第15話 人生の半分

 今日も、いつものように瀬能さんと一緒にお昼ご飯を食べたが、特に変わった様子は見られなかった。


 ――じきにわかる。


 藤二はそう言っていたが、じきに、とはいったいいつのことなのだろう。


 まさか、次の季節と書いて次季なのか?


 あの日から二週間経っても、そんな様子は微塵も見られないんだが?


 むしろ瀬能さんが少しよそよそしくなった気がするんだが?


 瀬能さんは俺を呼ぶ時に、「あの、あ、ああ、あ、辻星くん……」みたいな感じで、すごく言いにくそうに呼ぶようになった。


 しかも、呼んだ後は必ずと言っていいほど声のトーンが下がる。


 なにか言いたいけど言えないことでもあるのだろうか。


 もしかして脇や口が臭いとか?


 それだったらもう立ち直れないよ。


 気になりすぎて不安すぎて清潔になろうとしすぎて、今日なんて、制服に消臭剤を丸々一本使ってるのになぁ。


 全身に制汗スプレーをこれでもかってくらい浴びせ倒したのになぁ。


 そんな感じで、俺は悶々とした日々を過ごしているのだが、瀬能さん以外の人たちとの関係性に焦点を絞るならば、状況はかなり好転していた。


 教室で藤二と話すようになってから、他のクラスメイトたちとも話せるようになったのだ。


 ま、正確には、俺と話している藤二に話しかけにきて、俺はそのついで……みたいな流れなんだけど。


 最初は、なんだこいつらこんな簡単に手のひらクルーかよと思ったけれど、クラスに居場所ができた気がして、ものすごく心が楽になった。


 名簿に名前はあるけれどクラスにはいない人。


 擬似透明人間。


 そこら辺を漂っている空気と同じ存在だった人間からすると、いまのこの状況は、本当にありがたい。


 それに、なんと今朝は、藤二が隣にいなくても、「おはよう」と挨拶してくれるやつも出てきた。


 人気アイドルグループの中でどの子が推しなのかとか、あの漫画読んでないのマジで人生の半分損してるわぁとか、俺はそういう話を時間を浪費するだけの無駄話だと思っていたけど、そのなんの意味もない無駄話は、俺にとってすごく新鮮に映った。


 無駄を楽しむことは、幸せの上位に位置する行為なのかもしれない。


 いままでバカにしていたのは、自分が手に入れられないものだと羨んでいたからにすぎなかったのだ。


 いや、よく考えると「人生の半分損してるわぁ」って言われたら普通にムカつくし無駄だって思うわ。


「じゃあな、彰。今日も彼女と帰りか?」

「だから彼女じゃないって。藤二も部活がんばれよ」


 体育館に向かう藤二と別れ、俺は校門へと急ぐ。


 門の前で待っている瀬能さんは、誰も寄せつけない孤高のオーラを放っているが、俺に気がついた途端、一気に表情を緩める。


 ほんと、癒されます。


「ごめん。待った? ちょっとだけホームルームが長引いてさ」


 瀬能さんのこの魅力的な笑顔を見られないなんて、みんな人生の半分損してるよなぁ。


「ううん。私もいまきたところ」


 それから、いつものように瀬能さんと一緒に下校する。


 数学の授業が面倒だっただの、化学の先生のダジャレが今日も寒かっただの、瀬能さんとの会話はどんな内容でも最高に楽しい。


「あの、あ、ああ、あ、辻星くん……」


 もはや御馴染みとなっている、そのぎこちない呼び方をされると、心が少しだけ萎むけれど。


「なに?」

「たいしたことじゃ、ないんだけどね。なんていうか辻星くん、最近明るくなったなって思って」

「うそ? 高校生にしてもう禿げだしちゃってる?」

「だとしたら、それを明るくなったって表現する私、伝え方下手すぎない? 大丈夫? いまはお医者さんに相談するのがいいって聞くよ」

「禿げてるってことをまず否定してよ!」


 ショックを受けたような表情をすると、瀬能さんが楽しそうに笑ってくれる。


「ごめんごめん。でも、私が言いたいのはね、移動教室の時に二組を覗くとさ、辻星くん、いまみたいに誰かと楽しそうに話してるから」

「そう、だっけ?」


 思い返してみて、まあたしかにそうだなと納得する。


 クラスで誰かと話している、が俺の中で普通になっていたことがすごく嬉しかった。


「うん。だから私も、そんな辻星くん見てるとね、変わっていく辻星くん見てるとね、すごく嬉しいって思う」


 首をこてっと傾けて笑う瀬能さんを見て、血の巡りが時速三百キロにまで到達した。


「たしかに最近は、学校がすごく楽しいって思えてるかもしれない」

「私も辻星くんがいるから、毎朝起きて、お弁当作って、学校行ってが、すごく楽しくなったよ」

「それはよかった」


 そんなことを話しているうちに、瀬能さんと別れる交差点に来てしまった。


「私こっちだから」

「ああ、じゃあまた――」


 俺が手を振ろうとしたとき、運悪く青信号が点滅し始める。


 それを見た瀬能さんは急いで渡ろうとせずに、俺の隣で立ち止まった。


 走れば間に合ったとは思うが、そういう律儀なところもまた素敵だ。


 話す時間も増えたしね。


「タイミング悪く赤になっちゃったね」


 俺にとっては、タイミングよく赤になったの間違いです。


 再度、信号が青に変わり、瀬能さんは改めて俺に手を振りながら横断歩道を渡り始める。


「今度こそ、また明日ね」

「また明日」


 俺は、瀬能さんが横断歩道の先の道を右に曲がるまで見送ってから左折する。


 喉が渇いたので近くのコンビニでコーラを買った。


 炭酸の爽やかな刺激が喉に心地よい。


 飲みかけのペットボトルを鞄にしまい、コンビニの前の横断歩道で信号待ちをしていると。


「……あの、ちょっといいかな?」


 背後から声を掛けられた。


「はい?」


 知らない声だったので、道でも訊きたいのかなと思いながら振り返る。


「すまないね。いきなり話しかけてしまって」

「…………あ」


 お前は、と思わず言いそうになってしまったが、その言葉は喉元で止まった。


 目の前に立っているスーツ姿の男のことを、俺は忘れもしない。


 バイト終わりの瀬能さんに絡んでいた、彼女の元父親だ。


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