で、どうだったの?手ごたえあったの?」
忙しい男だ。
注文が終わり定員がいなくなるとすぐに聞いてくる。
「手応えも何も、合格した。今月いっぱいで会社辞める。今日課長にもそう言った。」
「えっ・・・・えぇーーーーー??」
旬は自体が呑み込めないかったのか一瞬固まってから、大声を出す。
「うるせぇよ。他の客に迷惑だろ。」
「ちょっと待って急展開過ぎてついていけないんだけど。」
「いや、俺も急展開すぎて驚いてる。」
「つまり面接に行った今日その日に合格して、退職する決意をしたってこと?たった一日で?」
「そう、結果的にはたった一日でこうなったな。」
「おいおい、マジかよ。急展開過ぎて驚くわ。本当に辞めるの?」
「明日辞表出す予定。」
「マジだな。彼女には会えたのか?」
旬に聞かれて面接の時の彼女が思い出される。
「会ったし話した。ずっと気になってた人としゃべるとか不思議すぎたわ。来月から一緒に働くかと思うと、心臓がもつか心配だわ。」
「乙女みたいなこと言ってんな。俺はお前を応援するって決めたから、何も言わない。だけど、会社辞めても、時々こうやって飲もうな。会社辞めたから切れる縁じゃないよな。」
「そうだな。せっかくの縁だしな。仕事中にお前に邪魔されなくなると変な感じだわ。」
「俺が仕事中にちょっかい出さなくなるからって寂しがるなよ。ところで実際の彼女はどんなだった?」
面接の時にほのかに感じた柔らかい香りを思い出す。
「社長だけあってさばさばした性格な感じだったな。近くで見ると益々美人だったわ。」
「秘書ってことは彼女に付きっ切りなんだろ。上手くものにできるんじゃない。」
下品に笑う旬に腹が立つ。
「彼女は公私分けるタイプだと思うし、俺もそういうつもりで転職したんじゃない。彼女に手を出すつもりもないから。いい加減なこと言うなよ。」
俺が怒なりながら反論したことに、旬は若干焦りを感じたのだろう。
「ごめん、そんなつもりで言ったわけじゃないから。」
ちょうどその時、定員さんが生ビールを持ってきてくれた。
「気を取り直して、洋平の転職に乾杯。」
先程の事を誤魔化すかのように旬が生ビールに手を伸ばし乾杯してくる。
「誤魔化すなよ。」
といいつつも俺も生ビールに手を伸ばし、グラスをぶつける。
乾いたのどにビールが染み込み美味しい。
乾杯してからはいつも通り楽しい時間が過ぎていく。
心の中にひっかかっていた問題が全て解決されているので、いつもよりビールも食事も美味しく感じる。
ベロベロに酔っぱらって家に着いた頃には記憶がぶっ飛んでいた。
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