第16話 どっちがほんとう?
「どうしても、君に伝えたいことがあって」
瀬能さんの元父親は、恐るおそるといった感じで話をつづける。
「……伝えたいこと、ですか」
顔がどうしても強張ってしまう
不機嫌さを隠すことができない。
あの日、二人のやり取りを強制的にぶった切ったことに対する恨みでも言いに来たのだろうか。
しかし、瀬能さんの元父親からは、悪意や敵対心のような攻撃的な感情は出ていない。
むしろその穏やかな目からも、丁寧な話し方からも、少しだけ生えている白髪からも、ぱりっと伸びたスーツからも、好意的な印象を受ける。
「響子の父親としてどうすることが正解なのか、ずっと迷っていたんだが」
そう前置きしてから、瀬能さんの元父親は深々と頭を下げた。
「響子のことを、よろしく頼みます」
…………は?
虚を突かれ、口をパクパクさせることしかできなかった。
父親として、なんて言葉をいまさら言ったって遅いんだよ! とか、響子と軽々しく呼ぶんじゃねぇ! とかいった糾弾の言葉は思いついているのに、誠実な態度を見せつけられたせいで、怒りをぶつけてもいいという気持ちにならないのだ。
目の前にいるのは瀬能さんの人生を狂わせた極悪人なのに、どうしてこんな感情を抱くのだろう。
「私はどうやら、響子に嫌われているみたいでね。放っておかれたと思っているのだろう」
顔を上げた瀬能さんの元父親は微苦笑を浮かべた。
そんな顔されたってかわいそうなんて思わねぇからな!
放っておいた、が理由だと思ってるからあんたはだめなんだよ!
二股、DV、モラハラ、養育費未払い、自分がなにをしたのかわかってるのか!
って事実を突きつけてやればいいんだよ俺!
「先日は、離婚する前に約束していた遊園地に、長いこと待たせたけれど一緒に行こうと誘いに行ったんだ」
お前なんかと瀬能さんが遊びに行くわけないだろ!
「ただ……遅すぎた。取り返しのつかなくなる前に、行動を起こせばよかった」
いまさら被害者面すんなよって言えよ俺!
「だから君には響子のことを、私の分まで大切にしてほしい。もし響子と遊ぶ時は、響子が行きたいと言ったところに行かせてやってくれ。お金なら私が用意する」
なんだよそれ。
ふざけんな!
「響子の彼氏の君にしか、頼めないんだ」
「彼氏じゃ! ないです……」
ようやく口にできた言葉が、それ。
情けなさが両肩に重くのしかかる。
「え? 彼氏じゃ、ない?」
「はい。俺と瀬能さんは、友達です」
「そうだったのか。てっきり私は君が響子の彼氏だと思って」
瀬能さんの元父親は、頬を人差し指で恥ずかしそうにかいている。
「だから違います。そもそも彼女と話すようになったのも、最近ですし」
「そうだったのか。……まあでも、別にそれでも構わない」
「え?」
力強い言葉に、顔が引き寄せられる。
瀬能さんの元父親の真剣な瞳に、間抜けな顔をした俺が映っていた。
「君が響子の大切な存在であることに変わりはない。それで、こんなことを頼むのはおこがましいかもしれないが、もしよければ、君が響子と遊んだ時、響子がどんな風に楽しんでるか、その様子を後日教えてほしいんだ。……ははは。ストーカーじみてるとは自分でも思っているんだよ」
自嘲気味に笑ってから、瀬能さんの元父親は視線を落とす。
「でも、響子に嫌われてしまった私には、響子の成長を感じる手段がそれしかないんだ」
「……どうしてですか」
口が勝手に動いていた。
身体の中の、浅いけれどなにも届かない場所に、もどかしさが立ち込めている。
いったいなにを信じていいのか、なにを信じるべきなのか、わからなくなっていた。
「だったらどうして離婚なんかしたんですか」
この人の娘を思う気持ちは本物だと思う。
だからこそ、なぜ最初からその思いを優先できなかったんだという怒りが、徐々に湧き上がってきた。
「なんで、取り返しがつかなくなってからなんて、遅すぎますよ」
そして、目の前の後の祭り男に向けた怒りの矢は、そっくりそのまま俺にも跳ね返ってきた。
俺は、母さんを自殺に追い込んだ自分と、瀬能さんの元父親を重ねている。
母さんを自殺に追い込んだ過去の自分の行動は、後悔してもしきれるものではないから。
取り返しのつかないことを、俺はしてしまっているから。
「それは……本当にその通りだね」
「わかってるなら! 最初からその愛情を娘に向ければよかったんだ! 二股かけて、養育費も払わないで、瀬能さんを不幸にして! いまさらのこのこやってきたって瀬能さんが許すわけないだろ!」
「え? ちょっと待ってくれ」
「待つもなにも、あなたのせいで瀬能さんは不幸に、苦しんで」
「だからちょっと待ってくれ」
いきなり両肩を掴まれる。
ものすごい力だ。
鋭い目つきで凄まれてもいる。
「いまの話、誰から聞いたんだい?」
「瀬能さんが、あなたのことを……そう言って」
「響子が?」
「はい」
「そうか……」
怒りを鎮めるように細く息を吐き出した瀬能さんの元父親は、それからゆっくりと目を閉じた。
こんがらがった考えをまとめているような、そんな雰囲気だ。
「うん。やっぱり、それはおかしい。ありえない」
「ありえないって、どういうことですか?」
「だって私は、養育費を払っている」
「え?」
「払わなかったことなんて一度もない。そもそも私が二股なんてするわけないじゃないか」
瀬能さんの元父親は、強い口調で言い切った。
掴まれている肩から、瀬能さんの父親の手の震えが伝わってくる。
「……でも」
瀬能さんはたしかに言った。
父親は養育費を払っていない、と。
だから自分もバイトをして家計を支えている、と。
「瀬能さんに限って、そんなうそ……を」
あの時の告白は、真っ赤なうそだったというのか。
いや、瀬能さんの怒りや恨みの感情は本物だった。
だけど、瀬能さんの父親の怒りも本物だと思う。
頭の中がパンク寸前だけど、やっぱり俺が信じるのは、信じたいのは。
「ごめんなさい。俺にはやっぱり、瀬能さんがうそをついているようには思えないです」
いまのは紛れもない本心だが、確実になにかがおかしいとも思っている。
なにかが、不自然に捻じ曲げられている気がする。
「……そう、か」
瀬能さんの父親はようやく手を放してくれた。
悔しそうに唇を噛みしめる姿からただよう哀愁に、心が痛んだ。
「じゃあ響子は、私のことを、ずっと悪い父親だと、そう思ってきたんだろうな。君の……言う通りのことを」
「そう、なるとは思いますけど」
俺は、呟きながら思う。
瀬能さんの父親は、どこの馬の骨とも知らない俺に対して、娘のためを思って、深々と頭を下げた。
俺を一人の人間として敬意を持って扱ってくれた。
「養育費だけが、響子とつながる、父親としてできることだと思っていたのに」
俺はますます、瀬能さんの父親と、瀬能さんのことがわからなくなった。
この人が、本当に娘を、家族を、裏切るようなことをするのだろうか。
「私はそのつながりすらも、本当は持っていなかったということか」
嘆きつづけるおじさんに、俺はいつの間にか完全に同情していた。
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