第9話 勉強とスポーツをしろ!


 ロケ車に乗って温水プール施設まで移動する間、ずっと、のべつ幕無しにまくしたてるお喋りを聞いていました。わたしは道中なぜか「先生」と呼ばれ、いっぽうプライドを賭した先の対決でいわばすってんてんのざまを見たキリエさんは、ほかの3人からおバカちゃん扱いされておいしくイジられました。

 けれど花咲くおしゃべりにうつりゆく時はなるはやです。きっと帰りの車では、プールで競争した結果が今度はわいわい囃されて、さらつの賑わいが絶えないに違いないのです。それでもうわたしの「先生」呼びも、キリエさんがパープリンだったことも忘れ去られてしまって、じき日も暮れて、今度は明日あすに予定されているライブやらイベントのことが気になりだしてか話題にのぼるのです。その帰りのワゴンの中で、わたしはずっと熟睡しているはずでした。

 とまあ、そういう段取りを立てました。帰りに辿り着くためには当然ひと泳ぎしなければいけませんが。


                    米


「わー、キリエ胸おっきすぎー」


「もう、見ないでよナナ……」


控えの更衣室ではキリエさんは、胸の大きさで注目をあつめました。これに関しては悲喜こもごもに渦巻きますが、他メンバーのまだ誰も成長期が終わっていないということが救いです。たとえうっすら完成形がわかっても、まだ負けていないと言い張れるのです。

 アイドルであるみなさんのバストにかける情念は、さぞ一般女子を凌ぐものと察されます。胸の大きさなんて特にも気にしないわたしは想像上のイデア、ギリシアからの伝統であるミロのヴィーナスにプロポーションを近づける必要なんて全くありません。過度に太らないように注意だけすればよく。

 正真正銘です。もしわたしが将来巨乳になるはずの運命を背負っているとして、もしもしこの才をナナさんに分け与えられるなら、ひとつも見返りなしにやってあげたいくらいでした。


「キリエに負けるのはいいの! マヤちゃん、こっちむいて!」


ナナさんは本当にいつも元気で、ホットスポットで、近づくと笑顔を貰えますが、胸部はナインペタンです。しかもなお悪いこと、本人はそれをいくぶん気にしているのです、コンプレックスとして。


「わーん胸とれろーー!!」


「こらアホナナ、なんてこというの! 中学生の子に!」


アイコさんが叱咤します。眼間めのまえをひらひらする、既に着用された水着の豪奢さに目を惹かれました。

 で、と。プールと聞いていちおうおうちから水着を持ってきました。でもじつは麗々しい衣装が先方から用意されているのではないかとひそかに期待してもいたのです。ちょっとばかり。でもありませんでした。ノーギャラですし着衣も持参です。わたしはこんなラグジーでカラフルな水着に囲まれながら、うちにあった唯一の水泳衣、つまり中学指定のスクール水着に着替えなければなりません。でも一秒考えて、どうせ映像に顔は出ないのでいいやとなりました。

 どうせわたしは黒子です。この黒子の水着で、せめてナナさんをば引き立てましょう。


                    米


 着替え終わりました。収録現場となる50mプールのプールサイドに集合。わたしはアルティメット気怠げに準備体操に参加します。ほぼ機械的に動かす体もぎこちなく、そういえばわたしは完徹でした。

 ちなみに誰もここから本気の水泳大会がはじまるなんて期待していません。


「アイドルが水着になったんだから、撮影しなきゃ嘘だよね」


アカリさんがまさにわたしの言いたいことを代弁してくれました。ここで激しい有酸素運動なんて、まさに需要の履き違え、ありがたきアイドルの水着を拝撮してさっさと帰ればよいのです。楽しきわが家ホーム、スウィート・ホームに。


「まず100mを1本泳ぐからみてて!」


ナナさんが宣言デクレアしました。まったく色気のない、つまり無駄のない美しいフォームでアップをこなしていきます。このあと行われるレースで本気で1位をとること目指しているのです。対抗馬はアイコさんでしょうか。スマイリーMはみんな仲間ではありますが、みんながライバルでもあります。だから負けると本気で悔しいというのは午前の部(=中学の勉強対決)を顧みても納得できるところです。


「あのまま泳がせとけば、バッテリー切れになるね」


アイコさんが水面みなもを眺め渡して、ナナさんを評しました。『泳がせとけば』が複数のニュアンスにかかっているところが頭脳派の戦略家ぽい面を引き立たせますが、実際にはナナさんがアレすぎるだけで、あの調子で泳ぎ続けて本番でバテるなんてさすがにです。さすがに。


「ま、あたしもウォーミングアップはしよう」


そうして入水にゅうすいしていくアイコさん。


「マヤちゃん。泳げますか?」


キリエさんに心配されました。この段階になって、初めて。でもこの優しさに触れて涙が出そうです。


「いちおう泳げますよ。ただし100mが……一回だけ。それ以上はわたくしの体力がもたないでしょう」


深刻すぎる顔つきでそう申告しました。


「もっと体力つけたほうがいいよ……」


するとアカリさんからマジレスをくらいました。しかし、わたしもこれには深く同意します。ひきこもり唯一の弱点は体力にデバフがかかることですね。


                    米


扇ディレクターから声がかかりました。


「うーんそれにしてもそのスクール水着」


「はい」


「うん、まあいいや。ふだん訓練を受けてるスマイリーMちゃんたちとはとても勝負にならないと思うから、マヤちゃんは50mで終わりでいいよ。そこからはアイドル同士の対決! って感じにまとめるから」


