第17話 お母さん

 今日も、彰くんって呼べなかった。


 学校からの帰り道、辻星くんと別れてから、私は心の中でため息をついた。


 タイミングよく信号が点滅しはじめたときの興奮は、完全にどこかへ行ってしまっている。


 今日こそは今日もだめ、今日こそは今日もだめ、今日こそは今日もだめ、を繰り返してはや二週間。


明日香あすか! 早くこっち来いよ!」

「待ってよ祐樹ゆうき!」


 ランドセルを背負った小学校低学年? の男女が私の横を駆け足で通り過ぎていく。


 小学生にだってできることが、私にはできない。


 私より後で辻星くんと話すようになった桐原くんにできることが、私にはできない。


 難しすぎる。


 桐原くんが土下座をして、辻星くんと友達になってもいいか確認しにきた日、私は、勇気を出して彼に訊いた。


 ――どうしたら友達を、名前で呼ぶことができますか?


 それに対する、桐原くんの答えは。


「……そっか。やっぱお前ら、面白いな」

「面白いってどういうこと?」


 さらに尋ねると、俺はそういうもんだと思ってる、難しく考えるようなもんじゃない、って言われた。


 よくわからなかったが、それはつまり。


 ――ただ普通に、名前で呼べばいいんだよ。


 ってことだと思う。


「……嫌いだ」


 辻星くんに、自分を卑下するのはやめろと言われたけど、一人になるとどうしてもその悪い癖が出てしまう。


 心の中で彼を呼ぶ時すら、辻星くんだし。


「……嫌いだ」


 最初は、辻星くんと同じ場所にいたと思った。


 同じ痛みを抱えた仲間のように思っていた。


「……私が嫌いだ」


 でも、辻星くんはどんどん先に行ってしまう。


 変わっていく。


 スカートを脱ぎ捨てて、桐原くんという同性の友達を作り、他のクラスメイトとも馴染みつつあるのが、羨ましくて、ちょっとだけ嫉妬しちゃって。


「……嫌いだ」


 対して、私はどうか。


 辻星くんと出会った日から、なにも変われていない。


 男性恐怖症のせいで、辻星くんに触れることすらできていない。


 それに。


「……どうして」


 辻星くんは私のことを、瀬能さんとしか呼んでくれないのだろう。


 カップルじゃないって否定したし。


 名前で呼ぶのは普通なはずなのに。


 そんなことを考えている間に、もう家の近くまで来ていた。


 角を右折すると、ぼろいマンションが見えてくる。


 辻星くんと初めて会った時――実際は校長室で会っていたから二度目だった――家に送ってもらったけど、住んでいるアパートを見られるのは本当に恥ずかしかった。


「……え?」


 私はそれまでの思考を放棄して、思わず足を止めていた。


 男女が二人並んで、楽しそうにこちらへ歩いてくる。


 会話が弾んでいるようで、前にいる私に気がつく様子はない。


 口内が乾いてのどがいがついたことで、口が開いていたんだと理解した。


「おかあ、さん?」

「あ――」


 満面の笑みで相手の男と話していたお母さんが私を見る。無言のまま眉尻を下げた後、今度は助けを求めるように隣の男性をちらりと見上げた。


「……」


 しかし、その男性はお母さんを見ずに、じっと私のことをだけを見ていた。


 私だって、ずっとその男を見ている。


 顔中シミだらけで髪もぼさぼさだったが、目だけが子供のものであるかのように純粋に光っていた。


「響子。おかえりなさい」


 背景と同化しかけていたお母さんが喋ったことで、ようやく我に返る。


 お母さんはぎこちない笑みを顔に貼りつけていて、はっきり言ってかなり不気味だ。


 お母さんが私の名前を呼んだ時に隣の男が見せた笑みは、それ以上に不気味だった。


「うん。お母さんは? 今日は仕事、休みだっけ?」


 息苦しい。


 吸い込んだ空気が、肺に空いた隙間から体の中に漏れ出しているみたい。


 ってかお母さん、朝、仕事だと言っていたような……あれ? 休みだっけ? よく覚えていない。


 そんなことを考える余裕すらない。 


「え、あ、ああ……うん。急に休みになって。言ってなかった?」

「そう、なんだ」


 じゃあ私の聞き間違いかな。


「響子こそ早いじゃない?」

「今日は六限目がないって、言ってなかった?」

「そうだったの。よかったわね」

「こんにちは。響子ちゃん」


 私たちのぎこちない会話を終わらせたのは、お母さんの隣に立つ男性だった。


 感情の機微がまったく感じられない無機質な声に、背筋がぞっとする。


「はじめまして。僕は近藤こんどう――」

「そう。近藤さんって言うの」


 お母さんが急に言葉を遮る。


 手がわちゃわちゃと忙しなく動きつづけていた。


「近藤さんはお母さんの同級生で、いま、お母さんとおつき合いをしているの」

「え?」


 おつ、きあい?


 お母さんが?


 男と?


「ごめんね。響子には伝え忘れてたわね。実は近藤さん、お母さんの同級生だったの。この間偶然会ってね、そこで意気投合しちゃって」


 お母さんは私に説明しているというよりも、私に喋る隙を与えないために喋りつづけているという感じだった。


「ほら、やっぱりなんて言うの? 響子ももう大きいし、すぐに大切な人がいるって言おうと思ってはいたんだけど」


 喋れば喋るほど、私はなにか隠していますと白状しているようなものだった。


 当の本人がそれに全く気がついていないから少し滑稽だ。


「だからね響子。お母さんも、そろそろ幸せを求めてもいいかしら?」


 お母さんに懇願されるように言われて、なぜかどうしようもなく泣きたくなった。


 そんなこと、急に言われたってさ。


 お母さんには、幸せになってほしいと思うけどさ。


「……ない」

「え? なに?」

「わかんないよそんなの!」


 私は走った。


 アパートの錆びた階段を一気に駆け上がる。


 ガタガタという軋む音は、私の足元からではなく、心の中から鳴っていた。


「わかんないよ。お母さん」


 家の中に入って鍵を掛け、玄関に座り込む。


 お母さんが、男と、つき合う?


 どうして?


 いつも私に、父がどんなに悪い人だったか、男というものがどんなに最低か、言っていたのに。


 あんなにお母さんは男を嫌悪していたのに。


 たまたま再会した程度でつき合うの?


「おかしいよ!」


 頭をかきむしる。


 おかしい。


 五臓六腑がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているかのように、気持ち悪い。


「おかしいよ。お母さん」


 それに。


 あの男。


 あの近藤っていう男は――


「……どうして」


 顔中シミだらけで、髪もボサボサで長かったけれど。


「あの人は」


 なんとなくだけど、私に似ている気がした。

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