第18話 お父さん

「じゃあ、モラハラは勘違いってことですか?」


 そう問うと、瀬能さんの父親は顎に手をやって、低い声で唸った。


「そこは妻の気持ちの問題だから、私がモラハラをしていたかどうかを決めることはできない。ただ妻は、あなたは私の人格を否定した、言葉の暴力を受けたと言うばかりで、それ以外はなにも言ってくれなかった」

「その時にあなたがちゃんと訊けばよかったんじゃないですか? 娘を思う気持ちがあれば、話し合いだって、行動の改善だってできたはずです」

「二人が出て行ったのはいきなりだったんだ。それこそ週末に遊園地に行く約束をしていたんだから。私の言い分をちゃんと聞くからと用意した話し合いの場にも、妻は友達夫婦を連れてきて、結局私にはなにも喋らせてくれなかった」


 瀬能さんの父親の口調に悔しさが混じり始める。


 あれから俺たちは、何度青信号を見逃しただろう。


 鞄の中のコーラは、もう完全にぬるくなってしまっただろうな。


「妻の要求は、離婚と親権、そして養育費をよこせ。これ以上長引かせて裁判や調停になると娘にも証言させなければいけなくなる、それは娘を傷つけることだとも言われてしまっては、父親としてなにも言い返せない。それで二週間に一回は娘と会えるという条件つきで、私は離婚に同意した」


 瀬能さんの父親の話を聞けば聞くほど、俺はどれが真実でどれがうそなのかわからなくなっていった。


「ただ、その話し合いの最中も、妻は一度も娘に会わせてくれなかった。私の知らない間に引っ越しをして、あなたのことが怖いからと引っ越し先の住所すら教えてくれない。だったら近くの駅での待ち合わせでいいと言っても、私が指定した日は必ず用事があって無理だと言ってくる」


 ――養育費だけが、私が響子とつながる、父親としてできることだと思っていたのに。


「妻に都合のいい日程を出してもらって、私がそれに合わせる形で予約を取りつけても、当日になると急に熱が出た、娘がぐずると言って断られる。きっと妻は最初から、私を娘に会わせるつもりなんてなかったんだ。そのうちに、娘があなたに会いたくない、あなたを父親だなんて思っていないと言っていると妻に言われて、ショックでどうしていいかわからなくなった」


 ――響子に嫌われてしまった私には、響子の成長を感じる手段がそれしかないんだ。


「私はただ、娘と話したかったんだ。でも、会わない日々が長引くにつれて、娘の本当の気持ちを知るのが怖くなっていったんだ」


 苦笑いを浮かべてから、瀬能さんの父親は、茜色に染まり始めた空を見上げた。



 ――私はそのつながりすらも、本当は持っていなかったということか。



「それでも私は決意した。いつまでもくよくよしていたって仕方がない。会いたいという思いは募るばかりだったから、とりあえずダメもとで妻が引っ越す前に住んでいた家の周辺を探してみることにしたんだ」



 ――響子のことを、よろしく頼みます。



 瀬能さんの父親は、娘の幸せを願って、頭まで下げて、俺に大事な娘を託そうとしてくれた。


「でも、やっぱり見つからない。そりゃそうだよなと途方に暮れて、ちょっと休もうとコンビニに寄ったら、向かいの塾に入っていく響子を偶然見つけてね。それで塾から出てくるまであの場所で待って、思わず話しかけにいってしまった。そこへ君がやってきて……とまあ、あの日の流れはこんな感じだよ」


 全容は理解した。


 瀬能さんのお父さんがうそをついている可能性はあるけど。


「なるほど。でも……どうしてわかったんですか?」

「わかった、とは?」

「瀬能さんのことです。長いこと会っていなかったわけですよね? しかもその、言い方は悪いですが、いまの瀬能さんは男みたいにも見えるというか」

「たしかにそうだね。響子は立派に成長していた」


 瀬能さんのお父さんはどこか嬉しそうだった。


「でも、私は彼女が一目で響子だとわかったよ。親が娘のことを見間違えるわけがない」

「見間違え、ない……」


 父親とはそういうものなのだろうか。


 男と思われても仕方がないような容姿をしている娘のことを、遠目から見ただけで見つけ出せるものだろうか。


「まあ、案の定、嫌われていたけどね」


 瀬能さんの父親は自嘲気味に笑う。


「でも……それも少しだけ嬉しかった。嫌いという感情でも、私が娘の心の中にいたんだ。忘れられているより、ずっといいさ」

「……ごめんなさい」


 なぜか俺は謝っていた。


 この人がようやく手に入れた娘とのかけがえのない時間を、俺の早とちりで奪ったように感じたからだ。


「君が謝る必要はない。私も緊張と興奮で、あの時は冷静じゃなかった」

「でも……」


 その後の言葉が思い浮かばず、俺は口を閉じてしまう。


 瀬能さんと、瀬能さんの父親と、瀬能さんの母親。


 この家族には、俺の知らない秘密があるのかもしれない。


「いやぁ……本当にすまないね。いきなり知らないおじさんに、こんなに愚痴られてもって感じだよね」

「愚痴だなんて、そんなことは」

「ともかく、これが私の電話番号だ。なんでもいい。響子のためなら私は喜んで協力するから、連絡してほしい」


 瀬能さんの父親が胸ポケットから取り出した名刺を受け取る。


 電話番号とメアド、森本由隆もりもとゆたかという名前、働いている会社名が書かれていた。


「……森本」


 そりゃそうか。


 離婚しているのだから、親子でも名字が違うに決まっている。


 森本響子。


 瀬能響子としての彼女と出会っているから、後者の方がしっくりは来ているのだが、森本響子という名前もそんなにおかしな感じはしない。


「じゃあ私はこれで。本当に、娘を頼みます」


 森本さんは深々と頭を下げて、去っていった。


 一回りも二回りも年下の俺に敬語を使って頼みごとをした男の背中は、遠ざかっているにもかかわらず、いつまでも大きく見えた。

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