主役のはずなのに脇へ追いやられました。僥倖ラッキーです。


「わかりました」


「あー、マヤちゃんって泳げる?」


「泳げますよ?」


「ほんと? そんなオーラは出てないけど」


扇ディレクターはジト目でわたしのオーラを品定めしました。


「ではもしわたくしが50m泳げなかったら切腹します。その代わり泳ぎきれたら、今度はディレクターが切腹してください」


「うん、めちゃくちゃ言うね……」


わたしと扇ディレクターの関係は最近結構殺伐しています。だって、ギャラくれないんですもん。ノーギャラはノーリスペクトですよ。


                    米


「じゃ、位置についてー」


そして記念すべき本番、やる気のないアシスタントのかけ声でわたしたちは横並びになりました。泳ぎ方は自由形。アイドルたちが泳ぐ距離は100mです。おのおのおのがじしウォームアップを済ませ、呼吸を整え、万全の態勢でスタートを待っています。このときばかりは5レーンを貸し切ります。すこぶる好奇な周囲の視線は、どうせわたしに集まっているわけもないので無視することにします。


「スタート」


のかけ声とともに、わたしは水の面へ腹打ちで飛び込みました。なぜ飛び込みスタートだったのでしょうか、最悪です。水に呑まれてすぐ、わたしはこれまでならったすべての泳ぎ方を脳内で引きくらべ、とてもこの重たい水のなかをやり過ごせる手段は存在しないと悟りました。浮くことだけならなんとか出来るかも知れません、ですがそれではいっこうに距離は縮みません。進もうと手足を動かすと息が切れて、とても水の中にいられない気分になるのです。

 結局のところわたしは溺れました。泳いでいるように見えたのは、その実もんどり打っているだけなのです。気がつけば足がつかないプールで困り果てていると、隣のレーンにいたアカリさんが寄ってひき上げてくれたのは憶えています。こんなことをいっても、やめないでしょうけど、ひき揚げてくれなくてもべつに構いませんよ。どうせ切腹しますから。


「げほっ……」


せます。

アカリさんが泣きそうな顔でわたしを診ました。


「ごめん、無理させてっ……!」


 もしアカリさんが隣のレーンからわざわざ気づいて救助してくれなかったら、わたしは命をぽろりしていたかもしれません。もうたくさんです。どこかの詩にもこうありました、”体を動かす運動は、わたしのもっともいみきらうところ”。

 ああ、ところでやっぱりそんな顔をしなくていいですよ。アカリさんは。ほんとうに、ごめんなさい――とわたしはか細い声で、あるいは心のなかでそう謝ったような記憶があります。朦朧として。手に手を取られ、謝られる道理のないキリエさんやナナさん、アイコさんから謝罪を受けながら医務室へと運ばれて行きました……。


 その後、わたし抜きで当初の目玉どおりのレースは開催されました。百戦功を経た健康優良なアイドルたちの一本勝負です。

 もちろんリタイア者はなく、順位はナナさん、キリエさん、アイコさん、アカリさんがそれぞれ10秒以内の差でゴールして確定しました。いい絵がとれたんだよね(ディレクター談)。結局、わたしは必要でしたか? という話ですよね。


「はぁ……はぁ……またナナに負けた……キリエにも」


 アイコさんが悔しがります。わたしは水泳部のマネージャーみたいに、試合後のみなさんにドリンクとタオルを運んでいきました。おつぎはナナさんのところへ行くと、泳ぎ切ったあとでもびっくりするくらい笑顔でした。


「わっマヤちゃん! もう全快? ドリンクありがと~」


 ナナさんは背丈こそふつう――キリエさんとアカリさんの中間くらい――ですが、体格の大きく左右するスポーツですら他を圧倒するほどの運動神経を持ちます。ダンスの振り付けをすぐに憶えて正確に見栄えよく踊れるので、いつもステージの真ん中でパフォーマンスをするそうです。今回の1位という結果も、またナナさんの抜群の運動能力を考えれば当然でした。何より証拠が、あれだけ速く泳いだあとにぜんぜん苦しそうな顔をしていません。まるで「カメラの前でそんな姿はできないのよ」とでも言いたげな、言わんばかりの、垣間見えるプロ意識というものにわたしは感服しきりでした。


「ぷはあ。じゃあね、はい、マヤちゃんには初代貧弱女王のタスキを進呈だよ!」


 なんだか悪しざまにけわってはいますが、裏返せば美人薄命といわれているようでそんなに悪い気はしません。よわさにはよわいなりの美しさ、上品さというイメージがブランドとして付随します。

さて、このあとあたりから意識と記憶がどうやら飛び飛びなのではしょって、今回は話を終わらせていただきます。

 車で運ばれておうちに帰ってから、部屋に戻ると、わたしはもうたまらずデフォルメの2頭身になって(人生で初めてなりました)、ベッドにしなだれかかり、うずもれ、その後十数時間、きわめて質のよい睡眠を摂取することができたのでした。

 かくあるように、わたしにとっての幸せの青い鳥は、いつでも自宅の部屋の中にいます。ほんと、嫌気のさすくらい逃げる気のない小鳥たちですね。長い付き合いです。

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